図書館のアリス
心地よい風が、よりいっそう眠気を誘う。
手にした本の上の文字を目で追う気にもならず、俺はぱたんと音を立てて閉じた。
「あら、眠いの?」
「あー、ちょっと……」
背後から聞こえてきた声に応えてから、ふと思う。
この空間に、自分以外の人間が居るはずはないのでは、と。
では、今の声は?
「…………」
振り返る。
「どうかしたの、お化けでも見たような顔をして」
そこにいたのは、少女だった。
できればあまり会いたくなかった分類の。
っていうか、なんでここに。
彼女の居場所は、地下深くにそびえるトロエベット・ハート・オロイラ伯爵邸ーーいわゆる、チノイロ屋敷ではなかったか。
「そんなことないわ」
彼女は言う。
「私、貴方に会うためならなんだってするもの。物語を書き換えてでも、貴方に会いに行くわ当然よ当然でしょうだってだってだってだって」
「貴方は私の絶対で完璧に究極な運命だもの、ねぇ?七夜さん」
たおやかな手が、白い指先が此方へ伸ばされて。レイライン・ハート・オロイラさんは、静かに笑った。
気が狂っているような、簡単に言うとヤンデレ(デレがあるかは不明だけれど)みたいな、恐怖しか生まない笑顔で。
さて、この後俺は、何をするでしょう。
答えは一択。
「ーーーー!」
逃亡、のみだ。
俺を呼ぶ声がする。覚醒間近の戦隊ヒーロー的な意味じゃなくて、もっとリアルな感じで。
一瞬たりとも速度を落としたくないから確認する術は無いけれど、気配で察する限り、最悪にも彼女は追ってきているようだ。
なんて、運のない。
誰がって、俺が。
日頃の運動不足が祟っているのか、足が動かない。昔ならもっと、なんて年寄り臭いことを考えた。息は上がるし、脇腹は痛いし。ああほら思考まで麻痺してきて、白兎の幻覚がーーーー
……ん?
白兎っていうかアレ、人間じゃねぇ?
いやいや、人間は人間でも、あの後ろ姿は。
まて。
そうだ、深呼吸しよう。
落ち着いて、冷静に、状況を把握するのだ。
目を閉じる。
吸って、吸って、吐いて。
ラマーズ法の逆バージョン。
走りながらだと意外に辛い。
とはいえ、多少のクールダウンには成功した。
目を、開ける。
眼前、20M程度先の白いシルエット。
時間を気にしているのか、しきりに懐中時計を眺めて。
風に揺れる、長い耳。
そう、それはまるで、白兎。
白兎によく似た格好の。
「ーー……」
婚約者、だった。
誰のって、俺の。
頭が痛くなりそうだ。
いや、似合ってないとかじゃなくて、むしろ可愛ーーーーって何言ってんだ俺。
一体、これは、どういう。
「どっかにこんな話あったよな。白兎追いかけて、不思議の国に」
現実逃避、なのだろう。
全然笑えない現状に笑いつつ、どうでもいいことを思う。
あれだけ急がせていた足も止まってしまって、追いかけてくるレイラインさんの恐怖とか、“白兎のコスプレなう”な婚約者のこととか、考えないといけないこと全部考えられなくなった。
と。
「ネェネェ、アソボーヨ」
いつの間にか目の前に来ていた婚約者白兎が、不気味な声色で言う。
近い近い。つーかあの、さっきから気になってたけど、今朝会った時より縮んでませんかね?
あ、ちょっとちょっと押さないで。
ん?傾いて、る?
気付いた時にはもう遅い、と言うか。
ぐらぁと斜めった体に違和感を覚え、足元を見た俺の目に映ったのは、先程までは無かった大きな大きな穴だった。
落とし穴のレベルがカンストしたらこんな感じなんだろうか。そもそも落とし穴にレベルなんかあんのか。
なんてツッコミ入れる暇もなく、順調に落下していく俺。
あ、思い出した。
白兎を追いかけて、穴に落ちて、不思議の国にいく話。それも最近聞いたばかりの、ルイス・キャロルの代表作。
『不思議の国のアリス』
まさか、いや、まさか。
でも。
さてさて皆様。
俺、文月七夜は、村人F希望という主義を裏切り。
主人公として、よくわからない事情に巻き込まれたらしいです。
ーー誰か説明してくれ、マジで。
水を飲んだり、ケーキを食べたり。
大きくなったり、小さくなったり。
“誕生日じゃない日乾杯!”なんて、自分の誕生日知らない癖に言ってみたり。
紫色の意地の悪い猫はアリスさんが、いかれた帽子屋はトーマさんが。料理人の双子はトランプ兵になって、一心不乱に薔薇を赤く染めていて。
そんな風に不思議の国を満喫している内に、わかったことがある。
一つは、この世界は予想通り『不思議の国のアリス』であること。
そしてもう一つは、キャラクターの殆どが俺の知り合いであるということだ。
チェシャ猫も帽子屋もトランプ兵も、白兎もどうだった。けれど疑問に思っている人は誰一人いないようで、俳優もびっくりな演技力でキャラクターになりきっている。
しかも、俺は主人公アリスの役で。
こんな存在感薄い奴に一番面倒臭いのが当てられてるってどういうことだ。
試しに職務放棄というか、何も行動せずにいてみたけれど、それでもストーリーは勝手に進んでいった。時には強引に、ある時は自然に。
これが主人公補正ってやつか。いやいや、大きなお世話だ。
さて。
俺は今、なんやかんやでハートの女王の城の内部にいる。過程はよく覚えていない。多分例によって、ストーリーに流された結果なのだろう。
『不思議の国のアリス』を実際に読んだことはない。ただ、ハートの女王がラスボスっぽいことは知っていた。つまりこのまま流れに身を任せていれば、もうすぐフィナーレが訪れる訳だ。ここから抜け出す方法は、今のところそれしか思いつかない。
が。
正直に言おう。
嫌な予感が、している。
なんでって、決まっているだろ?
俺の中でのラスボス的ポジションであり、最も厄介なあいつが未だ出てきていないからだ。
あいつがキャスティングされていないなんてことはありえない。
けれど、残る主要キャラは一人。
ハートの女王。
赤。
赤の、探偵。
「………………いや」
いやいやいやいや、と否定する。
もしかしたら俺が気付いていないだけで、どこかでもう登場しているのかもしれないし。あれ、これってフラグか?フラグ建てちゃった感じか?
だって、なぁ。
万が一にも昔からの友人が女王になって出てきたら、どうしていいかわからんよ。それに『不思議の国のアリス』におけるハートの女王って、我儘で、性格のキツいキャラクターだったと思う。確か、すぐ「首をお跳ね!」って言うイメージ。
そんなのを、灰が?
笑えない冗談だ。
「とはいえ、まぁ、行かなきゃ進まない訳で。すっげぇ行きたくないけれど」
自己完結。
そうして俺は、しぶしぶ目の前の扉を押し開けた。
赤。
赤く赤く赤く赤い、ところどころに黒いラインの入った、豪勢でシンプルなドレス。
赤い髪、赤い目。
ただそこに、右腕だけが欠けているーーーーって
「何やってんの、お前……」
やはりというか、想像以上というか。
威圧感のある玉座に不遜な態度で腰掛けていたのは、今で言うゴスロリみたいなドレスに身を包んだ件の名探偵だった。
頭痛い。
「うるさいな、僕だって好きでやってんじゃないんだよ」
「そりゃそうだろうけども……って」
意識あんの?
と問うた俺に、珍しく不機嫌な表情を全面に出した灰は、いつもより数段低い声で言った。
「あるに決まってるだろ。自分の異常に気付かない程鈍感ではないよ」
「いや、気付いてない人結構いたって。ーーじゃなくて、それならなんでまだ女装してここにいんの」
「君が物語通りにここに来たのと同じ理由さ。世界の強制力とでも言うのかな。そっちはある程度の自由意思が通用するみたいだけれど、僕に至っては、こうやって口と喉を動かすので精一杯だ。思考すら制限されてる感覚がある」
「まじかよ。なんで俺だけ、」
「……わかってないね」
「この物語の元凶が君だからだよ」
「はい?」
「まぁ、女王との謁見はラスト近くの場面だ。もうすぐ終わることだし、今更どうこうする必要もないだろうけれど。君はただ大人しく流されてなよ。その方が早い」
ふぅ、と溜め息を吐きながら足を組む。
何度となく見た映画を再び見せられてる時みたいな、つまらなさと面倒臭さの入り混じった態度をとってる灰はいつになく不機嫌そうで。
ふと目があった途端、
ーー嫌な予感がした。
「あの、灰」
「そうだねぇ、僕がこの不愉快極まりない状況から脱するには、君にさっさとゴールして貰わなきゃなんないんだから、」
「え、いやいや、さっきは“流されてればいい”とか言ってなかったっけ……?」
「そうだよ、“君は”流されていればいい。でも脇役の一人である僕は、脇役なりに自分の役割を全うしようと思ってね」
嗜虐的な笑みを浮かべた灰が、左手を俺に向け、躊躇なくあの台詞を言う。
まるで、本物の暴君の様に。
「『首を跳ねてしまえ、今すぐに!!』」
「おまっ、」
完全に八つ当たりじゃねぇか!
と叫ぶ間も無く、飛び込んで来たトランプ兵達が槍を構えて迫ってくる。
やばい、これ死ぬ。とてもじゃないけれど死ぬ。
そう思った時
俺は既に、走り出していた。
あいつ覚えてろよ、とか
なんで妙にノリノリなんだよ、とか
色々なことが浮かんでは消える。
薔薇園を抜け森に入り込めば、最初の3、4倍の数のトランプ兵がばらばらと後を追って来ているのが見えた。
走って、走って、走って。
今日はよく走らされる日だな、なんて些か投げやり気味に呟いて。
また草を踏みしめた、瞬間。
ずるり、と足が滑った。
比喩じゃなく、本当に。
「え、えぇ?」
重量に正直な体はあっさりと傾いて、地面に向かって勢いの乗った体当たりをかます。
当然、ダメージを受けたのはこちらの方だ。
「いっつ……」
そんなベタな、と愚痴をこぼしながら、顔を上げた先には扉。
扉。
メルヘンチックでファンシーな、“早く潜れ”と言わんばかりのーーーー
俺は、迷わず扉を開けた。
いや、嘘。ちょっと迷ったけれども。
とにかく。
ノブに手を掛け、半回転させながら扉の奥に体を滑り込ませ。
そうして。
目を覚ました。
「ん……」
首まですっぽりと被っていた羽毛布団の感触が、随分と現実的に感じる。見上げた天井も、枕の高さも、間違い無く慣れ親しんだもので。
夢。
このご時世に、夢オチである。
両目を擦って起き上がり、急展開に未だ追いついていない頭が再び働き出すのを待つ。
今日何曜日だっけ。
カレンダーでは水曜日。
平日かよ。
ああ、仕事しないと。
三日分くらい動いた気がする。
夢の中でだけど。
とりあえず、この如何ともし難い倦怠感と疲労感を解消しないことには。
ん、やっと目が、というか思考が冴えてきたーーって。
待て。
今何時だ。
慌てて振り返った置き時計の示す時刻は、この上なく残酷な数字。
ああ、ついてない。
溜息を零す間も無くベッドから下りた俺は、そのまま見慣れたドアを押し開け、部屋の外へと飛び出した。
朝寝坊とは珍しいねぇと微笑んだ変わらぬ妻の頭上を、一瞬注視してしまったのは、経緯からしてしょうがないことだと言えるだろう。
ありがとうございました!