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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
三章 風吹く里
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 その後、イェンロンは少年たちの首根っこを掴んで自宅へと引き連れていった。

 家に戻ってきたラウの怪我を見てユフェンは気を遠くしかけたが、すぐに包帯と布を引っ張り出す。血に怯え指先を震わせる彼女に代わり、彼の腕に包帯を巻きつけるのは彩香の役割になった。

 水で土を流し、布を用いて止血する。それからなるべく手早く包帯を巻く。ラウはその間、苦痛に声を漏らすこともなく彩香の処置を見つめていた。

「手慣れている」

「え?」

 訊き返した彩香から顔を逸らし、彼はゆっくりと手のひらを開閉する。ぎょっとして動かさないようにと告げると、素直に従って右腕を放りだした。そのことに安心し、彩香はそっと目を伏せる。

「……梅の紋は、もともと薬師の家だったの。もう名ばかりの役割だけれど、肝要な薬の扱いと応急処置の仕方だけはずっと受け継がれていたから」

 苑からのみでなく、朝妻に仕える薬師、ときには父である朝妻知治から直々に手ほどきを受けることもあった。だがその知識と技術は、屋敷に生きる彩香には本来縁のないものだ。家の継承ばかりが切々と意識される時間は少女の身には煩わしく、重いものでしかなかった。

 不自然に開いた沈黙が彩香の胸の奥を握りつぶす。無言が苛むためのものでないと知っていても息苦しさは収まらない。ユフェンが部屋を離れてしまったがために助けを求められる相手はおらず、彩香はもう何度目かになる薄い呼吸をした。

「すまなかった」

 ラウが言葉を発したのは、そのときだった。

「声を荒げすぎたかもしれない。場所も考えなかった」

「そんなこと……!」

「だが、取り消すつもりは、ない。間違ったことを言ったつもりもない。それは理解してほしい」

 彩香は顔をくしゃりと歪め、小さくうなずいた。ごめんなさいと一言つぶやくと、ラウがようやくうなずきを返す。彼のこわばっていた表情がうっすらと柔らかさを取り戻すのに、彩香は目頭が熱くなるのを感じていた。

「腕、本当に。ごめんなさい」

「俺の腕は戻ってくるが、あなたはいなくなったら戻ってこない。怪我の痛みはやがて消えるが、喪う痛みは決して消えない。……そういうことだ」

 彩香の頬の傷を指でなぞって、無事でよかった、とラウは目を細める。

 求めた金、天虎の色だった。

 勢いのまま伸ばしかけた手を理性で引く。彼の怪我の存在が頭になければ、そのまま体を投げ出していたかもしれなかった。両の指先を制するように握り合わせて、漂う無言を飲んだ彩香は口を開く。

「不謹慎かもしれないけれど、ね。嬉しかったの。あなたが私を叱ってくれたこと」

「叱られたことがないのか?」

「あるわ、もちろん。でもそれは私ではなくて、朝妻の後継ぎに向けたものだったから」

 慎みと教養と、いくつもの言いつけを負って暮らした日々はもう帰らない。壁を出て、平原を抜け、辿りついた天虎の里で初めて知った安心と痛みは、他ならぬ彩香に与えられたものだった。

「……ラウ。私、あなたの家族になりたい」

 満月のように丸くなった瞳に笑いかける。

「天虎の里にあなたと生きて、笑っていたい。私があなたの傍にいて、あなたの目が、……その綺麗な目が私を見ていてくれるなら、それだけで、きっと誰よりも幸せになれると思う」

 ――ねえ、ラウ。

 穏やかに、されど華やかに、ほころんだ李花のようにと願う。美しい自分でありたいと思ったのは初めてだった。

「私は、ここにいてもいいかしら」

 優に一呼吸、置くほどの無言をまたいで。

 嘆くように大きくため息をついたのはラウだった。あまりの反応に彩香は頬を膨らませるも、「参ったな」とこぼした彼が眉を八の字にするのを見て、飛び出しかけた文句は呼吸に融けた。

「あいつには足をくれてやればよかった。左手一本では、あなたを抱きしめるには少し足りないかもしれない」

「や、やめてちょうだい、あなたの腕が」

「聞かない」

 制止を遮って、無傷の左腕が伸ばされる。彩香が身を引いたせいで空を切りそうになった指先が、すんでのところで髪に触れた。梳くようにさらって、その先を捕らえる。愛おしそうに指先でもてあそぶので頭がかっと熱くなった。

「は、離し、て」

 声がおぼつかない。情けないことだと思いながらも逃げ場を探した。左右に揺れる彩香の視線に何を受けとったか、にじり寄ったラウの目には面白がるような光があった。

 そこで直感する。今まで無自覚だとばかり考えていた、彼の唄うような遊ぶような言葉の数々――彩香の胸の奥を風のごとくかき乱していったあれらは、どれもみな意図あってのことだったのだ。今や彼は猫のようで、追い詰めた獲物を見る目は爛々と輝いている。まずい相手に手を出したらしいと後悔しても後の祭りだ。

 ――食われる。

 喉の奥で空気が漏れる音がした。にっこりと笑んだ彼の左手が再度掲げられる。

 たあんと高い音を上げて引き戸が開かれたのは、その指が触れる寸前だった。動きを止めた二人に、呆れきったユフェンの目が向けられる。

「客人です。居間に通しておきましたので、すぐにお相手を」

 心なしか声が冷ややかだ。彩香にとって救いの手には違いないが、言い繕うだけの言葉も出ない。一方でラウはなんでもないことのように彼女をふり返ると首をかしげた。

「相手は」

「双子です。イェンロンからこちらにも顔を見せるように言われたそうで」

「……そうか」

 ラウは瞬く間に表情をそぎ落とし、腰を浮かす。そのまま部屋を出ていこうとするも、ふと思い出したようにふり返って、頬の赤みが抜けない彩香の頭を軽く撫でた。

「行ってくる。話は聞いていても構わないが、あなたはここに。……あと」包帯に包まれた右手を揺らす。「これはもう一度巻いてもらうことになるかもしれない。そのときは、頼む」

 意味が取れずに目をしばたかせた彩香の前で、引き戸が静かに閉められた。

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