第9話 宮廷厨房の最後の晩餐
王都は、記憶の中と少しも変わっていなかった。
石畳の大通り、高い尖塔、行き交う馬車の喧騒。店先には色とりどりの果物が並び、焼きたてのパンの匂いが風に乗っている。けれど、以前はこの景色の中に自分の居場所があった。今は——よそ者として帰ってきた。
宮廷の門が近づくにつれて、足取りが重くなる。
「緊張しているか」
ヴェルナーが隣で訊いた。
「……少しだけ」
「嘘をつくな。手が震えている」
見られていた。私は苦笑して、手を握りしめた。
「大丈夫です。厨房に立てば、収まりますから」
「そうか」
ヴェルナーはそれ以上何も言わなかったが、歩く速度をほんの少しだけ緩めてくれた。私の歩幅に合わせるように。長い足で大股に歩くのが普段の彼なのに、今日は私の隣にぴたりと並んでいる。
宮廷に入ると、マティスが出迎えてくれた。行商人の衣装は脱いで、王太子付き侍従の正装に戻っている。背筋が伸びて、辺境で会ったときとは別人のようだった。
「準備は整っています。裁定は明日の正午。大広間で行われます」
「ドルクは?」
「平然としています。まだ自分が追い詰められていることに気づいていない様子です。いつも通り厨房を仕切り、宴席の料理を指示しています」
「セレーナは?」
「……動揺しています。裁定が開かれること自体、予想外だったようです。ここ数日、宮廷内で落ち着かない様子で歩き回っているとの報告があります」
情報を整理しながら、私は宮廷の厨房へ向かった。裁定の準備のために、特別に使用が許可された。
使い慣れた——いや、使い慣れていた場所。十年間立ち続けた竈の前に立つと、足の裏が覚えている感覚が蘇ってきた。石の床の冷たさ、竈から伝わる熱、天井の高さ。すべてが、体に染みついている。
けれど、もう「私の場所」ではない。今の私の場所は、あの辺境の小さな厨房だ。
裁定で作る料理を決めた。辺境の根菜のスープ。素朴で、飾りのない、正直な一皿。
◇
裁定の日。
大広間には、王太子ユーグを筆頭に、重臣たちが居並んでいた。壁際には衛兵が立ち、広間の中央に長卓が据えられている。天井の高窓から降り注ぐ光が、石の床に四角い影を作っていた。
ドルクは余裕の笑みを浮かべている。黒い料理長の服に金のボタン。恰幅の良い体を誇示するように、胸を張って立っていた。隣にはセレーナ。華やかな青いドレスに真珠の首飾り。扇で口元を隠しているが、その指先が小さく震えているのが見えた。
「本日の裁定は、宮廷厨房における食材混入事件の真相究明を目的とする」
ユーグ王太子の声が、広間に響いた。柔和な容貌だが、その目には揺るぎない意志があった。二十二歳とは思えない落ち着きだった。
「被疑者として名前が挙がっているのは、元厨房係フィオ。しかし、新たな証拠により、事件の構造は当初の想定と異なる可能性がある」
ドルクの笑みが、わずかに揺らいだ。太い指が、料理長服の袖を掴んでいる。
「まず、料理による検証を行う。ドルク厨房長とフィオ、双方に同じ食材を用いて料理を作ってもらう」
二つの厨房台が用意されていた。同じ食材、同じ調味料、同じ器具。条件は完全に同一。
私は深呼吸をして、竈の前に立った。
——手が、もう震えていなかった。
ここは私の場所だ。どこの厨房であっても、竈の前に立てば、余計なことは全部消える。残るのは、食材と火と、私の手だけ。
根菜の皮をむく。包丁が滑らかに動く。辺境で刃のこぼれた包丁を使い続けたおかげで、良い刃の切れ味が手に心地良い。
鍋に水を張り、火にかける。根菜を入れ、塩をひとつまみ。ハーブを加え、蓋をする。
一時間後、二つの皿が長卓に並べられた。
私の皿は、辺境の根菜のスープ。透き通った琥珀色で、湯気がまっすぐに立ち上っている。ドルクの皿は、同じ食材で作った濃厚なポタージュ。見た目は華やかだ。
ユーグが指名した宮廷薬師が両方の皿を検分した。銀の匙でスープをすくい、色を確かめ、匂いを嗅ぎ、試薬を一滴垂らす。
「……こちらの皿から、微量の眩暈草の成分が検出されました」
薬師が指したのは——ドルクの皿だった。
広間がざわめいた。重臣たちが顔を見合わせ、衛兵が身構える。
「ば、馬鹿な! 食材は同じはずだ!」
ドルクが叫んだ。額に汗が浮かんでいる。
「食材は同じです」
私は静かに言った。声が広間に響く。
「違うのは、あなたが持ち込んだ調味料です。あなたはいつも、自分専用の調味料入れを使っていますよね。厨房でも、決して他の人に触らせない。その中に、眩暈草の粉末が仕込まれています」
「出鱈目を——」
「検証済みです。辺境の商人ロッタが、あなたの指示であなたの親族の問屋を通じて眩暈草を流通させていた記録があります。ロッタ本人も、辺境伯の取り調べで証言しています」
マティスが書簡の束を差し出した。ドルクの指示書、取引記録、ロッタの供述書。紐で綴じられた分厚い束が、卓の上に音を立てて置かれた。
ドルクの顔から、血の気が引いた。愛想笑いの仮面が剥がれ落ち、目が泳いでいる。
「さらに、私を追放した際の担当表。あの筆跡は、私のものではありません」
私は一枚の紙を掲げた。追放のきっかけとなった、あの偽の担当表。
「筆跡鑑定の結果、あの担当表を書いたのは——セレーナ様です」
セレーナの扇が、床に落ちた。陶器のように白い顔が、さらに青ざめていく。
「な……っ、証拠もないのに——」
「筆跡は嘘をつきません。宮廷の文書管理官による鑑定結果がここにあります。セレーナ様が社交界の招待状に使う筆跡と、あの担当表の筆跡。特徴的な『フ』の跳ね方が一致しています」
広間が静まり返った。セレーナは唇を震わせるだけで、反論の言葉が出てこない。
ユーグが立ち上がった。
「ドルク厨房長。伯爵令嬢セレーナ。両名を、食材混入および讒言による不当追放の件で審問に付す」
ドルクが崩れ落ちた。膝が床に着く鈍い音が響いた。セレーナは青ざめたまま、一言も発することができなかった。衛兵が両脇から近づいていく。
——終わった。
膝の力が抜けそうになったとき、背中に温かい手が触れた。大きな手。掌の硬さに、見覚えがある。
振り返ると、ヴェルナーが立っていた。
「立派だった」
たった一言。けれど、その声は——今まで聞いたどの言葉よりも、深く響いた。
裁定の後、廊下に出ると、ユーグ王太子が私の前に立った。衛兵を下がらせ、二人だけの空間を作って。
「フィオ。宮廷厨房長の座を、お前に任せたい」
——え。
「ドルクの後任だ。宮廷厨房を立て直せる人間は、お前以外にいない」
宮廷厨房長。十年前の私が夢見た、最高の地位。かつて竈の前で、いつかはあの席にと思ったことがある。
けれど。
「殿下。ありがたいお言葉ですが——少し、考えさせてください」
ユーグは微笑んだ。穏やかな、けれど全てを見透かすような微笑み。
「予想していた。お前なら、すぐには頷かないだろうと」
大広間を出ると、夕暮れの廊下にヴェルナーが壁にもたれて待っていた。腕を組んで、天井を見上げている。
「辞退するのか」
「……まだ決めていません」
「嘘をつくな」
二度目のその言葉に、私は思わず笑ってしまった。この人は本当に、私の嘘を見抜く。
「……辺境に、帰りたいです」
「そうか」
ヴェルナーの声は平坦だった。
けれど、壁にもたれた肩が——ほんの少しだけ、弛んだのを、私は見逃さなかった。




