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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
序章 虎風山のふもと
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 獣ではあれないことを知っていた。

 彼に纏わりついていたのは、白銀に染まらんとする月の色とけぶるような夜の闇、しなやかな獣らに比べても遥かに肉付きの悪い体だった。そのうえ己が二本足で立ち上がれるということを知ったときは、彼の中には驚きよりも先に恐怖が立ったものだ。

 彼は月光に吼える声を持たない。獲物を食いちぎる牙も、切り裂く爪もない。獣に育まれて命を繋いだ。故に共に歩む道を模索したが、持って生まれた体の違いがそれを否定したのだ。

 人に捨てられたときのことは憶えていなかった。だが、獣と生き、自らを悟り、こうして袂を分けたことを、彼ははっきりと記憶に残すことになる。

 天虎族の老婆がそんな傷だらけの子どもを拾ったのは、月の輪が囁く晩のことであった。


 ――憂うる人よ 乞う人よ

 汝が歌は誰が為に

 哀悼流る霊山を 我らひととせ守りなむ

 霊山のもと生を継ぐ

 霊山のもと生を継ぐ――




 霞が山脈を包んでいた。茫洋と広がる天と地の境界で、草木のない山肌が荒い岩壁をむき出しにしている。

 吹き付ける風は強い。気を抜けば足許もおぼつかなくなる。だが、ひとたび足を踏み外せば待っている未来は火を見るより明らかだった。華の者の訪れないこの虎風山に柵などというものが備え付けられているはずがない。急な斜面を転がり落ちて命を保てる者が、大陸じゅうに果たしてどれだけ存在しようか。

 その中腹の岩壁に手を掛け、足を突っ張って、青年は、爛々と光るまなこで眼下を見おろしていた。山の傍らを流れゆく風が霞を南へ連れてゆくものの、一時として視界が晴れることはない。どこからか無限に湧き出す霞はもはやこの山の一部、山脈の同胞であった。

「風は強いが……これならすぐに」

「弱まりますか」

「いや、凪ぐな。完全に止む」

 背中の声に振り向くことなく、青年は応えた。

 風に前触れはない。勢いを増すも落とすも風任せ、命あるものは身を任せるのが常だ。依然として吹きすさぶその流れを視界に入れつつ、青年は大きく伸びをする。

 瞬間、悲鳴のような音を立てて、いっそう強い風が山を叩いた。おっと、と気の抜けた声をあげた青年は、しかし危なげもなく山に手を置いて風の鞭に耐える。その暴力が収まったとき、風は嘘のように凪いでしまっていた。満足する様子もほどほどに青年はうなずく。

「よし、狩りに行く」

「供には双子をお連れに?」

「そうだな。やんちゃ盛りのあいつらのことだ、残したらあとで拗ねるだろうから」

 青年が肩をすくめると、笑声が漏れる。彼はそこに至って初めて体を反転させた。付き添っていたのは、唇に薄く紅を差した妙齢の女性だ。普段こそ裾の長い服を好んで着ている彼女だが、さすがに山を登るのには不適だと考えたのだろう。いまは少年のような服装で立っている。

「なにを着ても似合うな。男衆が放ってはおかないだろう」

「見え透いた世辞をありがとうございます、長。あいにく、きちんと心に決めたお方がおりますので」

「俺じゃないだろうな」

「まさか。自惚れもたいがいになさいませ」

 にこりとしたまま辛辣なことを言う。青年はのどの奥で笑った。

「チュオか、ハンクーか、イェンロンか。さて誰のことかな。まあ誰にせよ、めでたいことだ。子が生まれれば里も賑やかになる」

「私などより、ご自分のことをお考えになってはいかがです? まだお相手も決まっていらっしゃらないでしょう」

「ああ、いや、それは」

 女性が眼光を鋭くしたので、青年は曖昧な返事をして顔を逸らす。その逃げの一手を彼女は許さなかった。柳眉を逆立て、ずい、と前に出る。

「今年で齢二十七。お分かりですか、もう子を成していてもおかしくない歳です。それが長、あなたときたら毎日やれ狩りだのやれ華学だの。いつになったら嫁取りをなさるおつもりですか」

 小言を浴びせる彼女のほうは、未だ二十二の娘である。十八を過ぎれば一人前とされるとはいえ、青年よりはまだいくつも年若い。

「聞いておられますか、長」

「……ばば様に似たのか、その小言は。老けて見えるぞ」

「なっ……今なんて言いました!?」

 にじり寄った女性に肩をすくめて見せる。

 それから青年はわずかにかがみこんで反動をつけると、ひょいと跳び上がった。軽やかに浮かんだ体は彼女の頭上を越え、その背、彼にとっての退路に着地する。細い山道を器用に駆けつつ、首だけを後ろに向けて叫んだ。

「ユフェン、留守は頼んだぞ!」

「長!」

 ひときわ大きな声での制止を振り切って、霞のなかに消えてゆく。影となって消えた青年を、ユフェンと呼ばれた女性は唇を尖らせたまま見送るほかになかった。

 あのように命知らずな真似をするのも、それを可能にするだけの身体能力があるからだ。身軽な天虎族のなかにあっても彼の身のこなしの軽やかなことは群を抜いていた。もし相手が常人であったなら、山は獰猛に牙を剥いていたところだったろう。

 ――この山には、虎が棲む。

 ただの虎ではない。二対の琥珀を瞳に持つ、金目の虎だ。かつて太古の神仙を喰らい、人智すら遥かに超えた理知を手にしたという。やがて金目の虎が棲む山は虎風山と呼ばれるようになり、人はその山を畏れ近づかなくなった――華の者であれば誰もが知る昔語りであり、それ故に信憑性の欠片もない話であった。言うことを聞かない子供を脅すために語り聞かせる類のものだ。相応に年をとり、教育を受ければ、幼い頃に聞いた物語など信じる者はいない。

 皮肉なことに、昔語りの有無に関わらず、虎風山は人を寄せ付けぬ山だった。ふもとからは頂を臨めないほどの高度が、異人を拒絶するからだ。

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