斜陽
翠嵐はぐぐぐ、と歯を食いしばって耐えていた。その背には麻ひもで干し飯やら薬草やらをまとめた包みがくくりつけてある。両手にはこれまた水の入った革袋と、武器の入った布袋。必死に踏ん張った足が重みで地面にめり込みそうだ。紐が柔らかい肌に食い込んで、すでにあちこちがひりひりと痛い。
「どうした。もうお手上げか?」
「だっ、大丈夫だよ」
投げかけられた問いに、慌てて翠嵐は笑顔をつくった。翠嵐の何倍もの荷物を担いでも涼しい顔をした昴流が、長身を折り曲げて翠嵐の顔を覗き込む。
「ふうん?根性はあるみたいだな?」
感心しているのか、呆れているのか。はたまた面白がっているのか。翠嵐には解らない。
「だって、少しでも昴流の役に立ちたいんだもん!」
「まあいい。自分の言葉には責任を持てよ」
うん、と翠嵐は力強く頷いた。
そうなのだ。対外的には昴流が翠嵐を苛めているとしか見えないこの状況は、翠嵐の望んだものだった。
旅立ちは早い方がいいということで、昴流は朝起きると早速、金蘭の中心街へ買い出しに出かけると言って宿を出た。おまえは待っておけと言われたのを、翠嵐が自ら荷物持ちになりたいと志願したのだ。少しでも昴流を手伝いたいと願って、足手まといだと渋る昴流に無理矢理ついてきた。
雲上原で育ち、それこそ箸より重いものを持ったことのない翠嵐は、少しばかりの荷物を持っただけでも途端に歩みが遅くなった。無言で次々に渡される荷物に内心で冷や汗をかいても、「どうした?さては重いんだろう?」と優しく──ほぼ猫なで声に近い──聞かれても、「大丈夫」と最早意地になって翠嵐は答え続けていた。
昴流は翠嵐のぎこちない笑顔を一瞥してから、端正な顔を少しも動かさぬまま、興味をなくしたようにまた歩き始める。翠嵐もよいしょと荷物を背負い直して後を追った。
整地されていない道は、少し風がふくと簡単に砂埃が舞い上がる。金蘭は海に近い風の街だ。喧噪の合間に、ちりんちりん、と店先の玻璃細工が可愛らしい音で鳴き、疲れを慰めてくれた。
汗が目に入る痛みに目をぱちぱちさせながら、翠嵐は黒い背中をじっとみつめる。くすんだ埃っぽい人ごみの中で不思議とその姿は浮いてみえた。黒地に、裾には銀糸で薄い模様の入った長い深衣を着た、すらりとした体躯。筋骨隆々とはほど遠く、力自慢の武官には見えない。かといって凡庸な市民に見えるわけでもない。
肩に背負う荷物の重みに負けず、背筋はぴんと伸び、歩き方に無駄がなかった。ただ者ではない洗練された雰囲気は、例えるならば、どこかの国の軍師といった風情。
一体、彼は何者なのだろう。考えてみれば、翠嵐はそれすら知らないのだった。
「お兄さん、今宵の宿はいかがかしら」
翠嵐が少しでも遅れると、たちまち彼はきらびやかな女性たちに囲まれて袖をひかれる。
その女たちの耳元へ囁き返す声は、何を言っているのか解らない。女たちが顔を赤くして、きゃらきゃらと笑いあうのがみえるだけ。女たちの大胆に開けた胸元の白さが眩しい。一瞬昴流の横顔がちらり、と見えた。涼しい口元が笑っているみたいだった。
ただ、なんとなくそれ以上は恥ずかしくて見ていられない気がして、翠嵐は慌てて3歩の差を縮めて一生懸命にその足にかじりつく。
女たちは、顔を真っ赤にして息をつく翠嵐の必死の形相にたじろいで、白粉の香りだけ残してまたねと言って去っていった。
「なんだ?」
少し驚いたような昴流の声に、やっと自分が邪魔をしてしまったのではないかと思い当たる。気まずくなった翠嵐はことさらはしゃいだ声をあげた。
「つ、次はどこへいくの!?」
「次は、薬屋だ」
ぽん、と頭にのせられた手が、次第に翠嵐に重みをかける。押し込められるようにして、顎が首にくっつき、翠嵐の視線が地面におちた。昴流の顔はみえない。
「昴流!おも、重いよっ」
困惑した翠嵐は抗議の声をあげた。
「やっと言ったな」
手がすっとどけられると同時に、突然肩が軽くなる。え、と思って見上げると昴流がいつの間にか翠嵐の肩の荷を取り上げていた。
「おまえは本当に変わった龍だな。誇り高い龍は、普通荷物持ちなんて下僕のような真似はしないぞ」
それは、翠嵐が龍族ではないからだ。と、翠嵐の心に一瞬暗い影が落ちたが、すぐに心のはしに追いやった。
「ま、待って!わたし持つよ!?」
「意地はってずっと重い物を持っていると腰を痛めるぞ。それともこれ以上、私が子どもに荷物を持たせる鬼畜だと周りに知らしめたいのか?」
「で、でも…」
きつい言葉にたじろぐ。
けれど、何かしていないと、罪悪感で潰されそうで、落ち着かないのだった。翠嵐は龍族でもなんでもない。ただ龍玉を持っているだけの何もできない子どもだ。
しょんぼり俯く翠嵐の頭に、棒読みの声が振ってくる。
「こんなに暑いとやっていられないな。久しぶりに氷菓子でも食べたい気分だが、荷物が多くて買ってくるのが面倒だ」
翠嵐がぱっと顔をあげると、目の前に銅銭が差し出される。
「買って来てくれるか」
「うん!」
勢い良く頷くと、翠嵐は喜び勇んで駆け出した。
「本当に変わった奴だ…」
その小さな背中を見て、昴流が小さくぼやいた。
そろそろ陽射しが肌に痛くなってくる頃とあり、氷菓子ののぼりはあちこちで見つかった。名物の氷菓子は、金蘭を見下ろす蒼梧山の奥地から、毎朝運んでくる氷を用いるのだという。
初めて見る氷菓子は、たちまち翠嵐を夢中にした。ひんやり硝子みたいな氷の中に、鋭い光の欠片を閉じ込めて、きらきらしている。翠嵐は、興奮で氷を溶かさないかと心配になりながら、紅や橙、黄に碧と色々とりどりの氷菓子から、赤いのと黄色いのを1つずつ選んだ。宝石のように小さな容れ物に入った氷菓子は、すぐに汗をかき出したので、翠嵐は急いで来た道を小走りに引き返す。その途中、ふと目にとまる物があった。
「ねえ、昴流。あれは、なあに?」
待ち合わせの薬屋に戻ってくると、すでに昴流は買い物を終えたあとのようで、柱にもたれかかって待っていた。指差す先をみて、すこし眉をひそめる。
「あれか。あれは、新しい廟だな」
「龍神様を祀っているの?」
「…見てみるか?」
道に面したところに紅い堂々とした門構えがあり、頻繁に人が出入りしている。昴流とともに中を覗き込むと、確かに立派な廟があった。氷菓子を口に運ぶのも忘れてうわあと思わず歓声をあげた。
社の中には、麦穂を模した金銀の飾りが至る所にある。中央には立派な祭壇が構え、布や穀物の供物で溢れかえっていた。
そこで、あれ、と翠嵐は首を傾げる。祭壇の上に鎮座しているのは、翠嵐のよく知る龍神様の御姿ではない。優しげな瞳をして手を差しのべる女性だ。翠嵐の知る限りでは、こんな神様は龍神様の家臣にもいないはず。
「龍神様は?」
見慣れたものがそこにない不安がこもっていたのだろう。すぐ前で拝んでいたおじさんが振り返った。
「嬢ちゃん。まだ龍神なんざ信じているのかい。今は晶慶様の時代だよ。皇帝陛下もこの神様に夢中だって話だ」
「そんな…」
驚いて何も言えずにいる翠嵐に、親切なおじさんは焼香を何本か分けてくれた。緑色の見慣れない焼香をじっとみつめる。横から昴流が焼香を何本か抜き取り、火をもらって祭壇に備えた。
「知らなかったのか?」
特に驚いた様子もない。自分だけが知らなかったのだ。なんだか騙されたような気持ちになって、翠嵐は唇を噛んだ。
「龍神様は…嫌われているの?」
「そうだな。龍神は慈悲を知らない。その尻尾は嵐を起こし、怒りは雷となり、息吹で雪を降らせる。破壊の限りをつくし、人の無力を嘲笑う」
「龍神様が慈悲を知らないわけがない。作物は雨がないと実らない。嵐がなければ大地は潤わないのに」
「人は何かに怯え、畏れているのが嫌になったんだよ。力で従わせる神よりも、優しく包み込む神の方が良い。加えて龍神の眷属である龍族は傲慢だ。誇り高く融通がきかず、高慢で恐れ知らず。人間にはとても扱いにくいだろうな」
悔しかった。確かに、翠嵐の知る龍族は、矜持が高く、あまり他人に干渉されるのを好まない者が多かったが、けしてそれだけではないのに。相手をなかなか認めない分、一度相手を認めれば、その情は炎よりも熱く海よりも深いと聞いている。飛焔のように、優しく人当たりの良い龍だっているのだ。
「皆が皆、傲慢なわけじゃないよ…」
「それは人だって同じだ。今も龍神を信じる奴らもいる」
翠嵐はそれ以上何もいえなかった。信じる神様を決めるのは自分の心だ。無理矢理強制するものではない。
「まあ、私自身はこの神は好きになれないな」
昴流は喧嘩を売るように腕組みをしたまま神像を睨み上げる。何かを見極めるように、双眸をすがめた。
「どうして?」
「目的が解っているのにわざわざ騙されるのは癪だろう?」
「どういうこと?」
謎めいた笑みを浮かべて、昴流はそれ以上答えてくれなかった。