ずっと前から
10月になって何か吹っ切れた様子の森咲とは対照的に、由佳の表情は暗くなるばかりだった。部活はなくなったのに一緒に帰る機会はむしろ減るばかりで、もう一週間も話せていない。
ここへ来て俺は、森咲と由佳が本当に喧嘩していなかったらしいことに気が付いた。どうやら二人とも別々の理由で悩んでいたようだ。
「なんとか、話すタイミングが無いもんかな・・・」
塾からの帰り道、自転車を押しながら考える。
ちょうど高架橋に差し掛かったときの事だった。
「―・・・由佳」
その下に立っていた由佳は、俺の姿を見つけて寂しそうに微笑んだ。
「何でこんな時間にここに?」
確か塾には行っていないはずだった。
「・・・京一くんに、会いたかったから」
由佳はそう言って前を歩き始める。俺も再び自転車を押しはじめた。
「ごめんね、ずっと一緒に帰れなくて。このところ忙しかったから」
「いや、それは別に・・・っていうか、忙しいって?」
「・・・うん。あのね、京一くん」
振り返った由佳の目はやはり寂しげだった。
「―引っ越すことに、なったの」
「・・・え?」
思わず自転車を止める。
「引っ越すってそんな急に・・・何で」
「一月前田舎のお祖母ちゃんが倒れちゃってね、もうすぐ退院するんだけど介護が必要で・・・。こっちの家に引き取ろうって話もあったんだけど、お祖母ちゃんが家を離れたがらないから」
由佳が歩き出す。
俺は乾いた喉から声を絞り出した。
「いつ・・・なんだ?」
「11月。まだちょっと先だね」
「・・・そうか」
そのあとはお互い無言で、気が付くと家の前へ辿り着いてしまっていた。
「・・・じゃあ、また―」
「京一くん・・・!」
別れようとした瞬間呼び止められて振り返ると、俯いていた由佳が顔を上げた。
きゅっと握った両手と、寄せられた眉と、依然として変わらない寂しげな目。
「―京一くんが、好きです。ずっと、ずっと前から・・・」
・・・声すら出なかった。
頭が真っ白になってしまって何を言うべきかも分からない。
「・・・ごめんね、突然。でも、引っ越す前にそれだけは・・・伝えたかったから」
それだけ言って由佳が玄関の奥へ消えてしばらく経っても、俺はその場に立ち尽くしていた。
「・・・んなとこで何してんすか、京兄」
「え?あ、ああ勇か」
気が付くと部活帰りだろうか帰りの遅い勇生がこちらを訝しげに見ていた。
「道の真ん中で立ってたら、いくら住宅街だからって轢かれますよまったく・・・」
「・・・ああ、悪い」
自宅の方へハンドルを切ろうとすると、勇生がははーん、と呟く。
「さては、姉貴がなんかやらかしましたね?」
「ぶッ!?」
「おお、図星かぁ。カマかけてみるもんですね」
勇生はにやっと笑った。
「分かってたんじゃないのかよ・・・」
「さすがにそこまでは読めないっすよ。でもまあ、姉貴が告白するとしたら今だろうなって」
「・・・おそろしく勘のいい弟だなお前は」
「そこは長い付き合いなんで。で、何て返事したんすか?」
そこではたと気付いた。そういえば何も答えていない。ただ一方的に由佳の話を聞いただけだ。
「・・・まさか、とは思いますけど」
「・・・してない」
「・・・ですよね」
勇生はしばらく黙って、そしておもむろに明るい口調で切り出した。
「―今から独り言を言いますね」
「は?」
「姉貴は元々低血圧で極端に朝に弱いです。それなのに、サッカー部のないときだけはなぜか目覚ましを3つも用意して早起きをします」
「・・・・・・」
「それから姉貴はめちゃくちゃ不器用なんで、本来料理だって得意じゃありませんでした。それを5年くらい前から必死に勉強して上手くなって、今じゃかなりましになりました。特に菓子作りに関しては人前で堂々と趣味と言えるくらいに上達したと、弟の贔屓目を無しにしてもそう思います」
「・・・・・・」
「家庭科クラブの活動は週二で、帰る時間がサッカー部と同じになるなんてことはほとんどありません。なのに、姉貴は毎日決まって同じ時間に帰ってきます」
「・・・・・・」
「姉貴は割りと小柄な方っすけど、それも普段からじゃありません。菓子を食いすぎるのかなんなのか、今でもたまに風呂場から悲鳴が聞こえてきます、とこれは余計でしたね」
「・・・・・・」
「すごく努力家だって認めてるんすよ、これでも。直接言ったことはありませんけど」
姉貴には内緒ですよ、と勇生は二階の由佳の部屋の方を見上げて笑った。
「だから・・・それが報われるときが来るとしたら、心から祝うつもりなんす」
「・・・勇生」
「じゃ、おれもう行きますんで。おやすみなさい、京兄」
「・・・・・・ああ」
その後姿を見送ってから、俺は今度こそハンドルを切った。