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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
三章 風吹く里
13/27

 年中行事や山の精霊のことについて言葉を交わしたあと、彩香は頃合いを見て老婆に別れを告げた。

 彼女に見送られて家を出るが、そこに待っているはずのラウの姿はない。先に帰るようなことはしないだろう、と思えるほどには彼を信用していた。後ろ手に引き戸を閉めたきり、彩香は月明かりの下で立ちつくす。

 春が近いとはいえ夜風はまだ冷えている。腕をさすりながら暗がりに目を走らせていると、両手に何かを吊り下げたラウが道を歩いてきた。遅れて彩香に気付き、彼は足を速める。

「すまない。待たせたか」

「いいえ、あまり」

 首を振って、ラウの手元に顔を向ける。「それは?」と問うと、彼はそれを掲げて見せた。

 朱の杯と、紐で吊り下げた瓢箪ひょうたんだ。軽く揺らすと中から水音がする。中身は想像するまでもなかった。

「お酒?」

「ああ。月が出ているからユフェンに頼んできた。雲も少ないし、こんなに晴れた日が続くと気分がいい。一緒にどうだ」

 老婆の言った通り、消沈しているということはなかったらしい。開いた時間を利用して酒を注いできたというのは、薄情なのかそれとも気分屋なのか。

 屋敷から脱出する際にも、彼は月見酒を飲みたいと漏らしていた。彩香は思い出して口元を緩める。それは当然のように二枚用意された杯に気を良くしたためかもしれなかった。

「残念だけど、私、お酒は飲めないの。あまり強くないから」

「そう、か」

 眉を下げたラウだが、すぐに大きくうなずいてみせた。

「なら傍にいてくれるだけでいい。花があれば酒の味も違う」

 彩香は少しの間絶句して、もぞもぞとラウから目を逸らす。臆面もなく言われては、どんな顔で受け取ればよいのやら分からないのだ。ええと、と間を置いて、どもりながら答えた。

「私で、よければ、付き合うけれど。そういう言い方はよしてちょうだい。身が持たないから」

「そういう?」

 首をひねられる。意識もしていないのだと理解して彩香はため息をついた。そういう相手なのだと割り切れば幾分か楽になるだろうと考え、一歩だけラウに近寄ると、彼は瓢箪と杯を下げた。

「立って飲んだりはしないんでしょう?」

「うん? ああ、もちろん」

 ラウが案内したのは、村のはずれにある一本の木の下だった。

 いくつか固い蕾をつけたその木は、低い背丈の代わりに太い幹をもって大地に腰を据えていた。そこは耕作地の端にあたり、何列もの畝を挟んだ先には里の家々が立ち並ぶ様子を眺めることができる。反対側に目を向ければ遮るもののない平原が続き、その頭上には星々を散りばめた天球が広がっていた。

 中天を過ぎたあたりに浮かぶ月に向かってラウは腰を下ろす。心なしかうきうきとした様子で杯を手にし、いくらか考えてから彩香に瓢箪を手渡した。そうして片手に支えた杯を無言で差し出す。

 注げというのだ。その意を読み取って瓢箪を傾けてやれば、透明な滴が流れ落ちる。底の浅い杯になみなみと酒が注がれると、ラウは嬉しそうに目を細めた。一度彩香に杯を掲げ、一口すすって目を閉じる。うん、と呟いてから、少しずつ中身を空にした。

「あなたの隣で酒を飲む日が来るとは思わなかった。夢のようだ。彩香、俺は本当に目を覚ましているか?」

「それはさすがに大げさだわ」

 夢見るほどの歳月を共に過ごした覚えはなく、それほどの想いを抱かせるようなことをしたつもりもない。冗談だと思って小さく笑ったが、ふと見やったラウの横顔には憧憬と感慨がたたえられている。

「彩香」

「あ……お酒、ね」

 もう一度、今度は自然に差し出された杯に酒を注ぐ。その際に立ちのぼった香りだけでくらりとするような感覚に襲われた。天虎の酒は華のものに比べてきついのだろう。小さな杯に一杯でも口にすれば、慣れない人間ならすぐに酔いが回りそうなものだ。

 木の幹に背を預け、片膝を立てながら、ラウは杯を傾ける。二杯目を流し終えたところで手を止めた。

「十年、いや、十五年。もっと長かったかもしれない。これを死ぬまで抱えていくのだと思っていた」

 いくらか酔いが回ったのだろう。ラウの声には曖昧さが混じっている。それを自覚しているのか、もう一杯を催促することはしなかった。

「……あなたに会ってから、十数年。ずっとだ。俺は」

「ちょ、ちょっと待って。私、そんなに昔にあなたに会ったことなんてないわ」

「忘れているだけだ。俺はよく憶えている」

 断言される。彩香は焦って思い出そうとするが、十五年前ともなれば、それはまだ自分が年端もいかない頃のことだ。母の死の衝撃も手伝って、幼い頃の記憶は曖昧にしか残っていない。

 とはいえ、そのことがラウの言葉を肯定する材料になることはない。彩香が朝妻の屋敷にこもりきりなのは生まれて以来変わらず続いてきたことだ。華の外の者、それが天虎の子供とはいえ、ひとりでも屋敷に迷い込もうものなら、すぐに父や使用人に見つかっていることだろう。

「人違いじゃないかしら」

 疑念と共に言うと、くつくつと笑われる。

「いいや、あなたで間違いない。着物にかんざし、長い髪――」

「そんな人なら、いくらでも梅の紋にいるわ」

「証拠ならまだある」

 杯を下ろし、ゆるく笑んで、息を吸った先に流れ出すは歌声。


 ――憂うる人よ 乞う人よ

 汝が歌は誰が為に

 哀悼流る霊山を 我らひととせ守りなむ

 霊山のもと生を継ぐ

 霊山のもと生を継ぐ――


 懐かしい、と思うのは、それに聴き覚えがあるからだ。

 唄が記憶を掘り起こすことはなくとも、過ぎ去った遠い春の日、確かに耳にしたことを憶えている。長くその主も詞も思い出せないままで口ずさんだ唄。彩香がそれを彼の前で唄ったことも、そう過去のことではない。

「天虎に伝わる送り唄だ。死して山に帰った者のために唄う。華の人であるあなたが、知るはずもない」

 けれど彩香は知っている。詞の意味を知らない子供であっても、その旋律だけはと耳に刻みつけたのだろうか。おぼろげにも残っていない幼少期の記憶の中に、本当に彼の姿があったとしたら、幼い少女の目にはたいそうもの珍しく映ったに違いない――それでも。

「……ごめんなさい、憶えていないわ」

 そこにどんな姿の子供がいて、どんな会話が交わされたのかも。

 うつむいた彩香に「構わない」とラウは言う。足を引きよせてあぐらをかいた。

「嘘でないと、分かってくれれば。それでいい」

 同じ言葉を今朝も聞いた。

 嘘ではない――信じた瞬間、意識した。落ち着きなく彩香は視線をさ迷わせる。酔ってもいないのに頭がうまく回らなかった。愛や恋と名のつく好意を向けられるのは初めてで、受け止め方が分からない。しかし一方で微かに酒の回ったラウが、戸惑う彩香に容赦をすることはなかった。

「だから俺は、あなたに居場所を与えたい。天虎の里、ここがあなたの家であればいい。そして俺があなたの家族であればいい、そう思う。俺はそうありたい」

「……っ、その、言い方。まるで求婚だわ」

「もちろん。そのつもりで言っている」

 感覚もないほどに熱くなった頬の熱をどこかへ逃がしたい。しかし逃げ場を探そうにも、彩香を見つめる静かな金の瞳がそれを許さない。今にも卒倒してしまいそうな彩香の混乱を、速くなる心臓の鼓動が高めていく。

 先に目を横にやったのはラウだった。そのことに深い安堵を覚えて、彩香は長く細く息を吐き出した。片手に握っていた瓢箪を無意識に胸に抱く。微かに聞いた水音に神経をとがらせて、少しでも安静を取り戻そうとしていた。

 ラウが口を開く。びくりとした彩香だが、話題はとうに逸れていた。

「天虎にも、少ないが子供がいる。ここは華から断絶されているから、華学を学ばせる機会は無いに等しい。今まではそれでも問題はなかったが、これからはそうもいかない。華に連れて行かれてよく分かった」

「で、でも、言葉が通じないわけではないでしょう。ここで生活ができるなら十分じゃないかしら」

 糸を紡ぎ、布を織る。板を組み上げて家を作る。畑を耕して作物を作り、狩りに出かけては肉を得る。教養が無くとも暮らしは営まれる。逆に華学と礼法ばかりに心を傾けてきた彩香には、包丁を握ることもままならなかった。

 天虎に生きる子供たちが得るべきなのは、天虎としての生き方であり、知ではないか。里を訪れたばかりの彩香はそう考えるが、ラウは首を振った。

「天虎は確かに、強い。武器を持っても、持たなくとも、華の者たちに屈することはないだろう。だが、それも今のうちだけだ」

「……今のうち、だなんて」

「俺たちが狩りをし、壁の外で暮らす間に、華の者たちは着々と学びを昇華させていく。いずれ天虎すら圧倒する力を身に付けるかもしれない。いいや、必ず身に付けるだろう。そのときに俺たちはどうする、無心に刃を研いでいることが本当に最善策か?」

 違うだろう。ラウは言って、目を眇める。

「話し合い、融和しなければ、俺たちは生き残れない。そのために必要なのが華学ではないかと俺は思う。それを、あなたに頼みたい」

「……私?」

「子供たちに華学を教えてやってくれないか。俺は、あなたが適任だと思う」

 少しの間黙り込んで、思い浮かんだのは老婆との会話であった。

 役割を求める自分。それは正しいのだろうと考えていた。天虎に受け入れられ、暮らすということは、そこで自らの役割を果たすということだ。思い至って、彩香は首を縦に振っていた。

 ラウが満足そうにうなずき返し、杯の口を拭う。

「さて、そろそろ帰るとするか。遅くなるとユフェンがうるさい」

 そうねと返して立ち上がる。服の土を払って待つが、ラウはいつまで経っても腰を浮かさない。彩香がきょとんとして見つめると、彼はやけにまじめくさった顔をして彼女を見上げた。

「どうやら立てそうにない。手を貸してくれないか」

 彩香はためらいなく手を出そうとして、しかし彼の手に触れる寸前で引いた。じっとりと睨みつけて声を低くする。

「あなた、そんなに酔っていないでしょう」

「……はあ、まったく、いい目をしている」

 真剣な表情で長々と会話をしておいて、今さら立てないということはあるまい。悪戯を叱られた子供のように顔をしかめたラウは渋々と言った体で立ちあがる。その動きには微塵もふらつく様子がなかった。

 仕方なしに先を行く彼を追いながら、彩香は深いため息をついた。

「あなたが嘘をつかないというのは、少し、疑ったほうがいいかしらね」

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