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4月の終わり

 運動は全然できないってわけじゃないけど、そんなに得意でもない。音楽のセンスは、運動よりもない。とうとう、決断できないまま入部届けを渡されてしまった。


「三日間の体験入部を終えてから、入りたい部活をここに書いてくださいねー」


 増永先生にしては珍しく嫌味じゃない説明なのに、死刑宣告に聞こえる。正直、部活には入りたくない。放課後何時間も同じことをして、果たして飽きっぽいあたしに集中できるだろうか……。ついこの間まで小学校では一番年上だったのに、いきなり先輩とか……。怖い先輩にいじめられたらどうしよう……。こんなに悩むくらいなら入りたくない。正直部活動なんて、なんのためにするのかわからない。入るなら、なるべくゆるいところがいい。いや、すごくゆるいところだ。いっそ幽霊部員でいい。お姉ちゃんだって中学の時はテニス部の幽霊部員だったわけだし。まあそもそも、私立中学に入学したお姉ちゃんは部活動が強制ではなかったわけだけれど。ああ、入学早々こんなことばかり考えてる自分はダメ人間になりそうだ。

 とにかく、体験入部をしにいかないと。つい面倒くさがって調べるのを先延ばしにしてたから部活の種類とかも把握しきれていない。そういえば今まで夏休みはいつも、終わりぎりぎりまで宿題を放置するタイプだったな、あたしは。

 がやがやと騒ぐ放課後、あたしはふと、花谷さんの方を見る。

 レイカが怒った日から、一度も話していない。あたしたちについてくることもなくなった。クラスメイトの誰とも近づかず、休み時間は背中を丸めて席に着いていた。時折、不安そうに辺りを見回して。

 それを見るたび、胸が痛んだ。いわゆる、罪悪感、ってやつ。


「ねぇねぇ、花谷さんはなんの部活に入る?」


 いきなり話しかけたあたしを、まるで花谷さんはモンスターでも見つけたようにギョッとした顔をした。そのリアクションにはちょっと傷ついたけれど、仕方のないことなんだと自分に言い聞かせた。


「美術部」


 小さな声で花谷さんは言った。へえ、美術部。思いつきもしなかった。

 美術の授業は嫌いじゃないな。といっても今やっていることは、ただ粘土こねて動物作ってるだけなんだけど。それに美術って個人活動だよね? 今のあたしにはとっても魅力的な言葉に感じられる。


「あたしもついていっていい?」


 今思うとなんて図々しいことを言ってるんだ、あたし。だけれど花谷さんはすぐに頬をゆるめて、柔らかく笑ってくれた。


「うん、良いよ」


 そういえば初めて、花谷さんの声をまともに聞いたかもしれない。



 美術室に入ると、なんだかいつも独特の匂いがする。だけど、嫌いじゃない。後にそれはアクリル絵の具や油絵具の匂いが混ざったものだと知った。

 美術室の机には先輩たちが座って騒いでいる。でも真面目に絵を描いてる人はほとんどいない。おしゃべりしたり、宿題したり、漫画読んでたり。うん、すごくいいゆるさ。あたしにはベストだ。

 赤い眼鏡をかけた、ちょっと出っ歯な先輩があたしたちを出迎えた。室田さん、というらしい。ここの部長なんだって。

 室田部長は気怠そうに「んじゃ、テキトーに教卓の鉛筆とプリント取って始めといて。一年はデッサンだから」と言うと、さっさと自分の席に戻ってしまった。

 一年生の机に座っているのは知らない子ばかりで、ようするに4組で美術部志望者はあたしと花谷さんだけということになる。余った机に、当たり前みたいにあたしたちは並んで座った。


「あのさ、花谷さん」


 恥ずかしかったけど、勇気を出して尋ねた。


「デッサンって何?」


 花谷さんは小さな声で「えっ」と言った。その「えっ」には、いわゆる「知らなかったの?」という意味が込められているのがわかった。

 デッサンって何?専門的すぎて何言ってるかさっぱりわからない。ちょっと硬そうなイメージの言葉に何も連想できない。デッサン?

 けれど花谷さんはなじるわけでも馬鹿にするわけでもなく、教えてくれた。


「デッサンって、そうだなあ。絵の練習みたいな感じかな。対象の物を忠実に書く、みたいな」


 そんなのいつ習ったの? って聞きたかったけど、これ以上馬鹿だと思われたくないから神妙な顔でうなずいておいた。なんだかよくわからないけど、鉛筆で物をリアルに書けばいいんだって。プリントには、『まず自分の手をデッサンしてみよう』と書いてある。手くらいならなんとか描けそう。

……そう思ったのが、間違いだった。

 まず、借りてきた鉛筆を見て驚いた。あたしが小学校で使っていたのはHBと、習字の時間だけ2Bの鉛筆。だけれど目の前に4Bだの6Bだの、しかもFまである。Hがハードで、Bがブラックなのは聞いたことあるけどFって何? Fから始まる単語は、今のところファイトとフラワーしか知らないけれどどっちも当てはまるようには見えない。

 どうでもいいことを真剣に考えているうちに、周りはどんどん描き進めていく。気合を入れて、自分の手のひらを直視した。そういや手相占いであたしの生命線が恐ろしく短いことがわかって、眠れないほど悩んだことがあったなあ。手相も、指も、なんだか見れば見るほど複雑な形になっていく気がする。一体どの指から描けばいいかわからず、親指から描き進めていく。ああ、もう先輩たちの騒ぎ声がうるさい! 

 親指をなんとか描いて、次に人差し指。なんだか手が星のような形になっていく。やっと小指まで行った頃には、5時のチャイムが響いていた。


「1年生はもう帰っていいよ」


 とやっぱり室田部長はどうでもよさそうに言った。だけれど言いながら、一年生の机に近づいてくる。


「あー、尾花沢さんうまいね、もっと影の濃淡つけられるといいね。青木くんの薬指がちょっと不安定かも」


 え、何、添削するの? あんなどうでもよさそうな感じで言ってたのに?

 特に隣の花谷さんのデッサンは、まるで白黒の写真のようだった。本当に中学生が、同い年が描いたのかと疑ってしまいそうなレベルに。

 室田部長もさすがに驚いたようだ。


「花谷さん、何か習ってるの?」


 部長の質問に、花谷さんは小さな声で「幼稚園から絵画教室に行ってて」と答えた。何それ、もうプロじゃん。何それ。

 絶望に口をあんぐり開けているあたしのデッサンを、室田部長は見るなり「がんばれ」とだけ言った。こんな重いがんばれをもらったのは初めてだった。やっぱり鉛筆のFって、ファイトのFかも。



 下駄箱で靴を履き替えていると、ちょうど体験入部を終わらせたばかりのハヅキが歩いてくるのが見えた。


「どうだった?吹奏楽部」

 

 あたしが尋ねるなり、ハヅキは鼻息荒く話しだした。


「すっごい楽しかったよ! 私のトランペットほめてもらえたんだ!」


 妬ましいくらい幸せそうだ。やっぱりやりたいことをやるってすごく楽しいんだろうな。ゆるいところがいいって理由で美術部を選んだあたしとは違うに決まってる。

 ハヅキの吹奏楽部日記を聞きながら帰っていると、思い出したように質問してきた。

 

「ミズキはどこへ体験入部してきたの?」

「あたしは美術部。ゆるいんだけど難しそう」


「なにそれ! 意味わかんない」とハヅキは笑ったけど、本当のことだ。空気はかなり自由だし、先輩後輩の関わりが薄そうなのもありがたかったけど、まさかあたしがこんなに絵が下手だったなんて。絵が下手なのに美術部に入っていいのだろうか。致命的ではないだろうか。

 ハヅキは嬉しそうに楽器だとかパート分けだとかを話してくれたけど、あたしは全然楽しい話もできないまま帰った。



 次の日、結局他に入れそうな部活が浮かばなくてまた美術部に行った。あーもう部活入らなくていいかな。入部届けをくしゃくしゃにしちゃおうかなって暴力的なことを考えてしまう。

 デッサンをしていても、昨日から進歩したようには思えない。いつまで経ってもあたしの描く手はヒトデみたいだし。紅葉みたいな手、ってよく聞く表現だから紅葉を描いてみようと思ったけど結局行き着く先はヒトデだ。


「だいじょうぶ?」


 よっぽど死にそうな顔をしていたのか、隣でデッサンをしている花谷さんが心配そうに声をかけてきた。何げなく花谷さんの紙を見ると、昨日はパーの手のひらだったけれど今日はチョキだ。紙でじゃんけんできるくらい上手い。


「花谷さんはすごいなあ。見てよ、あたしの絵。海からでてきたみたい」


 隣にこれだけ上手な人がいると劣等感どころか笑いと諦めが出てくる。でも、花谷さんは笑わなかった。


「関節とか加えてみたらどうかな」 


 あたしは言われるまま、ヒトデに線を描き加えた。あ、ちょっとだけ指っぽくなったかも。


「で、しわ、とか、ここに影とか」


 何故か申し訳なさそうに言う花谷さんの言うとおりにしたら、ますます指っぽくなっていく。ちょっと面白いかも。

 昨日もらったプリントに大体のことが描いてあると教えられて、全然目を通してないことに気づいた。じっくり読んで、書いてある順序で鉛筆を進めていく。絵ってすごい。うまくなくてもこんなにのめり込んでしまう。

 なんだか、楽しいかも。

 ヒトデはもう海の生物じゃなくて、今では立派なあたしの手のひらだ。


「そこの一年生、帰らないの?」


 室田部長の声ではっと顔をあげた。5時のチャイムが鳴ったことにも気づかず、あたしは描き続けていたのだ。時計はもう5時半。しまった、ハヅキと帰る約束してたのに!

 しかし、一年生はあたしだけじゃなかった。隣に花谷さんが座ったままだ。あたしと違い、机の上は既に片付けられている。


「もしかして、待っててくれたの?」

「真剣に描いてるから、邪魔しちゃ悪いかなって……」


 花谷さんはごめんね、と笑う。なんだか、胸の中がほわーってあったかくなった。



「ミズキ、遅い!」


 先に帰ってると思ったけど、ハヅキは玄関で待っててくれていた。駆け寄って言い訳しようとしたけど、その前にハヅキの眼が鋭くなる。

 あたしの後ろにいた花谷さんを睨みつけた。


「なんで花谷さんがいるの」


 そう言って、あたしの腕を引っ張ろうとする。


「花谷さんはあたしのこと待っててくれたんだよ!」


 慌てて言うあたしを一瞥いちべつすると、また花谷さんの方を見る。


「何? ミズキが待つように頼んだわけ?」


 そういうわけでは、ない。花谷さんは約束をせずとも待っててくれた。

 前までハヅキがこんな態度をとるのは仕方ないような気がしてたけど、今は失礼すぎるんじゃないかと思った。

 でも、どうしろと? 自分に問いかける。まさか三人で帰るわけにはいかないし。そう、今あたしは待たせていたハヅキと、勝手に待っててくれた花谷さんのどちらかを取らなくちゃいけないわけで。


「花谷さん、すっごい絵がうまいんだよ……」


 情けない声で、すごくどうでもいい情報をしゃべっている自分が惨めで仕方ない。もちろんハヅキからしたらそんなことどうでもいい話だ。「あっそ」と言うとすたすたと歩いていく。これ、追いかけろって意味なんだよね。

 振り返ると花谷さんはまた困ったように、笑っている。どうしよう、けれどあたしより先に反対方向へ花谷さんは歩き出した。小さく手を振って。

 強制的に選択を絞られたあたしは、従ってハヅキを追いかけるしかなかった。



「ミズキは私のことがきらいになったの? 花谷さんと一緒にいるほうが楽しいの?」


 あたしが追いつくなりものすごい剣幕でハヅキが問い詰めてきて、あたしは一瞬怯んだ。いつもだったらこういうとき、あたしが折れてしまう。ハヅキが本気で怒ったとき、悪くても悪くなくても先に謝るのはあたしの方だ。だけれど今日は違う。


「誰もハヅキがきらいなんて言ってないじゃん! ハヅキだって、花谷さんのこといじめるようなことして何が楽しいの!?」


 通学路を通る生徒の視線が集まってすごく恥ずかしかった。しかし、ハヅキもあたしの反論にたじろいだようだった。だけれどハヅキも言い返した。


「いじめなんてしてないよ! だって花谷さんつまんないじゃん! しゃべらないし何考えてるかわかんないし……それに、私の方が、ずっとミズキと……ずっと前から一緒に……いるのに……」


 ハヅキの声がどんどん震えていく。やばい、これ、泣いちゃう。

 ハヅキはしっかりしていて、大人っぽい子だ。それは周りの大人たちも、小学校の時のクラスメイトもみんな知っている。

 けれど、本当はハヅキは、とても独占欲が強い。昔からあたしが他の子とあまり長い時間話していると、とても怒った。みんなの見えないところで、あたしと二人きりになるとすぐ機嫌が悪くなって。誰も知らないハヅキの一面。こんなに激しく現れたのも初めてだけど。

 あたしはハヅキを怒らせたくなくて、すぐ謝ってしまうからだ。それは、あまり深く考えたことはないけれど、ハヅキが怖いとか怒らせると面倒とかいうより、ハヅキという親友を失うことが何よりも怖かったからだと思う。

 ハヅキはあたしがいないと一人だ、とよく嘆くけれど、こうやって束縛され続けたあたしも、ハヅキがいないと一人ぼっちになってしまうのだから。それでも一生の親友だから構わないと思っていた。だけど、だけど今回は。


「自分だって、レイカたちと仲良くし始めたくせに」


 自分の発言がハヅキと同じくらい子どもっぽいのはわかっていたけれど、言わずにはいれなかった。

 案の定、ハヅキはぼろぼろと涙を流し始めた。ああ、やっぱり。


「……ごめん」


 結局、いつものあたしが、でてきた。

 ハヅキは必死に涙を袖で拭いながら、「ミズキの親友は私だけでいいのに」と言い続ける。うん、もう、それでいいよ。わかったから、泣かないでよ。

 あたしはそっと人差し指を立て、気づいたハヅキもクロスさせた。とりあえずの仲直りだ。

 そしてあたしたちは言葉も交わさず、別れた。



 なんだろう。今までハヅキの欲張りなところもなんだかんだ好きだったんだけど。いつも以上に感じる、疲労感。結局先に謝ってしまった自己嫌悪。

 何も得られなかった。花谷さんよりハヅキをとってしまったわけだし。ハヅキは花谷さんに対する態度を変えないみたいだし。きっとレイカたちともつるんだままだろう。


 ガクちゃんだったら、こういうときどうするんだろう?


「勝手だよね、あんたって。周りに流されて、自分の意見もコロコロ変えてさ」


 あたしの妄想の中のガクちゃんは厳しい。友だちもいないのに、やたら周りが見えている。いや、取り巻くものが何もないから、よく見えるんだろうな。ビルがないと遠くまで景色が見えるのと同じでさ。

 あたしは、ハヅキの後ろにちっとも似ていないガクちゃんの姿を重ねた。それでもやっぱりその後ろ姿はハヅキだった。

 ガクちゃんだったら、どうするんだろう。何度も考える。けれどあたしがいつまでもガクちゃんになれない理由は、全てを投げ出して一人になる勇気がないことだ。

 答えが見つからないあたしを、4月最後の風がゆったりと包んでいった。

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