第八区切り
やがて、もう一人の母さんも来て、三人揃っての朝食が始まった。
今日は、俺も席に着けたのは、母さんが納屋から一つ椅子を出してきたからだ。
とは言っても、何年も前に使っていた木の古い椅子なのだが。
俺が寝ている間に、引っ張り出してきたらしい。
「綺麗に拭いといたから、これ使ってね」と母さんが言ったので、特に文句も無いしそれを使う事にした。
起きて、その椅子を目にし、どうしたのかと聞くとそう答えたので、
俺はなんでもう一人の自分という意味不明な客人の椅子を用意するのかと思ったが、
そうだ、母さんはそういう人なのだと改めて思った。
母さんと俺の二人暮らしのこの家。
母さんは所謂シングルマザーというもので、幼い頃から母さん一人で俺を育ててくれていた。
物心ついた時にはすでに父親がいなくて、大きくなるに連れて父親がいないのを不思議に思うようになったが、幼いながらにきっと聞いてはいけない事なのだと悟った。
俺がまだ小さい時も、今も、母さんは俺が学校に行ってる間に仕事をしていた。
だいたい六時から七時くらいには帰って来て、きちんと晩ご飯を作ってくれる。
母さんのおかげで、父親がいなくても食べる物に困る事は無かったと思う。
ただ、裕福というわけではなかったので、欲しい物があってもすべて買えるわけじゃなかった。
その為、小学生の時に皆がカードゲームにはまっている中、俺は一枚もカードを買うことはしなかった。
母さんが一生懸命頑張っているのは分かっていたから、大きくなるにつれ、我侭は言わないようになった。
母さんは度々「家は大丈夫だから。何か欲しい物ない?」と聞いてきたが、俺は首を横に振るばかりだった。
ただ、あまり金が無いにも関わらず教材などは買ってきてくれて、そういう母さんの気持ちがとてもありがたかった。
そう、母さんは常に俺に優しく在ろうとした。
俺だけじゃなく、きっと周りにも。
すでに母さんと暮らして十六年。
そういう幾多の優しい母さんを見てきたが、正直、今目の前にいる二人の母さんのどちらが本物かなんて、皆目検討もつかなかった。
朝食はきちんと三人分用意されていた。
椅子も三人分。
もう一人の自分だろうがなんだろうが、母さんはこういう人なのだ。
二人の母さんはご飯を黙々と食べるばかりで、まるで話そうとしなかった。
俺も黙々と食べるばかりで、会話はしなかった。
話さなければならないと思いつつ、未だにどう話せばいいのか、本当に話していいのか。
そればかりを考えていた。
やがて、重い沈黙を破ったのは俺だった。
「……ねえ、母さん」
「なに?」
二人の母さんは同時に声を出した。食卓に落としていた目を俺へと向け、同じ言葉を――。
そのことに二人の母さんは悲しそうな、嫌そうな、なんとも言えない複雑な顔をする。
「いや……さ、とっくに分かってると思うけど。この異様な光景のことを。その、たぶん、俺のせい……なんだ。……なの、かな……。俺のせいだと思うんだけど、俺にもいまいちよく分かってなくて、その……」
口篭るばかりの自分が情けなかった。
自分の口から『二人のうちどちらかを殺さなきゃいけない』なんて、そんなこと、一体どうして自分に言えるのだろう? 自分がどうして言わなければならないのだろう?
情けない。まだその言葉の一文字目だって口にしていないのに、涙目になっている自分なんかがいるのだから。
「楓、大丈夫よ」
ふっ、と柔和に微笑む母二人の姿が映った。
声を掛けたのは一人だけど、どっちも同じように優しく、微笑んでいるのだ。
言葉を失った。自分なんかよりずっとずっと、遥かに不安なのは母さんに違いない。
俺も未だにこの状況をよく理解していないが、母さんよりよっぽど、どうすればいいのかとかそういうことは分かっている。
なのに、どうして……自分が泣いてしまえる? 不安なのも、泣きたいのも母さんな筈だ。
なら自分に出来ることは、笑う事はできないけれど、泣かないくらいできるはずじゃないか?
「……ありがとう、母さん。……うん、あのね、」
呼吸を整える。
俺が言わなければならないのだ。
他の誰でもなく、自分が。
「俺が……二人の母さんのうちのどっちかを――殺さなきゃいけないんだ」