5月の半ば
ガクちゃんとは、相変わらず。チナツとは、前よりしゃべるようになった。それでも、あたしはレイカ達から離れられずにいて。放課後の美術部の時間だけが、唯一楽しいと思える瞬間だった。なんだか日々がゆっくり過ぎていくような気がした。あたしは、その間に色々なことを考えた。
男の子を良いな、と思ったことはある。小学校の頃、誰にも言わなかったけれど、クラスのリーダー的ポジションの男子に憧れていた。淡い感情だったし、結局その子は私立の中学校に行った。追いかけようとはまさか、思わなかった。
そして今、あたしはガクちゃんに対する気持ちの答えを、ひたすら探し続けている。あの日から、ガクちゃんとは一言もしゃべっていない。嫌われていた方が、マシかもしれない。どうか、この気持ちが勘違いであってほしい。いや、勘違いじゃなくてはいけないんだ。
それが、あたしの今後の中学生活を、平和に過ごすためにも。
「私たち、親友だよね」
最近ハヅキは、そればかりを繰り返す。お泊りのときなんて、数時間おきに何度も何度も言って、そのたびに誓いを契った。
「親友だよ、ハヅキ」
ハヅキは、本当にあたしのことが好きなの? じゃあ、どうして、レイカといるの。どうして、チナツと仲良くするとすごく嫌な顔をするの。あたし達は、親友だから、例え一緒にいなくなって、離れていたって友だちでしょう?
あたしたちはなんでも話せる親友だったはずだ。だけれど今、あたしは前よりずっとハヅキに言えないことが増えた。言っても……きっと、理解してくれないだろうと思うから。
みんなで仲良くしていくって、どうしてこんなに難しいのだろう。時々、特定できない何かに、「みんな」そのものに腹を立てることがある。
あたしは、みんなの中の誰も嫌いではなかった。確かに、レイカ達は苦手だけれど、嫌いと言うほどではない。チナツだってもちろん、ハヅキも、ガクちゃんだって……。八方美人は、どうして嫌われるんだろう。みんなが好き嫌いなく、八方美人なら。きっとそれだけで、何もかもうまくいくのに。
ここ数日の間に、あたしの中にどんどん、どんどん何かが溜まって、よどんで……。けれど、どこにも吐き出せないまま、この日が来てしまったんだ。
「来週の校外学習の班を決めます。最低三人グループで、多くて五人。六人のところは二つに分かれて」
増永先生は、黒板にルートを書き始める。校外学習、もとい遠足の探索ルートだ。自分たちで研究テーマを決め、大まかに分けられた観光地を選び、それについて資料を作って遠足後に展示をする。
先生の合図で、みんなは立ち上がり、班を決めるために移動をする。本当はもう、何週間も前から、既にグループなんてできている。わざわざこんな確認をする必要もない。
チナツは、何かを言いたげにあたしのことを見ていた。いくら鈍いあたしだってわかるよ。
ハヅキは、あたしが立ち上がった途端ぐいっと腕を引っ張った。そんなに引っ張らなくても、そっちに行くってば。
チナツがまた困ったように笑う。今なら、わかるよ。どうしていいかわからないから、そんな顔をするんだよね。
あたしは、すごく嫌なやつだ。きっと、天国にはいけない。部活の時だけ、チナツと仲良くしゃべって、ハヅキ達がいれば、そっと距離を置いて。チナツは優しいから、あたしに一度たりとも文句を言ったことはないんだ。だからあたしは、一秒でも長く、今のままでいれたら、と思う。これ以上、誰も辛い思いをしないために。
「どこまわっても同じだよ、それよりどうサボるか考えない?」
レイカ達はパンフレットを見てもただ、だるそうにそう言うだけ。
今、立ち上がって班決めに参加しないのは、チナツとガクちゃんだけ。はじき者って、どうなるんだろう。先生とまわるのかな、それともどこかテキトーなグループに入れられるのかな……。
「花谷さん、一人?」
ガクちゃんもいるのに、先生はあえてチナツにだけ尋ねた。前から思ったけれど、先生は明らかにガクちゃんを嫌っている。
チナツは戸惑っていたようだけれど、やがてうなずいた。
「じゃあ、どこかのグループに入れてもらわないと」
先生がそう言った瞬間、なんだか教室の、主に女子の空気がピリリと変なかんじがした。うまく言えないけど、少し張りつめたような、よどんだような。
それにしても、先生も無神経な言い方じゃないか。ガクちゃんはどうなるの。このまま声をかけられなかったガクちゃんはどうなるの。ずっと、机をにらんだまま?
「うそ、いやだよ、あたし」
声を出したのは、久保田さんだ……クラスでも結構地味な方で、だけど地味な人は地味な人のグループがあって、そこに入ってて。まぁ、あたしもレイカ達の仲間にたまたま入ってるだけで、元は地味な方なんだけどさ。とにかく、そのおとなしい久保田さんが、はっきりと言った。すると次々と「えー、あたしも」「いやだなぁ」という声が続く。
うまく、呼吸ができなかった。チナツは、もう笑顔ではない。当たり前か。ガクちゃんの顔は、確認することができない。見る勇気がない。
あたしは、本当に、本当に、卑怯で、ずるくて、最悪の、嫌なやつだ。
本当に。
何故だか泣きたくなった。泣きたいのは、チナツの方だ。
みんながこれ以上嫌な思いをしないためじゃない。あたしが、あたし自身を守るために、いろんな人の顔色をうかがっているだけ。やっぱり、八方美人なんて何もよくない。みんなと仲良くすることなんて、できない。多分、誰にもできない。みんな、きっと心の奥底ではそうするべきで、そうしたいと思っていても。
だからあたしは、これ以上こんないじめのようなことは、したくない。あたしの中のよどんだ何かが、溢れて出てきてしまう前に。
「チナツ、一緒に組もうよ」
あたしの声は、ざわついていたはずの教室によく響いた気がした。だって、みんなが一瞬で黙ったんだもん。続いて、「はぁ?」という怒ったようなレイカの声、「なんで?」という、ハヅキの戸惑った声。
あたしは、何も言わなかった。怖くて、振り向けなかったのもあるけど。だけれど次に向いたのは、ガクちゃんの方だ。
「ガクちゃんも、一緒にまわろう。これで三人になるよ」
ガクちゃんの目をまっすぐ見たのは、初めてだった。いつも、その鋭くて大きな瞳が怖くてそらしてしまうから。
ガクちゃんは、ただあたしを見ている。訝しんでるのだろうか、鬱陶しいと思っているんだろうか。わからない。何も言わないから。けれど、どっちにしろガクちゃんが何か言う前に、先生が何を調べたいかテーマを決めるように指示を始めた。
机をくっつけて、あたし、ガクちゃん、チナツの明らかに異色メンバーが顔を合わせる。
遠くで、レイカ達が悪口を言ってる気がする。はっきりは聞こえないけれど、視線や雰囲気で、なんとなく。しょうがない。あたしは、裏切り者だ。罪悪感はなかった。……今後の学校生活を思うと、怖くなったけれど。
それでも、チナツの笑顔に救われた。
「ミズキちゃん、ありがとう」
あたしが謝らないといけないのに、チナツはそう言ってくれた。それだけでもう、十分かなって。
すると、突然ガクちゃんが口を開いた。
「あのさ」
あたしは多分、よほど驚いた顔をしていたんだと思う。次に続くガクちゃんの言葉に対して。
「ガクちゃんって、何だよ」
無意識に、そう呼んでいたのを思い出した。まさか、本当に本人に向かって呼んでしまうとは。ついこの間まで、「学さん」だったのに。
「じ、自己紹介で、ガクって言ってたから……」
あたしは精いっぱい、それだけ言った。明らかに動揺しているから、チナツが不思議そうにこっちを見ているけれど、もはや隠しきれなかった。
ガクちゃんは、「ふーん」と興味なさそうに相づちを打つと、それきり黙ってしまった。……そんなに、嫌じゃないのかな。まぁ、苗字に「ちゃん」を付けるのってそんなにおかしくないもんね。あたしも一時期「おかざっちゃん」って呼ばれてたときもあったし。
これってもしかして、打ち解けるチャンスかもしれない。
「えっと、どうしてそんなに自分の名前、気にしてるの? かわいいじゃん」
しかし、それは鋭い声に一喝される。
「ダサいから」
そ、そんな睨まないで……。レイカ達以上に、一緒にやっていけるか心配になってきたよ……。
「え、えと、ガク……ちゃん?」
チナツが口を開いた。チナツも、あたしと同じように呼ぶことにしたらしい。
「わたし、花谷って言うんだけど……ガクちゃんの華子と、なんだかおそろいだね。嬉しいなぁ」
何故か照れたように、柔らかく笑いながらチナツは言う。思いっきり、地雷を踏んでいるのを見て、あたしはもうフォローする余裕もなく呆然とした。チナツ、殺されるんじゃないだろうか。
だけれど、意外なことに、ガクちゃんも満更ではない様子で。
「……あっそ」
とだけ、短く返した。さっきよりも、ずっとトゲが抜けた口調で。
……ちょっと、ちょっと。会話が和やかな空気になっているのはいいけれど、なんだか納得いかない。いや、チナツとガクちゃんが仲良くなるのは全然嬉しいんだけど、なんだか……。あぁ、あたしも名前か苗字に花がついていれば、こんなことには……! せめて、葉月だったら、「花と葉で似てるね」とか、ちょっと無理やりにでも関連づけられたのに……!
「あ、ミズキってお花もあるよね」
勝手にジェラシーを抱いていたチナツが、今度はあたしに助け船を出してくれた。
「え、そうなの?」
「うん。ミズキっていう、白くて小さなお花があるんだよ。ミズキちゃん、もうすぐ誕生日じゃない? 大体、この時期に咲くの」
自分の名前なのに、全く知らなかった。植物っぽい響きだなとは、思っていたけれど。
「ふふ、わたし達、なんだか花っぽくて縁があるね」
今までほとんど一人ぼっちで過ごしていたチナツだけれど、あっという間にあたし達につながりを持たせるなんて、すごすぎる。侮れない、と思った。
女子同士で話しているからか、ガクちゃんも乱暴な一面は見せなくて、一応チナツの話にもうなずいてはいる。
「植物、か……。だったら、植物園とかまわるのはどう?」
あたしが提案すると、チナツは「いいね!」と二つ返事で賛成してくれた。ガクちゃんには、つまらないのかと思ったけれど、意外にも「まぁいいんじゃない」とあっさりオーケーを出してくれた。
「植物園で、町の花についていろいろ調べようか。ほら、研究テーマ決めないと」とチナツ。
「そうだね、ついでに栞づくり体験とかあるみたいだし、やってみようか」とあたし。
「……発表資料、スケッチブックでいいんじゃない。スケッチとかして、栞はさんで」意外にも、ガクちゃんからも意見が出た。
「それ、いいね!」
あたしとチナツは思わず声をそろえていて、クスクス笑った。本当に本当に驚くことに、ガクちゃんも少しだけ笑った。これには、周りのクラスメイト達もぎょっと見ていたし、あたしだってびっくりした。
でも、良いアイディアだと思う。大抵、校外学習の後の発表資料は、大きい方眼紙に新聞形式で発表するっていう班がほとんどだし、小学校まではそうやっていた。だけれど、三人で一冊のスケッチブックにして、いろいろ資料を描いて栞にしたら、目を引くし素敵なんじゃないかな。
……というか、こんなに校外学習に夢中になると思わなかった。今まで、こういう類はレイカほどじゃないけど、面倒だと思う方だったんだけれど。だけれど、なんだかこのメンバーならすごく良いものが出来そうな気がして、いくらでも頑張れそうだ。
「あんた、やっぱりレズなんじゃないの」
案の定、次の休み時間、レイカ達に囲まれた。女子トイレの手洗い場で。予想通りだから、怖かったけれど動揺はしない。輪の後ろの方に……ハヅキがいた。
「そんなんじゃない。人数的にも、六人だから誰か抜けないといけなかったでしょ」
あたしは、なるべく毅然とした態度を保って答えようと思った。本当は震えて、今すぐにでも逃げ出したかったけれど。
レイカの鋭い言葉が、胸に刺さった。
「まぁ、前から浮いてたからちょうどよかったよね」
やっぱり、前から思っていたことなんだ。気づいていたことだけれど、それでも悲しい。ハヅキが心配そうにこっちを見るだけで、何も言ってくれないことも。怒りと悲しみで、いろいろな気持ちがないまぜになって、それでも絶対泣かないようにした。悔しいから。こんな奴らのために、涙一滴も使いたくない。それに、チナツの方がずっとずっと、痛くて悲しかったと思うから。
「浮いてる奴らで仲良くしてなよ。言っとくけど、あんたの居場所がこれからもあるなんて思うなよ」
みんなが笑う。みんな、って言ってもハヅキは笑ってないから、四人だ。たった四人に笑われているだけなのに、世界中の人に指をさされている気がして、目まいがした。目をぎゅっと閉じて、時間が過ぎるのを待った。いつもは短すぎると思う10分間の休み時間が、今はひたすらに長い。
「邪魔」
そのとき、笑い声の中に、違う声が聞こえた。
「邪魔、なんだけど。どいて」
一語一語はっきり言いながら、ガクちゃんが輪の中に入ってきた。手洗い場を使いに来たみたい。端の方を使えばいいのに、わざわざ真ん中の蛇口を選ばなくても、そう思ったからこそ、彼女の意図に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
レイカ達は、なんだかんだガクちゃんには逆らわない。というより、あまり関わりたくないみたい。だから何か言いたそうだったけれど、渋々と言った感じで移動をした。ただ、ガクちゃんとあたしだけが残った。
ガクちゃんは、手を洗う。多分、トイレしたとか修正液がちょっと指について気になるとか、それだけの理由なんだと思う。
それでも、あたしは嬉しかったんだ。
「ガクちゃん……」
「ちょっ、え? 何?」
こらえきれず、我慢できなくなった涙がこぼれてしまった。恥ずかしいけれど、これ以上抑えきれないから出した方がすっきりするはず。ガクちゃんは見るからに困っていて、それがなんだかおかしいような、申し訳ないような。
ガクちゃんは、強い。これは立場、というより、物理的に。ガクちゃんは力が強くて、ひとりを恐れない。誰に嫌われても、傷ついた顔をしない。思ったことを口に出す。
だから、そこに、惹かれたんだと思う。理屈や言葉では、まだうまく表せない何かに。いや、もうなんだっていい。もう、なんでもいいよ。
「ミズキちゃん!」
教室から出たチナツも駆け寄ってきた。涙でぐしゃぐしゃの顔のあたしを見て、チナツもガクちゃん同様とても驚いている。
「あ、あの、さっき、朝比奈さん達が、なんか変な感じして……ミズキちゃん、大丈夫?」
「うん……ありがとう。ガクちゃんが助けてくれたから」
「はぁ!? 助けてねーよ!!」
間髪入れず、大声でガクちゃんが叫んだ。おそらく、中学校に入学してからガクちゃんが一番出したボリュームの声だと思う。今度はそれがおかしくて、噴出してしまった。
「お前、なんなんだよ泣いたり笑ったり、意味わかんねーな」
ごめん。ごめんね、けど、嬉しいんだよ。うまく言えないんだけどさ。
「わたし達、良い友だちになれるよね」
チナツが、あたしの思ったことを代弁してくれた。あたしはもう、また復活した涙でうまくしゃべれないので、何度も深くうなずいた。
ガクちゃんはそっぽを向いて何も言わなかったけれど、否定はしなかった。あたし達は、友だちになった。