序
狭い洞窟の中で、水の落ちる音が反響する。天上から幾重にも垂れ下がる鍾乳洞が、ぼんやりと青白く浮き上がり、翠嵐の足下を照らし導いた。
あたりには清廉な気が満ちている。吸い込むだけで自分が生まれ変わっていくようだ。
翠嵐は緊張で震える拳を握り、ゆっくりと、でも確実に前へ進んだ。天空を表す浅葱色の襦に、流水のごとく鮮やかな翡翠の裙を合わせ、更には薄藍の羅紗の上着を重ねている。滅多に着ない正装の衣は、この儀式のためだけに、眷属から献上されたもの。
時間の感覚が消えかけた頃、翠嵐は遂に開けた場所へ辿り着いた。荘厳と呼ぶにふさわしく、壁は複雑に紋様が刻み込まれ、中央には見上げるばかりの祭壇が鎮座している。最上段には扉があって、紋様上に神々しい龍神の御姿が舞っていた。
そのつるりとした白亜の石の上で、火影が踊る。原始の荒々しい力が、翠嵐を飲み込むかのようだ。消えることのない永劫の炎がその中央で舌なめずりする。翠嵐は、怖かった。本当はすぐにでも、走って逃げ出してしまいたい。
なにせ、ついに辿り着いてしまったのだ。
翠嵐はどうしようもない後悔と、畏れ多さに立ちすくみにそうになる。けれど、突っ立っていていいわけがなかった。龍神様の御前である。
その場で跪き、教えられた決まり文句を唱えた。
「此のたび一族の末席に加えられることになりました、翠嵐にございます」
頭を垂れたまま、某かのお言葉を待つ。しかし、いくら待っても、何も起こらなかった。
翠嵐は恐る恐る顔をあげる。しんと静まり返った祭壇。何の変化もない。身じろぎしたら砕けてしまいそうなほど固まった空気。それが、意味していることは。
「わたしは、やっぱり…龍じゃないの…?」
ここに辿り着くまでの道すがら、ずっと胸の奥に燻っていた疑念の炎が燃え上がり、微かな希望を焼き尽くした。
喉から熱いかたまりがこみ上げた。翠嵐はそれを抑える術をしらなかった。たちまち堤防は決壊して翠嵐の絶望ごと押し流して行く。こういう時にはたいてい飛焔がやってきてそっと肩を抱いてくれるのに。もちろんその一番の特効薬はここには存在しない。
「おまえを待っていた」
けれど、驚きが翠嵐の涙を引っ込めた。低い声が耳に届いてから一瞬遅れて、翠嵐はそれが男の発した声だと悟る。いるはずのない、祭壇の横の、柱の影から湧き出るように現れた男。すいと面をあげた男の瞳、きらめく漆黒の夜の闇に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
「あなたは……だれ?」
「私は昴流。おまえと契約する者だ」
男は鋭い視線で翠嵐を貫いた。