約束
儀式の控えの間で、翠嵐は作り上げられて行く自分をじっと鏡越しに眺めていた。大勢の女官が翠嵐を取り囲み、流れるような動作で衣を着せ、髪を結い、白粉をはたいていく。
女官は皆そっけなく、必要最低限のことしか口にしない。沈黙に息がつまりそうだった。翠嵐は、早く飛焔が来てくれないだろうかとそればかり考えていた。
「さあ、できましたよ」
女官の中でも一番年かさの、女官長の言葉を合図に、潮をひくように女官が消えて行く。豪奢な控え室の中、翠嵐だけが取り残された。寒くもないのに、翠嵐は身を震わせて、ほっと安堵の溜め息をついた。
そして、そんな自分に嫌気がさす。もう雲上原にきて8年になろうというのに、まだここの雰囲気に縮こまってしまうのだ。
ぼんやりと窓の外を眺めると、どんよりとした灰色の雲が、峻厳な山々にまとわりついていた。いつも眺める下界の燃えるような緑も、今日は霧の中に姿を隠している。
すぐに扉が遠慮がちに叩かれた。
「飛焔!」
翠嵐は途端にぱっと瞳を輝かせて振り返った。入ってきたのは、見慣れた背の高い炎の色の瞳を持った青年──飛焔だった。いつもより格段に重い衣装をものともせず、翠嵐は飛焔に飛びついた。飛焔は慣れた様子で、両腕を広げてそれを受け止める。
「翠嵐様。あんまり顔をおしつけるとせっかくのお化粧がとれてしまうでしょう」
「いいの!」
翠嵐はぎゅうぎゅうと自分の身体を飛焔におしつけた。形の良い眉を下げて、困ったように飛焔が笑う。彼も翠嵐の不安を十分理解しているのだ。
「飛焔、飛焔も成人の儀式をしたんでしょう?ねえ、その時のことを聞かせてよ」
「そうですね。もう10年も前になりますね。私も翠嵐様みたいに不安で、母上に泣きついた記憶がありますよ」
「ほんとう?」
意外な気がして翠嵐は顔をあげた。飛焔は真面目な顔になって頷いた。
翠嵐がここに連れてこられた時には、すでに飛焔は十分に大人の龍で、頼もしい存在だった。
実際、彼は龍族の男に相応しく肩幅の広い立派な体格をしていたし、整った鼻梁と知性をたたえた緋色の瞳は文句なしに美しい。何も怖いものがないようにみえる。
そんな飛焔が泣いたなんて、そもそも翠嵐と変わらぬ年の頃があったなんて、ちょっぴりおかしい気がする。
「誰でも大人になるのは怖いものです、翠嵐様。自分の足で立って歩かねばならない。最初は怯え、震えるでしょう。それが当然。時々は杖にすがってもいい。それでも己の足で立つ、それが誇りというものですよ」
「誇り…」
「龍族は誇り高い一族です。貴方にもその血が流れている」
とん、と人差し指で軽く胸を突かれる。翠嵐の視線は自然と下がった。
本当に、自分は龍族なのだろうか?口に出せない問いが胸のうちでぐるぐると渦を巻く。
翠嵐は自分の父も母も知らない。雲上原に突然6つの時に連れてこられて、龍族なのだと言われただけだ。もう14になるのに、全く力が発現する気配もない。
成人の儀式は、洞窟の奥の祭壇で、龍神様に祈りを捧げ、認めてもらうことだという。翠嵐は、そこで龍神様にお前は龍族ではないと言われてしまうのではないかと気が気ではなかった。
龍族でないと知ったら、どうなるだろう?雲上原を追い出されては、翠嵐には行く所がない。飛焔とも会えなくなるかもしれない。いや、もっと最悪なことがある。彼に見捨てられたら?龍族ですらない翠嵐は何を拠り所に彼に縋ればいいのだろう?
「今すぐ大人になれとは言いませんよ。貴方はまだ14だ。私という杖に頼ってくれてかまわないのですから」
そっと飛焔は翠嵐を離すと、改まった様子で膝を折り、正式な跪拝の礼をとった。
彼は、時々こうやって翠嵐に跪く。なぜなら、飛焔は翠嵐の「家臣」だからだという。そういう時の飛焔はなぜだか少し遠く感じられて、翠嵐は嫌だった。翠嵐にとっては、彼は家臣などというわけの解らない存在ではなく、たった一人の家族だったから。
でも、翠嵐が文句を言うと、飛焔は「けじめ」はつけなければならないと翠嵐をたしなめた。そしてきまって言うのだ。翠嵐様、覚えていてください。龍族は誇り高い一族。自分が一生を尽くして仕えると決めた者にしか、けして膝をつかないのです、と。
「飛焔…」
翠嵐の不安を感じ取ったかのように、飛焔は、そっと翠嵐の手をとった。
「翠嵐様、この度はおめでとうございます」
「ありがとう」
彼はしばらく翠嵐をじっと眺めた。一連の動作はいつになく恭しくて、その瞳にこめられた熱い温度に、翠嵐はもじもじした。
「綺麗ですね。とてもよく似合っていますよ」
今の翠嵐は、これから行われる成人の儀式のために最大限に着飾っていた。青と碧を基調とした衣は、実際彼女の銀色の髪と金茶の瞳によく似合う。
けれど、いつも簡素で動きやすい服装を好む翠嵐には、大げさな衣装は気恥ずかしい気持ちが大きかった。
「私は貴方に言っておかねばならないことがあるのです。成人の儀が終われば、貴方は一人前の龍族となる。そうしたらもう、私の手をはなれてしまう」
翠嵐は突き放されたような気がして目を見開いた。それを察したのか、飛焔は少し口元に笑みを浮かべて翠嵐を安心させる。
「違いますよ。私はできる限りずっと翠嵐様のおそばにいるつもりです。そうではなく、私の力の及ばない部分もでてくるということです」
「たとえば?」
「契約です。特に気をつけねばならないのは人間と結ぶ契約です。龍族は誇り高き一族ですから、一度結んだ契約は違えてはならない。その契約には、当人以外は介入することが赦されない。だから人間は、まだ幼い龍を狙って騙そうとしてくる。そうやって騙された哀れな眷属を私は何人もこの目で見てきました」
雲上が原につれてこられてから一度も下界に降りていない翠嵐は、哀れな眷属とやらを見たことがない。ただ、人間に使役される龍族は獣のように鎖に繋がれ、誇りを傷つけられ、最後は自害すると聞いている。凄絶な話だった。
「わかったよ。わたし、せいいっぱい気をつけるから」
「本当ですか?」
「うん、約束するよ」
「ほら、そうやって──簡単に約束すると言っては駄目といったでしょう」
「ごめんなさい」
翠嵐は急いで謝った。飛焔は翠嵐以外にはあまり見せない笑みを唇の端にのせる。出来の悪い生徒を甘やかすような、そんな温度で。
「もちろん、まだ貴方はすぐに雲上原を出るわけではない。だからそんなに構える必要もないのかもしれませんが」
翠嵐は素直に頷いた。まだ何の力も発現していない翠嵐は、自分との契約を望む人間などいるはずがない、ときめてかかっていた。けれど、いつかこの飛焔の心配が無駄にならないくらい、立派な龍族になりたいとの淡い願いは抱いている。
「がんばるよ。飛焔、ありがとう」
翠嵐は気づいていた。成人の儀式は、自立心旺盛な龍族といえども、普通親が最後までつきそうものなのだろう。親のいない翠嵐のために、飛焔はここで手を握っていてくれる。
「わたし、飛焔のこと大好き」
それは翠嵐の心の底から溢れ出た言葉だった。飛焔は不意打ちを食らったように目をみはる。
「翠嵐様。貴方は本当に…」
その台詞の続きは、力一杯抱きしめられたので、翠嵐には聞こえなかった。