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  作者: かの@
3/7

金蘭の夕暮れ

 なんでこんなことになったのだろう、とその妖魔を見た時から翠嵐は後悔し始めていた。


「これに乗るの…?」


 不満が声に表れていたのだろう、上からじろりと殺気だった視線が突き刺さる。あわてて翠嵐は亀よろしく首をすくめた。


「飛べないんだから大人しく乗れ」


 翠嵐はあらためて目の前の妖魔を眺める。煤けた茶色の身体は全体が深い体毛で覆われていて、丸い目が埋もれないのが不思議なほどだ。鷲をもっと巨大にし、醜悪にしたらこんな生物ができあがるだろうか。恐ろしいのはそのかぎ爪で、その爪にかかれば間違いなく翠嵐など一瞬で八つ裂きだ。

 男は手慣れた様子で口にかませた手綱を掴み、馬に乗るような気軽さでひょいと飛び乗った。そのまま手招きされて近づくと、手荒に腰を掴まれ、引っ張り上げられて、気づけば妖魔の背中をまたいでいる。

 まるで妖しい術のようだ。と翠嵐は思った。男は驚くほどに手際がよかった。翠嵐に口を挟む隙も故郷との別れを惜しむ暇も与えずに、手綱を引いて地を蹴った。


 妖魔の背中は快適とは言い難い。手も足も総動員してしがみつきながら、翠嵐は顔の肉がすべて後ろに持って行かれる感覚を味わっていた。衣装のはためく音が五月蝿くて、そのうち千切れてしまうんじゃないかと心配になる。

 妖魔は翼を力強くはばたかせてぐんぐん上昇し、雲を突き破って雲海の上へ出た。すると途端に下界はみえなくなり、雲上原の本当にてっぺんの部分だけがぽっかり顔を出している。みるみるうちにそれも点になってしまって、翠嵐は心細くなった。

 今自分の腰を抱いている腕の力強さだけが救いだ。


 「おまえが必要だ」、と祭壇に突如現れたこの男は言ったのだ。それはなんて、魅力的な響きだっただろう。

 翠嵐は自分が龍ではないなどとは、みじめで言い出せなかった。けれど代わりに、翠嵐がまだ幼く何の役にも立ちそうにないことを説明しても、それでも男は譲らなかった。「対価は払う。結界を抜けるまで一緒に来て欲しい」と、男は頼んだ。

 男いわく、男は山の禁域で狩りをするうちに、この雲上原に迷い込んでしまい、出られなくなってしまったらしい。雲上原は、閉鎖された土地である。下界の者は、入ることはできても出ることは赦されない。張り巡らされた結界を抜けるには、翠嵐がもつ龍のぎょくが必要なのだ。

 翠嵐は悩んだ。儀式を経て自分が龍族でないことが解ってしまった今、どのみち雲上原にはいられない。なにより、飛焔に会うのが怖くて仕方なかった。あんなに翠嵐を大切にしてくれたのに、龍族でないと解ったら、どんなにがっかりするだろうか。どんなに悲しむだろうか。──合わせる顔がない。

 だからといって、飛べない翠嵐が、一人でこの陸の孤島である雲上原から出るのは無理だろう。この男の申し出は、誰にも知られずに雲上原から逃げ出す絶好のチャンスといえる。

 結局、翠嵐は逃げることを選んだ。

 「私を下界まで送り届けてくれるなら、協力する」と警戒しながらも口に出すと、男は頷き、契約の儀式をしようと持ちかけた。困ったことに、翠嵐は契約の儀式の仕方を知らない。しょうがないので、男に教えられたとおりの言葉を復唱した。


「リュウジンノシュクフクヲウケシワガヨクカ。トワノサカズキヲトモニユケ──」


 すべて言い終わると、男はつかつかと歩みよって腰を掴み、強引に顔を寄せてきた。そして、慌てふためいてのけぞる翠嵐の唇に文字通り噛み付いた。髪の毛一筋ほどの躊躇いもなかった。びっくりしたその瞬間、翠嵐は胸の奥がなぜか急に熱くなって、頭の中が一瞬真っ白になった。

 気づいたら、男に身体を支えられていた。目を白黒させている翠嵐は滑稽だったに違いない。「契約は完了した。これで、おまえは俺の龍だ」そう言って男は唇を歪めた。

 龍ではないのに、と翠嵐の心が罪悪感でずきんと痛む。なんだかとんでもないことをしてしまった。そんな予感があった。あの唇の温かい感触を味わった瞬間、たしかに感じたあの高揚は、なんだったのだろう。飛焔の声が蘇る。


『特に気をつけねばならないのは人間と結ぶ契約です』


 けれど、自分は龍族ではなかったのだから、龍族の掟に縛られることもないはずだ。翠嵐は不安にゆれる自分の心をなだめすかすと、さっさと先を行く男の後を追ったのだった。


 翠嵐が色々と思い出しているうちに、雲上原の結界は無事抜けたようだった。白い雲海と群青の空は世界をどこまでも二分している。これなら天地がひっくり返ってもきっとわからないだろう。翠嵐は血が騒ぐような感覚を覚え、妖魔から飛び降りてしまいたい衝動に戸惑った。こんなことは初めてだ。

 男は妖魔に乗ることになれているらしい。でないと、この吹きすさぶ風の中で落ち着いて話すことなどできやしない。


「とりあえず、ここを少し北にいった金蘭に降りる」


 翠嵐は金蘭がどんな都市なのか、まったくもってわからなかったが、何か言葉を口にだせる状況ではなかったので黙っていた。男はそれを了承ととったようだった。




「そんなにきょろきょろするな」


 男は呆れて軽く翠嵐の頭をはたいた。翠嵐は目をぱちくりさせて頭をさする。くるっと大きな金茶の瞳を上に向けると、男が再び溜め息をついた。

 とりあえず、金蘭は翠嵐の予想を遥かに上回る大都市だった。これまでの人生で見た人数を遥かに上回る量の人で往来が賑わっている。足の短い馬が荷台をひきずって通り過ぎる。噎せ返るような獣の匂い。乾いた土の匂い。そして汗の混じる人の匂い。

 一気に流れ込んで来て、翠嵐を興奮させるのには十分だった。


「すごい!いっぱいヒトがいる!」

「あたりまえだろう。ここは金蘭だ」


 男は、人ごみに埋もれそうになった翠嵐の首ねっこを引っ掴んで救い出した。妖魔がその様子を見て、馬鹿にしたように、ぎょろりと黄色く濁った目をめぐらせる。

 妖魔を内心こわごわ睨みつけてから、翠嵐は男を振り仰いだ。


「ねえねえ、えーっと………おじさん?」


 絶句したような、奇妙な沈黙がおちる。翠嵐は男の名前をすっかり忘れていた。


「…私の名は昴流だ。そう呼べ」

「なら、わたしの名前は翠嵐だよ。今からどこへ行くの?」

「もうすぐ日暮れだから、とりあえず宿に行く。翠嵐、きょろきょろするな、私の手を離すな」

「なんで?」

「物取りに狙われたくなければ大人しく言う通りにしろ」


 男──昴流は殺気立った目で翠嵐を串刺しにした。強引に翠嵐の右手を左手で掴み直すと、右手に妖魔の綱を引いて、さっさと脇目もふらずに歩き始める。翠嵐の足とではコンパスが違いすぎて、翠嵐は殆ど小走りになった。

 昴流がかき分けて進む人々の群れが、じろじろと翠嵐を眺め回していく。何かおかしいのだろうか、と翠嵐は落ち着かない。上等な着物を纏った自分が、どこかの貴族と間違われて目立っていることも知らずに、首を傾げた。

 昴流は急いでいるようだった。翠嵐の足が弱音を上げ始めたころ、やっと、龍の寝息でも簡単に倒壊してしまいそうな程に古びた宿へ辿り着く。もっと街を探検してみたくてうずうずしている翠嵐をさっさと宿に押し込めると、絶対に宿を出るなと釘をさして、どこかへ出かけて行った。

 翠嵐はぽつんと狭い部屋に取り残された。昴流が銅貨を三枚払って手に入れた部屋は、寝台が1つと椅子が1つあるだけの簡素なものだった。翠嵐が腰掛けると寝台は悲鳴をあげて軋んだ。


「今にも壊れそう…」


 寝台の上には襤褸布がかろうじて乗っかっていた。指でなぞると、肌が痛くなるくらいごわごわしている。すぐに部屋の観察にも飽きて露台に出ると、そろそろ空が橙色に染まり始めていた。

 翠嵐は思わず歓声をあげた。

 地上を這いつくばっていては見えない景色が広がっていた。押し込めるようにして瓦葺きの家々が立ち並び、夕日を受けて蒼い瓦が鈍く光る。ところどころに、たなびく煙は、人々の息づく証。赤や緑、青や黄色の色とりどりの旗が翻り、家と家の間に渡した綱に衣が揺れていた。客寄せの声に混じって夕暮れの寺の鐘が空を渡る。

 そこで初めて、翠嵐は実感した。ここは、もう雲上原ではないのだと。翠嵐はひとりぼっちで、また八年前に逆戻りしてしまったのだ。

 みるみるうちにぼやけていく景色をそのままに、それでも、不思議と翠嵐は祭壇の前で泣いた時のように絶望はしていなかった。

 それは、この景色がどこか懐かしい気がするせいかもしれないし、あの男──昴流の存在があるからかもしれなかった。


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