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我は剣士なり、故に岩を切る 

作者: ベルナルド
掲載日:2026/10/09

 我は剣士である。

 この道三十年にして、山を下りようと思う。


 なぜ山を下りるのか。

 簡単な話だ。一人ぼっちになった。

 

 生まれも育ちも、この山だった。

 小さな山ゆえに、里の者はみな家族のようなものだった。

 しかし、我が留守の間に、みな殺されてしまった。


 復讐をするわけでもなければ、助けを求めるわけでもない。

 我は料理ができぬ。故に山を下りなければ、自分のまずい飯を食い続ける羽目になる。


 しかし、困ったことがある。

 山を下りる道を、大きな岩がふさいでいる。

 雨で山肌が崩れ、転がり落ちてきたらしい。

 我一人でどけるのは不可能だ。


 だが、我には剣があった。


 この国には、今の我にふさわしい言葉がある。


 剣士は一年目に空を切る。

 十年目に人を切る。

 三十年目に岩を切り、五十年目には龍を絶つ。

 そして八十年目には、切った岩で己の墓を建てる。


 我はちょうど三十年目である。

 ならば伝承にならい、岩を切ってみることにしよう。


 いつから剣を握っていたのか。それは曖昧であるため、もしや三十年目ではないかもしれぬ。

 自我が芽生えた時には、すでに我の手に小さな枝があった。


 枝は細く、すぐに折れてしまった。

 しかし、我は一度も忘れたことがない。

 その枝こそが、我の道を示した最初の一本だったことを。


 我に師はない。

 あの枝こそが師であった。


 剣を真っすぐ振るう。

 ただそれだけを三十年。

 されど、これが意外に難しい。


 迷いがある時、剣は曲がる。覚悟がある時、剣は真っすぐ振るわれる。

 自信に酔う時、剣は折れる。泰然たる時、剣は不動となる。

 邪心がある時、剣は荒れる。正義がある時、剣は止まらない。


 剣を振るえば、その日の心持ちが分かる。

 木の実も採れず、獲物も狩れなかった日は、いつも真っすぐに振れない。

 誰かを守らねばならぬ時、剣はどこまでも真っすぐに振れる。

 まるで、果てなく広がる地平線のごとく、刃は進み続ける。


 しかし、岩に剣を振るうとなると話は別だ。

 動く獲物でもなければ、守る相手もいない。

 あるのは岩と我の対話のみ。


「今日は少し、元気がなさそうだな。では、切るぞ」


 晴天の昼下がりに、すがすがしいまでの破裂音が響き渡る。

 山に生きる獣たちはざわめき、どこかへ逃げていった。


「やはり駄目か。そなたは我に似て、頑固よのう」


 一日一度、それ以上は切り合わない。

 女房でもあるまいし、岩と長話など我の性に合わない。

 岩との付き合いとは、そのくらいがちょうどよい。


 獲物を狩り、焦げた肉を食らう。

 実にまずい。


 女房の飯はうまかった。

 我の好みの焼き加減を心得ていたし、細かく砕いた木の実を肉に混ぜていた。

 まねをしてみたところ、硬い木の実と焦げた肉ができた。


 飯を食らえば、あとは寝るだけだ。


「おはよう。今日は雨模様だ。では、さっさと切るぞ」


 黒い雲に眺められながら、岩に向かって剣を振るう。

 互いにかすり傷を負った。


 この剣は、昔に買った安物だ。

 かつては旅の商人も山を訪れたが、今では魔物しか訪れぬ。


 平和な時代は終わり、魔物と戦う時代になった。

 魔王と呼ばれる魔物の主が、人の世を襲っている。

 山の外から聞こえてくる、どこか他人事のような話だった。


 こんなことなら、里の祠にもっと供物を捧げておくべきだった。

 もっとも、その祠は魔物に壊された。

 守られるどころか真っ先に壊されたのだから、大した神ではなかったのだろう。


 雨が降ってきた。

 山の雨は危険だ。すぐに足元をすくわれる。


 あの日も雨だった。

 それも、ひどい大雨だ。


 我は山へ獲物を狩りに出ていた。

 遠くから地鳴りを聞き、すぐに里へ戻ろうとしたが、崩れた斜面を転がり落ちた。

 意識を失い、雨に打たれながら目を閉じた。


 目が覚めた時には、すべてが遅かった。


 最初に匂いを感じた。

 血の匂いだ。


 次に足が見えた。

 女房の足だった。

 

 里には魔物の足跡が残されていた。

 妙なことに、奴らは家々を荒らすより先に祠へ向かったらしい。

 祠は床まで砕かれ、その中央には一本の剣が転がっていた。


 高そうだったので拾った。

 売ればしばらく、まずい肉を食わずに済むと思った。


 その時、割れた床の下から風が吹いた。

 長く息を止めていた何かが、初めて息を吐いたような、生ぬるい風だった。


 だが、里には生きている者がいなかった。

 風のことなど、すぐに忘れた。


 我は剣を振るってきた。

 しかし、大いなる運命には敵わないようだ。

 我は勇者ではない。王でもない。英雄でもないのだから。


 今日もまた眠りにつく。


「昨日はひどい雨だった。なのに、そなたは動かないか。立派な志だ」


 剣を振るう。

 雨に濡れた岩肌を剣が滑り、そのまま地面に当たった。


「すまぬな。地面と切り合ってしまった。明日はきちんと当てる」


 我としたことが、剣を滑らせてしまった。

 以前であれば、三日は寝込むほど落ち込んだだろう。


 これでも、龍を切ったことはなくとも、大きな蛇なら切ったことがある。

 里では山の主と呼ばれていた大蛇だ。

 里一番の娘をさらったため、我は三日三晩切り合い、最後にはその首を切った。


 あれは我の人生における名勝負だった。

 その娘が、のちに我の女房となった。


 剣の道こそ、我の道である。

 故に岩を切り、進む必要がある。


 だから、我は今日も眠る。


「どうだ。そなたも、そろそろ我に切られる覚悟はできたか」


 岩はぴくりとも動かない。

 愛嬌のない岩だ。せめて、言葉の一つや二つは話せぬのか。


「では参るぞ、岩」


 剣を振るう。

 いつも以上に、岩から強い反発を感じた。


 なんじゃ。

 そなたも怒りを知っていたか。


「悪かったな、岩。気を悪くしたなら許せ」


 岩も怒るというのは、新しい発見だ。

 あの怒りようは、息子に似ている。


 我が剣ばかり振るっていると、すぐに怒った。

 やれ、家事をしろ。やれ、金を稼げ。

 口うるさくてかなわない。女房の悪いところが移ってしまった。


 そんな息子も今では、あの岩のように無口だ。

 何も話さず、地面で眠っている。


 そんな地面で、我もまた眠りにつく。



 何日、何十日たったのか、忘れてしまった。


 そんなある日、岩に見慣れぬ傷がついていた。

 小さくだが、確かに存在している。


「なんじゃ。そなた、いつ怪我をしたのだ」


 答えは返らない。

 無口な岩は、いつも我に察してもらうことしかできない。


 昨日はなかった傷が、今はある。

 大きな鉤爪で引っかいたような、三本の傷だった。


 その形には見覚えがあった。

 壊された祠の柱にも、同じ傷が残っていた。


「我以外にも、外へ出ようとした者がいるようだな」


 魔物か、化け物か、それとも幻か。

 どれでもよかった。

 ただ、我より先に岩を壊されるのだけは気に入らない。


 その夜、我は眠ったふりをした。

 太陽が隠れ、光を失った山で、木々に身を隠して岩を眺める。


 岩は朝も昼も夜も変わらず、そこにあり続ける。

 誰とも話さず、誰も殺さず、ただ動かない。


 不動。

 それこそが、こやつには似合う言葉だ。


「やはり、何も来ぬか」


 眠気を感じ、家へ戻ろうとした時だった。


 あの日、里へ迫った脅威をも超える圧。

 強烈な殺気が山を覆った。

 地面が揺れる。しかし、暗闇ゆえによく見えない。


 我は静かに木々の間から身を出した。


 そこにいたのは、巨大な龍だった。


 我は思わず腰を抜かした。


 大蛇とは違う。

 二本の足で大地を踏み、背には巨大な翼を畳んでいる。

 龍の背丈と比べれば、あれほど大きかった岩さえ小さく見えた。


 龍は岩を持ち上げようと、大きな鉤爪をかけた。

 本来ならば、簡単に持ち上がるはずだ。

 しかし、岩は不思議なほど、その場を動こうとしない。


 苛立った龍が、鉤爪を岩の頂上へ振り下ろす。


 なるほど。

 確かに龍の爪ならば、岩にも傷はつく。

 驚くべきは、それでも傷がつくだけということだ。

 岩は割れもせず、動きもしない。


 我が切り合っていた岩は、夜には龍とも切り合っていたらしい。


 なぜか、龍に嫉妬した。

 気味が悪かったので、すぐにその心は捨てた。


 だが、問題は岩ではない。

 あの龍に任せれば、いつかは岩を壊してくれるかもしれぬ。

 しかし、龍が山を下りれば、我が向かおうとしている町は滅ぼされるだろう。


 少し悩んだが、仕方がない。

 我が龍を倒す必要があるようだ。


 我は離れていく龍の跡を追い、住み処を見つけた。

 故に家へ戻り、眠りについた。


「岩よ。そなたは我と違い、浮気性だな。我もそなたのせいで、妙な感情を知ってしまった」


「仕返しとして、今日はそなたから切らない。龍を切ったあとで切ってやろう。そこでいつものように、黙って我の勇姿を見ておくのだな」


 今日はまだ岩を切らない。

 龍を切った勢いで、こやつも切り裂いてやる。


 いつもの剣は安物だ。

 さすがに龍と切り合えば、先に剣が折れるだろう。

 岩の隣にいつもの剣を置いていった。


 そこで、壊れた祠から拾った剣を腰に差した。

 町へ下りた時に売ろうと思っていたが、その前に一度くらい使っても罰は当たるまい。


 鞘には、我の安物とは違う、洒落た文様が刻まれている。

 剣を抜くと、刃にも同じ文様があった。


 どこかで見た気がするが、思い出せない。


「ふむ。綺麗な剣だ。我にぴったりだな」

 

 龍は昨日見つけた住み処で眠っていた。

 大きないびきをかいている。


 生意気な龍め。

 我の剣で目を覚ましてやろう。


「邪悪なる龍よ。我と立ち会ってもらうぞ」


 我の声に、龍は目を開けた。

 我の姿を見るなり鼻を鳴らす。

 まるで嘲笑するように。


「我を鼻で笑うとはな。痛い目を見ても、鼻水を垂らして逃げるなよ」


 鞘から剣を抜いた。


 その瞬間、龍の様子が変わった。


 我ではない。

 我の手にある剣を見て、龍は初めて一歩退いた。


「なんじゃ。そなた、この剣を知っておるのか」


 答えるはずもない。

 岩といい龍といい、この山には無口な者しかおらぬらしい。


 刃は鋭く、我を照らす朝日を反射した。

 きらりと光る刃を、天へ向けて立てる。


 我とて剣士。

 己の限界は理解している。


 我には、龍を切るほどの実力はない。

 里も、女房も、息子も守れなかった。

 その程度の剣士だ。


 されど、我には失うものがない。

 岩を切れず、この山で朽ち果てるはずだった。

 それが何かの縁で、龍と切り合って死ねるのだ。


 悪くない。


 そう思ったはずだった。


 だが、我に迫る龍の爪を見た時、生きたいと思ってしまった。


 生きて、仇を討ちたい。

 魔物を切り、魔王を切り、女房と息子を殺した者を切りたい。


 それが意味のないことだとは分かっている。

 復讐心など、剣を曇らせるだけだとも知っている。


 ただ、思い返せば、我が初めて枝を振るった日もそうだった。

 あの枝は、里に入り込んだ魔物へ向けて振るった。

 幼い我は何もできず、簡単に吹き飛ばされた。

 

 次は負けない。

 そう願って、我はここまで剣を振り続けてきた。


 ならば、我の剣はどこにあるべきか。


 正義など、我には分からぬ。

 今の我にあるのは私怨であり、後悔であり、泥臭い未練だけだ。


 だが、それでよい。


 剣を振るう理由など、岩を切りたいからで十分。

 生きたい理由など、まだ切りたいものがあるからで十分だ。


「龍よ。我は剣士である。故に、そなたを切る」


 振るわれた剣は、どこまでも真っすぐで、馬鹿正直だった。


 その一閃は龍の爪を切り、腕までも切り裂いた。


「GYAAAAAAA!」


 龍は動揺を隠せずにいる。

 我のような小さな生き物に切られたことを理解できぬらしい。

 やがて、その目に怒りが宿った。


「そうか、そうか。龍よ、そなたも怒るのだな。当然か。龍とて生き物、我と同じように怒るものだ」


「さて、龍よ。とことん切り合おうぞ」


 それからのことは、あまり覚えていない。


 ただ、ひたすらに切り合った。


 剣が龍の鱗を切り裂く。龍の尾が我を吹き飛ばす。

 龍の炎が森ごと焼き払おうとする。

 その炎を我は切り裂いた。


 何度も、何度も切り合った。


 朝日は天へ昇り、やがて夕陽へと変わった。

 その夕陽が山の向こうへ沈もうとした時、我の剣が龍の首を切り落とした。


「はあ、はあ……龍よ。我が剣の勝ちだ」


 気を許せば、すぐにでも意識を失うだろう。

 だが、我にはまだ仕事があった。


 今日はまだ、岩を切っていない。

 それでは我が浮気をしたようではないか。


 龍の血を払うと、刃に刻まれた文様が赤く浮かび上がった。

 そこでようやく思い出した。


 崩れた祠の床にも、同じ文様が刻まれていた。


「なるほど。そなたら、知り合いだったか」


 それ以上は分からない。

 考えても仕方がないので、我は岩のもとへ戻った。


 足を地面に引きずり、剣を杖のように突きながら進む。

 岩はいつもと変わらず、そこに佇んでいた。


「なあ、岩よ。伝承になぞらえるつもりが、三十年目で龍を切ることになるとはな。人生、何があるか分からないものだ」


「悪いな。そなたには感謝している。恨みなどない。だが、我の道にある以上、そなたは切らなければならぬ。ここから先へ進めぬからな」


 我は祠の剣を鞘に収めた。

 これは龍と切り合った剣だ。

 岩との勝負に持ち出すものではない。

 岩のそばに立てかけておいた、いつもの安物を手に取る。


「待たせたな。では、いつもの続きをしようではないか」


 大地に足を踏み込む。


 いつもと同じ動作。

 龍を倒したというのに、緊張を隠せない。


 岩を切る。

 龍より簡単なはずだ。


 しかし、岩は龍よりも強大に見えた。


 このまま逃げても、何も問題はない。我を心配する者も、怒る者もいない。

 岩を切らず、迂回してもよい。誰かが助けに来るまで待ってもよい。


 そうやって我は、何度も迷い続けてきた。


「これ以上は、そなたに失礼だな」


 三十年間、剣を振り続けた。

 それがたとえ実らずとも、我はこれからも振り続ける。


「我は剣士なり。故に、岩を切らせてもらう」


 剣を振り下ろした。


 たった一度、剣を振るう。

 それだけで、岩はあっけなく二つに分かれた。


 断面は、驚くほど滑らかだった。


 そして我は、家に帰って眠った。


 当然だ。

 このまま山を下りれば、町に着く頃には深夜になってしまう。


「夢ではなかったか」


 翌朝見ても、岩は綺麗に切れていた。

 我が切ったはずなのに、どこか信じられずにいる。


「切ってしまったことは悪かったな。ただ、そなたは岩だ。半分になっても、さほど問題はないだろう」


 我はその日、山を下りた。

 何十年ぶりになるのかは、忘れた。


 これからどう生きるのか、何も考えていない。

 されど、我には大した問題とも思えない。


 なにせ、我は剣士だ。

 剣と、それを振るう腕があれば、どうにかなる。


 せっかくだ。

 魔王でも切ってみるか。


 そうして世界を救い、最後にはあの岩で墓でも建てれば、なかなか愉快な人生になるだろう。


 このような馬鹿なことを考えていると知れば、息子と女房に怒られそうだ。


 我は一歩、また一歩と、山を下りていった。

 その歩みは、もう二度と止まることはなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

普段書いている長編とは違うものにも挑戦してみようと思い、今回、この短編を書きました。

書き終えてみると、思っていた以上にこの剣士に愛着が湧き、彼のその後も書いてみたいと思うようになりました。

もし好評でしたら、続編を書くかもしれません。

その時は、また読んでいただけるとうれしいです。

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