セキュメディカ ―2―
何もかもが終わったのだ。
俺はトイレの個室で用を足しながら、先程の失態を思い返して猛反省していた。
これでも社会人である。仕事には時としてプライドを捨ててでも土下座しなければいけない場面があることも理解している。
しかし生涯初の土下座があの場面で必要になるとは……
自分がしでかしたことへの対応とはいえ、そのチンパンジーっぷりに情けなくて涙が出てくるぞ。
ふと名刺入れを取り出し、昨日の打ち合わせの際に彼女から貰った名刺をパラパラと探した。
「相羽 凪 アイバ ナギ」
取り出した一枚の名刺をしばらくボンヤリと見つめながら、「『ナギ』、か…」と呟くと、ふと頭に昔の光景が霧掛かったように浮かんできた。
やや薄暗い中、オレンジの夕日が差し込む本社の役員会議室。立ち上がり熱心に説明を続ける俺。やれやれといった表情で失笑を浮かべる上司。既に別の話をしている役員。下を向いて存在感を消す同僚。
足先から力が抜けていくと同時に心まで白く塗りつぶされていく感覚。
「くっ」頭を軽く振ってイメージを振り払う。
気持ちを落ち着かせるために「スゥーー ハァー」と深く深呼吸すると、トイレに充満した自分の排泄物の臭いに逆に気が遠のいたが、気持ちの切り替えはできた。
彼女の名刺をクルクルと回しながら、「名前と顔は可愛いのになぁ…… なんであんなにキツイんだろう」と残念な気持ちになった。
そして先程の『顧客の女性に向かって、会心のドセクハラ』という有り得ない無礼を思い返し、「あああぁぁ…… この先、彼女と顔を合わせ辛すぎるだろう…… 失敗したなぁ」と後悔に呻いた。
だがしかし、こんなことで仕事から逃げていたのではサラリーマンは務まらない。
俺は涙と排泄物を一緒に水に流し、その水流を見届けてからトイレの扉を開け、颯爽とまた歩き出した。手を洗っていなかったので一度トイレに戻った。
サーバールームに戻ると向野が帰り支度をしているところだった。
「さっき、担当の方がみえましたよ。今日はこれで上がってくださいとのことです」解析用PCとその他の機材を鞄に詰めながら伝えてきた。
結局かなり長い時間、離席してしまっていたが、そのことには特に触れてこなかった。
たぁっ と息を吐いて椅子に腰掛けて「ってことは、やっぱりまだ原因解明には至らずだよね?」と一応進捗を確認してみたが、返事は「はい」とのこと。
まあ、片づけしてるんだからそうだろう。
ここはこちらの誠意を見せて、もう少しやらせてくださいと先方に頼み込むのもありだとは思うが、結局あちらとしても俺たちの対応をする人間を残さなくてはいけないので、ここまでと言われたものを無理にお願いしても逆効果な場合もある。
それにこれまで調査してみて、ちょっと気になることもあるし、一度整理する必要もありそうだ。
ここは素直に明日また出直したほうがいいかな。
「ところで伝えに来た人って女性だった?」
「ええ。相羽さん、と言う方だったと思います」
俺はその名前を聞くだけで反射的に萎縮してしまった。しかし動揺した素振りは見せないよう努めて冷静に振舞った。
鞄のチャックを閉めようとして自分の指を挟むなんて器用な技を披露しつつ「あ、あ、相羽さんって、結構キツくない?」と同意を求めてみた。
「フレンドリーには見えませんが、別にキツくないと思いますよ。逆におとなしい人のように感じましたけど」
サラッと言ってのける向野をちょっと尊敬の眼差しで見てしまったが、彼が鈍感なだけかもしれない。
いや、あの振る舞いに気がつかないってのは鈍感とかどうとかの範囲を超えている。
ってことはもしかして、俺にだけあんな態度なのか……? たしかに八方に対してあんな態度をとっていては社会人としてやっていけるはずないし、確かに昨日の彼女のイメージとはかけ離れているような気がするし。
「何かあったんですか?」珍しく自分に関係のなさそうな話に興味をもったかのように向野が片づけの手を休めて質問してきた。「というか、何かしたんですか?」
前言撤回。むしろ自分にも火の粉の飛びそうな問題を敏感に感じ取ったのかもしれない。向野センサー恐るべし。
「ええぇ? 何もあるわけないって」とサラリと答えた俺の手は指どころか手首からスッポリ鞄のチャックに挟まれてしまっていた。
俺の手元に目線を向けた向野は「はぁ。。。勘弁ですよ 真木坂さん」と脱力した。
そして「これ以上、ここでの状況が悪くなるのは問題です」と付け加えた。
あの『スリ胸』事件の最終的な結末は、俺が自身の身の安全のため、後々ショッキングな映像としてトラウマとなりうる物を残さない為に自ら全ての受信装置をOFFっていたので覚えてはいないのだが、確かに今後の仕事に何かしらの影響があることは考えられる。
しかしそれがどれくらいのものかは判断できない。ので、「直ちに影響の出るレベルのものではない」と安心感溢れる回答をした。
「それって影響はあるって言ってるんですよ?」もはや自分にも火の粉が飛んでいることを自覚した向野は脱力が達して椅子に座り込んだ。
信頼の上に成り立つ強固な安心感とは、物事に対してお互いに真摯に取り組まなければ得られないものであると改めて実感し、起こったことの全てを話し、さあ、共に解決策を考えようではないかと提案した。
が、真実を知って更なる絶望感を相手に与えたのは事実である。信頼ってのは難しい。
「でもさ、」とドス黒い重い空気を掻き分けて自分なりの分析結果を報告してみた。
「さっき相羽さんが向野君に対応した状況を聞く限り、たぶんお咎めがあるとしても俺に対してだけだと思うよ。 それにしたって、これは仕事なんだし、いくらなんでもそんなにあからさまには嫌がらせとかはないって」
それを聞いた向野が少し考えている。やがて納得したのか、ややホッとしたように帰り支度を再開した。
いや、ちょっと待ってくれ向野後輩。もう少し先輩の為に一緒に解決策を検討しようじゃないかと説得するが、「はあ……」とか、「ちょっと今はわかりません」とかいった気の無い返事しか返ってくることはなかった。
しつこく(ちょっと涙目で)説得を続けていると、ピリピリピリピリと室内の内線電話が鳴った。壁に取り付けられた内線電話に出ると、セキュメディカの受付からの電話だった。
「受付ですが、AFIFテクニカルサービスの方でしょうか?」
「はい。AFIFテクニカルサービスの真木坂です」
「十五分程後に担当の者がそちらに参りますので、担当の者と一緒に受付までお越しください。受付でIDカードを回収させていただいた後、退出の手続きをおこなわせていただきますので、よろしくお願いいたします」
了解しました。と電話を切ると、体中に嫌な汗が流れるのを感じながら、担当が相羽さんではないよう祈りつつ、自分の携帯電話を取り出して、本日の作業結果を報告するために上司に電話をかけた。
「それで今後どうするつもり? 今日一日無駄だよね?」
俺の携帯電話の受話口からは、あれから十五分程延々とこの音声が繰り返し流れている。
音声の主は『AFIFテクニカルサービス システム営業部 サービス二課』標木課長だ。 俺の現在の直接の上司にあたる。俺は説明を続ける。
「はい。本日の作業については、昼に課長からスピード重視との指示がありましたので、当初の調査計画の中から特に有効と思われる項目を選択して優先的に消化しました。今後の計画については、これから帰社して検討したいと考えています」
「んん? まだ計画もできてないのか。それじゃ今後はどうするつもりなんだ? 計画的にやってないんじゃ、一日無駄だろう」
どのように説明しても相手からの答えは変わらないのである。まだ数種類のレパートリーを持つリカちゃん電話のほうが優秀だ。
「真木坂君~。俺はね、君が優秀らしいからこそ今回のような重要な顧客の案件を任せているんだよ? 一体どういうこと? 手を抜いてる訳? それとも俺ごときの指示じゃやる気出ないかなぁ? なんってったって君――」
「あ、課長――」
この状況に鬼の首でも取ったかのように畳み掛け続ける課長の言葉に割り込んで一時停止をかけた。
これはもう、帰社して直接お小言貰いながら説明するほうがいいな。そう考えた俺は、「課長、すみません。先方の担当の方が見えましたので、帰社後にもう一度ご相談に伺ってもよろしいでしょうか?」と持ちかけた。
「え? ああ ならしょうがない。明日には解決できるよう、適切な作業計画を考えてくれ」と言い終わると物足りないように電話は切れた。
するとすぐに、お待たせしました。と男性の担当が愛想の良い顔をドアから覗かせた。
思いつく限りの神に感謝しつつ、迅速に本日の作業内容と結果を担当に報告し、受付での退出処理を済ませた。
セキュメディカの正門を後にして最寄駅に向かって歩きはじめると、空調の行き届いた建物から出てきたせいか、体が気温の変化に過剰に反応して汗が滲んだ。六月にしては高い気温が、今朝方降っていた雨を地面から優しく蒸発させている。まだまだ明るい空は、真っ直ぐ伸びた広めの道路を照らし、地面から緩く立ち上る湿度の波が道路脇に規則正しく並んだ街路樹を少しだけ歪ませて見せる。
振り向くと都心から少しだけ離れた郊外に建つ、十二階建てのセキュメディカ本社の全景が確認できた。その周囲にはセキュメディカ程高い建築物はなく、中級のマンションやビルがポツポツと建っているため、その十二階建ての建物は特に強い存在感を放っている。その代わり、このあたりには公園や自然など緑が比較的多く見かけられ、雰囲気はよい。
セキュメディカから最寄駅までの十五分程度の帰り道のりを、疲れた二人のサラリーマンが他愛の無い会話のキャッチボールをしながら歩く。だが、向野からの返球は基本的にやる気の無い手投げボールだったのだが…… 時に返球すら無かったし……
別に全然強制するわけなんかじゃないのだが、なんとなく彼がセーブしているのを感じてしまうので、それが気になってしまうのだ。プロじゃないんだし、別に絶好球を胸元に返して欲しいわけじゃない。
コントロールが狂ったって、スピードが遅くったって、むしろ暴投だって構わないんだ。それに自分の気持ちを込めてくれているのなら、俺は後ろに逸れたボールを笑いながら拾いに行けるようになりたいんだ。
とっておきの話題である『アザラシとアシカの見分け方』のネタ振りが終わり、どう見ても興味無さそうな向野に向けて、度肝抜きやがれとばかりに見分け方のコツを披露しようとしたちょうどその時、「着きましたよ」と向野が目の前を指差した。
指の先を見上げると目的の駅舎が映った。あら、いつのまにか目的の駅に到着していたのか。 気がつくと、気温と湿度と擬似一人キャッチボールで俺だけ汗だくになっていた。
俺はこの後、一時間程かけて一度帰社して再度課長に報告した後、報告書を作成してから、明日の対応策を検討しなければならなかった。しかし向野も同行させたとしても、手分けして処理できる作業は特にない。結構盛り沢山に見えるが、これくらいの仕事なら俺一人でも簡単に終わらせることが出来るし、二人いても進捗状況にさほど違いが出るとは思わなかったので、彼には何も言わず、ここで家に返すことにした。
別に何なりと理由をつけて引っ張っていくこともできるんだけど、そういうのはもっとそれが必要な状況ときにやればいいのだ。どっちでもいい時なんかは別に。ねぇ。
向野は何か少し意外な感じの顔をしていたようだけど、すぐにもとのクールな表情に戻った。
ただ解散する前に『腹が減ったから飯でもくっていくか』と言ったときに『僕はいいです』なんて連れない事を言ったので、俺の奢りだ遠慮するなと強引に店に連れ込んだ。
これは大事な事項になるのだ。俺にとっては。 たぶん…
店には最早こちらが利益の心配をしてしまう値段を記したノボリが掲げてあった。
庶民にとってはありがたく、経営者にとっては壮絶な消耗戦となっている牛丼の乱に感謝。
店に入ると俺は、実戦と経験にバキバキに裏打ちされまくった洗練された無駄のない所作で、「並 ネギだく お茶じゃなくお冷を」と優雅にオーダーした。
向野は財布を取り出し、「自分の分は自分で払いま……」とまで言ってから言葉を止めた。そして何か少し考えて「……奢ってもらってもいいんですか?」と小さく聞いてきた。こころなしか緊張して顔が紅潮しているように見えた。メガネは何故か曇ってたけど。
向野が止めてしまった最初のセリフにはある程度予想はついていたけど、言い直したセリフはちょっと意外だった。なんだよちょっと嬉しいじゃないか。が、残念ながら俺は男にトキメク趣味はコレっぽっちもないんだ。すまないな。
「い、いいってのっ!」
――――なんで吃るかね…… 俺は死んだほうがいいかもしれない。
「では」と向野がメニューを手元に取った。おいおいメニューなんて見る必要ないだろうに。向野の視線の先は、定食系のメニューが並んでいた。
あ、ちょっと待て 定食系は反則だろう! いや、サイドメニューなんか見るな!! 素人かおまえはっ!!
向野に本気指導する俺は、どうやら金銭がからむキャッチボールの際には、暴投どころか僅かなコントロールミスさえ許すことができない未熟な小者であることが自覚できて悲しかった。
こんな時間を目敏く探してる。
まだまだ手探りで形になんてならなくて、方向なんかも自信は無いんだけれど、ほんの僅かな感触は感じている。
だから『そんな悪いもんじゃないんだよ』