第8話 真実を盛った一皿
ロッタが来る日の準備は、周到に行った。
ブリジットに頼んで、屋敷の見張りを強化してもらう。正面と裏口に兵士を配置し、逃走経路を塞ぐ。
「ブリジットさん、お願いがあります」
「言え」
「ロッタが来たら、厨房の入り口を塞いでほしいんです。合図を出したら」
「合図?」
「鉢を落とす音です」
「もっと分かりやすい合図にしろよ。大声で叫ぶとか」
「叫んだらロッタに逃げられます。自然な事故に見える音がいいんです」
「なるほどな。料理人は頭を使うんだな」
「兵士長だって作戦を立てるでしょう」
「違いない」
ブリジットが歯を見せて笑った。
「任せろ。あの笑顔野郎、逃がさん」
ヴェルナーには書斎で待機してもらい、合図があれば出てきてもらう手筈を整えた。
「合図は、私が厨房の鉢を落とす音。それが聞こえたら来てください」
「……鉢を落とすのか」
「大事な鉢は使いません。欠けたやつです」
ヴェルナーが呆れたような、けれど少しだけ可笑しそうな目をした。この人のこういう表情を見るのは珍しい。
マティスは前日のうちに町を離れ、王都への帰路についた。裁定の準備を進めるためだ。去り際に私の手を両手で握り、「必ず、裁定でお会いしましょう」と言った。
そして私は、いつも通り厨房に立った。
この日のために、特別な準備をしていた。二つの皿。同じ根菜と香草の煮込み。ただし、一方にはロッタの香辛料から眩暈草を抜いたものを使い、もう一方には混入されたままの香辛料を使った。見た目は、ほぼ同じだ。
「やあ、フィオ。今日もいい匂いだね」
ロッタが笑顔で厨房に入ってきた。いつものように、木箱をいくつか抱えている。額の汗を拭いながら、人懐こい笑みを見せる。
「ロッタさん。今日は特別な料理を作ったんです。味見してもらえませんか」
「おっ、嬉しいね。何かな」
私は皿を差し出した。辺境の根菜と香草の煮込み。ロッタが最初に持ち込んだ香辛料の中から、眩暈草を抜いたものだけを使って作った一皿。湯気がまっすぐに立っている。
もうひとつ、別の皿を出した。こちらには、眩暈草が混入された香辛料をそのまま使った料理。見た目はほとんど変わらない。
「二皿あるんですけど、どちらがお好みか教えてもらえますか」
ロッタは何気なく二皿を見比べ、手を伸ばした。
——迷わず、眩暈草入りの皿を避けた。
一瞬のことだった。ほんの指先の動き。普通の人なら気づかないだろう。けれど、私はその手の動きを見逃さなかった。人の食べ方や選び方を観察するのは、料理人の習性だ。
「ロッタさん。なぜ、そちらの皿を選んだんですか」
「え? いやあ、こっちの方が美味しそうだったから」
「見た目はほとんど同じです。匂いも、この距離では区別がつかないはず。でも、あなたは手を伸ばす前に、こちらの皿をわずかに避けた。中身が何か、知っているからでしょう」
ロッタの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「まあ、勘だよ。商人の勘ってやつ」
「では、もうひとつ質問です」
私は厨房の棚から、あの宮廷の紋章入りの木箱を取り出した。蓋を開けて、中の包装紙を広げる。
「この箱の包装紙は、宮廷厨房の内部でしか使われないものです。油紙を二重に巻いて、麻紐で三つ結び。これは宮廷厨房の規則で定められた方法で、外部の問屋は使いません。問屋を経由していたら、この包装にはなりません」
ロッタの目が泳いだ。笑みを保とうとしているが、口角が引きつっている。
「そ、それは——」
「ロッタさん。あなたはドルク厨房長から直接、食材を受け取っていますよね」
「何を言って——」
「そしてこの香辛料には、眩暈草が混入されていました。水溶試験、加熱試験、酸反応——七通りの方法で確認済みです。宮廷で体調不良が相次いでいるのと、同じ手口です」
ロッタの顔から、笑顔が消えた。人懐こさの仮面が剥がれ落ちるように。
「……証拠はあるのか」
声のトーンが変わっていた。冷たい目がこちらを見ている。この一ヶ月、笑顔の裏に隠していた本当の顔がそこにあった。
「あります。混入の検証記録、あなたの取引記録、ドルクの親族問屋との繋がり。あなたが辺境で商売を始めたのは、私が追放された翌週。すべて揃えました」
私は棚の奥から書類の束を取り出した。丹念にまとめた調査記録。日付、品目、反応結果。すべてが線で繋がっている。
ロッタが一歩後退った。背後を確認するように振り返る。
そのとき、私は棚から欠けた鉢を取り、床に落とした。
乾いた音が厨房に響く。
扉が開いた。
「——逃がさんぞ」
ブリジットが入り口を塞いでいた。その後ろに、武装した兵士が三人。出口は完全に封じられている。
「ロッタ。辺境伯として命じる。持ち込んだ全ての食材を押収する。お前は取り調べを受けてもらう」
ヴェルナーが書斎から降りてきて、静かに宣告した。声は平坦だが、有無を言わせない重さがあった。
ロッタは観念したように、両手を上げた。肩から力が抜けて、一回り小さく見えた。
「……やられたよ。まさか、あんたがここまで調べてるとは思わなかった。王都の連中は、辺境の料理人なんか何もできないと笑ってたのに」
「ひとつだけ聞かせてください。なぜ、引き受けたんですか。ドルクの依頼を」
「金だよ。辺境じゃ商売にならないんだ。冬は道が閉ざされて物流が止まる。夏は魔獣が出て危険で、まともな取引先もない。宮廷の後ろ盾があれば、この一帯の取引を独占できると言われた。あんたを監視して、評判を落とすだけの簡単な仕事だと」
「……そうですか」
怒りよりも、悲しみが先に来た。
贈り物で距離を縮め、笑顔で信頼を得ようとしていた人。最初に「挨拶だ」と食材をくれた日のことを、私はまだ覚えている。あのとき、彼の笑顔は本当に温かく見えた。
(信じたかった。あの笑顔を)
けれど、食材は嘘をつかない。
ロッタが兵士に連行された後、厨房に静けさが戻った。鍋の中のスープが、静かに煮えている。
私はヴェルナーの書斎に呼ばれた。
「よくやった。これで辺境側の証拠は揃った」
「はい。あとは宮廷での裁定です」
「……王都に行くのか」
「行かなければなりません。ドルクとセレーナを、正面から」
ヴェルナーが窓辺に立ち、外を見た。背中が、いつもより強張っているように見えた。外套の下で、肩の筋肉が硬くなっている。
「俺も行く」
「え?」
「辺境伯として、この件の当事者だ。領地に持ち込まれた問題食材の件で、宮廷に直接物申す必要がある。同行する理由は十分にある」
——本当に、理由はそれだけですか。
聞けなかった。聞く代わりに、小さく頷いた。
「心強いです」
ヴェルナーは振り返らなかった。けれど、その耳の先が赤くなっているのを、私は窓硝子の反射で見てしまった。
三日後、私たちは王都へ向かう馬車に乗った。
トビアスが泣きそうな顔で見送ってくれた。そばかすだらけの頬を涙が伝いそうになっている。
「フィオさん、絶対帰ってきてくださいね!」
「すぐ戻るから。厨房、任せたよ」
「はいっ! パン焦がしません!」
「……焦がしそうな顔してるけど」
「焦がしませんってば!」
荷台には、裁定の場で作る料理の食材を積んでいた。
辺境の根菜、香草、岩塩。華やかさはないけれど、嘘のない食材たち。
隣に座るヴェルナーが、黙って外を見ている。
私も黙って、反対側の景色を見た。
言葉はなくても、隣にいるだけで心強い。
それは——きっと、信頼と呼んでいいものだと思った。
王都の塔が、遠くに見え始めていた。




