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「うっひゃ~、危なかったぁ~!」
週明けの朝。
ドアを乱暴に開け放って教室に飛び込むと、クラスメイトたちが一斉に視線を向けてきた。
「セーフ、だよね? だよね?」
ミーは汗を拭いながら、みんなに問いかける。
あっ、ミーっていうのは、私のことね。
蛍伽澪音ってのがミーの名前。
澪音の頭文字と英語のMeを掛けている感じ。小さい頃から自分のことを、そう呼んでいるのだ。
と、そんなミーの言葉を耳にした途端、困ったように眉尻を下げるみんな。
「……アウトだよ、澪音……。さすがにちょっと、遅すぎ……」
遠慮がちに、ひとりの女子生徒が声をそよぎ出す。
彼女は彩鳥葉雪。ミーの親友だ。
その声は、風がそよぐような綺麗な旋律を紡ぐ。
だからミーは葉雪の声を、「そよぐ」と表現するのだ。
でもそよぐって、漢字だと「戦ぐ」って書くのよね。どうして戦うなんて物騒な字を使うのかしら。
まぁ、そんなことはどうだっていいわ。
思わずミーは、葉雪のつややかな唇をじっと見つめていた。
「……もう、朝のホームルーム、終わっちゃったよ……。蛍伽はまた遅刻か~って、先生、ため息ついてたよ?」
ミーの視線に気づいて微かに頬を染めながら、葉雪はそう言葉をつけ加える。
うんうん、いつもどおり葉雪は可愛ゆい。
「あららん。また罰のトイレ掃除決定かな、あははっ!」
「……手伝わされるこっちの身にもなってよ……」
「うふふ、なにも言わなくても手伝ってくれる葉雪、大好きっ!」
「……だって澪音、手伝ってくれないと泣く~って駄々こねるもん……。トイレで寝転んで大の字になって……」
「そんなこともあったねぇ~、あははっ!」
遠い目をしてつぶやくミー。
もっともそれは、ほんの数日前の出来事でしかないのだけど。
「でもでも、葉雪はいつだってミーの味方だもんねっ! 嬉しいよ、大好きっ! さんきゅっ!」
ミーは葉雪に思いっきり抱きつく。
「……うん。……トイレで駄々をこねたあとまで、こんなふうに抱きつかれたのは、ちょっと嫌だったけど……」
「むっ! 葉雪がミーに抱きつかれるの、嫌だって言ったぁ~!」
目を潤ませるミーに、困ったような顔を向ける葉雪。
ああ、困った顔もらぶりぃだわぁ。
「……そんなこと言ってないよぉ……。トイレの床で制服とか汚れてたから……」
「むむっ! 葉雪がミーのこと、汚れた子だって言ったぁ~!」
さらに目をうるうるさせるミーに、さらにさらに上をゆく慌てた様子を見せる葉雪。
あぁん、慌ててる葉雪も、やっぱりらぶりぃだ。
「……そんなこと言ってないってばぁ~……。澪音ぇ~、泣き止んでよぉ~」
「うふふっ、はいな☆」
もちろん嘘泣きだったミーは、ぱっと笑顔にチェンジして、葉雪をぎゅっと抱きしめる。
「葉雪ってば、やっぱりからかうと楽しい♪」
「……澪音、ひどい……」
そうつぶやきながらも、葉雪は控えめにミーを抱きしめ返してくれていた。
☆☆☆☆☆
「ほら、ラブラブはいいから、早く席に着け~」
パンパンと両手を打って入ってきたのは、担任にして地学の教師である矛崎唯一先生だった。
仕方なくミーは葉雪から体を離し、自分の席に着く。
ちぇっ、名残惜しいわ。
ほのかな笑顔を残しながら、葉雪も席に座る。
葉雪の席は、ミーの隣。
隣じゃなきゃ絶対ヤダ~、としつこく懇願する情熱に負けた矛崎先生が、ミーの要求を快く受け入れてくれたからだ。
……諦められただけだと思う……。葉雪はぼそっとそんなことを言っていたけど。
それにしても、この教室に来る先生方はちょっと遅れる場合が多いというのに、矛崎先生だけはいつも時間ピッタリに現れる。
べつに他の先生が不真面目ってわけじゃない。
この教室はいわゆる隔離棟となっていて、職員室からはちょっと遠いのだ。
ミーたちの通う高校は、私立山原水鶏学園という。
どうして関東圏内にある高校なのに沖縄の天然記念物の名前がついているのかは、かなり謎だけど。
この学校を設立した人が沖縄出身だったとか、そんな感じなのかな?
ともかく、少子化に伴う空き教室増加への対処の一環として、教室の数を減らした新校舎を建設したのが数年前らしい。
だけど、新校舎の教室数はちょっと少なすぎた。そこで、まだ使える旧校舎の一部にも教室としての機能が残された。
そんなわけで、各学年に一クラスずつ、隔離棟を使うクラスが存在する状況となっている。
旧校舎とはいっても、よくある学校の怪談なんかに出てくる戦前から建っているような木造校舎ではない。
当然だよね、この学校自体がそこまで古い歴史はないはずだから。
まぁ、創設されたのがいつかなんて知らないけど。
生徒手帳でも見れば載っていそうな気はするものの、そこまで細かく見たことなんてないミーにはわからない。
その旧校舎の一階には、各学年のF組が集結している。つまり、合計三クラスだけ。
だから、一階にある三つの教室しか使われていないのだ。
それなのに、たまに誰もいないはずの二階から物音が聞こえるような気もするけど、それはきっとコンクリートがきしむ音とか、そんな感じなのだろう。
ちなみに、各学年のF組は隔離クラスとなっているわけだけど、別名、落ちこぼれクラスとも呼ばれていたりする。
年度の初めにテストを実施し、その成績によって上位クラスから順に振り分けられていく。
そのため、成績の悪かった人が隔離クラスに押し込められることになってしまう。
実際のところ、数年前までは普通に使われていた建物だし、べつにそれほど不満があるわけではない。
それでも、成績の悪いクラスというレッテルを貼られるのはイメージ的によくないのは確かで。
次こそは頑張って隔離クラスから脱出しようと一生懸命勉強するようになる。そのためのシステムなのだと学校側は主張していた。
その理屈だと、三年生はもうクラス替えがないのだから、頑張らなくなっちゃうのでは。
そうも思ったけど、さすがに受験や就職に関わるからしっかり頑張るものらしい。頑張らなかったら自分に跳ね返ってくるだけだし。
なお、隔離クラスの担任は、各学年の先生方の中で一番優秀な人が受け持つことになっている。
だからこそ、生徒の親御さんからのクレームもつかないのだそうだ。
とはいえ……。
「ほら、お前ら~、気を抜いてないで、しっかりと話を聞いておけよ~」
なんて語りかけてくる矛崎先生の声は、とっても眠気を誘う間延びした声だった。
ほんとにこの先生が学年で一番優秀なのか、ミーとしては疑問しか浮かんでこない。
だいたい、どう考えてもまだ若い先生のはずなのに。
ま、べつにいいんだけどね。
ミーは葉雪と一緒なら、たとえ火の中水の中。どんな環境だって文句はないのだから。
そういえば、葉雪は結構勉強ができる。それなのに、どうして落ちこぼれクラスになんているのか。
それはひとえに、ミーに対する愛情の成せる業なのだった。
ちょっと霊感っぽい能力がある葉雪。
ミーがクラス分けテストで悪い点数を取ってしまい、このクラスになることを予感していたのだという。
結果、葉雪はわざと点数を抑えた。
さすがに0点では問題があるため、最低限の点数は取ったらしい。
クラス分けテストは受験とは別だし、点数が悪かったからといって入学取り消しなんてことはないはずだけど、念のためにそうしたのだそうな。
葉雪はそこまでして、ミーと一緒のクラスになりたかったのね。
う~ん、可愛い奴め!
ミーが思わず葉雪を抱きしめちゃうのも、当然の行動と思ってもらえるだろう。
この話をクラスの他の子にすると、決まってこう言われる。
葉雪は霊感でミーの点数が悪いことを予感したわけじゃなくて、確信があったんだと思うよ、と。
すなわち、あんたはバカだから絶対落ちこぼれクラスになるの決定だって思われていた、ということだ。
まったく……なんて失礼な奴らだろう。
そりゃあ、ミーは自分でも頭がいいほうだとは思っていなかったりするけど。
葉雪はそんなことを考えるような子じゃない。それだけは絶対の自信を持って言える。
小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたミーと葉雪のあいだには、他人が入り込めない固い絆と信頼があるのだから。
☆☆☆☆☆
「葉雪~、帰るよっ!」
ミーは素早く腕を伸ばし、隣の席で教科書とノートをカバンにしまっていた葉雪の柔らかな手のひらを握る。
五時間目の授業が終わって放課後となった瞬間だった。
「……うん……」
葉雪は控えめに頷くと、ミーと一緒に立ち上がって教室を出る。
ミーと葉雪のふたりは、普段なら放課後も学校内に残っているのだけど。
今日はふたりとも家の手伝いを頼まれていたため、すぐに帰る約束となっていた。
下校する学生たちの流れの中を、手をつないで走るミーと葉雪は、するりとすり抜けていく。
やがて人通りは少なくなり、ちょっと寂しげな路地へと差しかかる。
この先が、ミーと葉雪の家だ。
といっても、一緒の家に住んでいるわけではない。
お隣さんなのだ。
ただ、普通のお隣さんとは若干状況が違っているかもしれない。
それは、ミーの家が教会で、葉雪の家が神社だからだ。
家の敷地も広くて、お隣さんといってもちょっと距離がある。
そもそも、このふたつの施設が隣の敷地にあるってこと自体、結構珍しいよね。
それだけならべつにいいのだけど、うちの親と葉雪の親はお互いに敵対心をむき出しにしていて、事あるごとに言い争いや競い合いを始めてしまう困った関係でもある。
ほんと、迷惑この上ない。
そのせいで小さい頃のミーと葉雪は、お隣同士だったにもかかわらず、一緒に遊んだりしちゃダメと言われて引き裂かれていたくらいだ。
ともあれ、そこはミーたちのほうが一枚上手。
隠れてお互いの部屋を行き来し、結局毎日のようにふたりの時間を作って遊んでいた。
そのあたりについては、今は一応認めてもらっている。
だからもう、会うことを禁止されたりはしていないのだけど。
……それも諦められただけだってば……。葉雪はこの件についても、そんなふうに言っていたっけ。
両親同士のつき合いは、どうやらかなり昔からのようで、ミーたちが生まれる前から対立し続けているらしい。
今日の手伝いだって、そういった対立というか競い合いのための準備になるわけだから、そんなことに娘を巻き込まないでほしいと思うのだけど。
しかもその競い合いでは、ミーと葉雪は敵同士ということになってしまうわけだし……。
それでも、そんな対立もいわばひとつのパフォーマンスになっていて、町の人には結構人気があったりする。
すでに有名なイベントとなっているのだ。
事実、様々な屋台なんかまで出ることから考えれば、小さなお祭と呼んでもいいレベル。
このイベントのおかげで、教会と神社が成り立っていると言っても過言ではない。
……いや、これはさすがに過言になるか。
ともかく、今では重要なイベントとなっているのは確かだから、もう対立なんてやめて! とも言い出せず。
ま、せっかくだしお祭り気分でせいぜい楽しむしかないよね、と思って諦めているミーと葉雪だった。
「今週末のバトル、手加減しないからね、覚悟しておきなさいよっ!」
「……う、うん……、お互い楽しもうね。でも、痛くはしないでほしいかな……」
「ふっふっふ。動けなくして、あんなことやこんなこと、しちゃおっかな!」
「あう~、澪音のいじわる~~」
暖かな日差しが降りそそぐ静かな帰り道には、ただミーと葉雪のじゃれ合う声だけが響き渡っていた。