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賄い飯の魔女と呼ばれた私が、飯テロで王国をひっくり返す  作者: 渚月(なづき)


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第7話 王太子の秘密の来訪

ロッタが来る日を、私は静かに待った。


 その間にも、厨房の仕事は休まない。兵士たちの食事を作り、トビアスに料理を教え、菜園の手入れをする。日常の中に、緊張が細い糸のように張り詰めている。


 トビアスの腕前は着実に上がっていた。スープの味見を任せられるようになり、パンの焼き加減も安定してきた。


「フィオさん、今日のスープ、塩が足りない気がします」


「正解。よく分かったね」


「毎日味見してたら、分かるようになってきました」


 舌が育っている。料理人にとって、それは何よりも大事なことだ。


 ロッタを待つ間に、もうひとつ予期しない出来事があった。


 辺境領に、旅の商人を装った一人の男がやってきたのだ。


 眼鏡をかけた痩身の男。神経質そうな物腰だが、手先が器用で、荷解きの仕草に品がある。荷を扱う指の動きが、商人にしては繊細すぎた。革紐の結び方にも、どこか几帳面さがある。


「——マティスと申します。王都からの行商で、食器や調理器具を扱っております」


 名乗った瞬間、私の心臓が大きく鳴った。


 マティス。王太子付き侍従。あの追放の日、執務室の隅に立って——何も言わなかった男。


 彼も私に気づいていた。一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされた。その仕草は、あの日と同じだった。けれど、今日の彼の目には、あの日にはなかった決意のようなものが見えた。


 私は何食わぬ顔で、調理器具を見せてもらった。


「良い品ですね。包丁の刃がこぼれていて困っていたんです」


「お役に立てれば幸いです」


 彼が広げた包丁は確かに上物だった。刃の研ぎ方が均一で、柄の握り心地も良い。本当に調理器具の行商だと言われれば信じてしまいそうだが、宮廷の侍従がこんな辺境まで行商に来るはずがない。


 周囲に人がいなくなった隙に、マティスが小声で言った。


「……フィオ殿。お話ししたいことがあります」


「ここでは無理です。今夜、厨房裏の菜園に来てください。日が落ちてから」



 月明かりの菜園で、マティスは自分の素性を隠さなかった。


 石垣に背を預け、眼鏡を外してレンズを拭きながら話し始めた。


「王太子ユーグ殿下の命で参りました」


「殿下が?」


「宮廷での体調不良事件を調査するにあたり、殿下はドルク厨房長への疑念を持っておられます。食材の仕入れルートに不審な点があり、殿下の密命で内偵を進めていました。そして——あなたが濡れ衣を着せられたことも、承知しています」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


「……殿下は、私のことを覚えていたんですか」


「殿下は身分を隠して厨房を訪れ、賄い飯を召し上がっていたことがあります。厨房の片隅で、一人で食べておられた」


「……知りませんでした」


「殿下はこう仰っていました。『あの粥を食べたとき、初めて宮廷の中に温かい場所があると思った』と」


「そんな……」


「あの味を作る人間が毒を盛るはずがないと、殿下は断言されました」


 涙が滲みそうになって、必死に堪えた。唇を噛んで、夜風に顔を向ける。


 知らなかった。王太子が私の賄い飯を食べていたなんて。献立表に載ることもない、ただの粥を。


「マティスさん。追放の日、あなたはあの部屋にいましたね」


 マティスの表情が曇った。眼鏡をかけ直す手が、わずかに震えていた。


「……はい。何も言えなかった。庇えば自分も切られて、殿下の内偵が途切れていた」


「それは分かります」


「それでも——言い訳にならないと分かっています。あなたが門を出ていくのを、窓から見ていました。何も持たず、振り返りもせずに」


「……見ていたんですか」


「ええ。あのとき自分が何もしなかったことを、一日も忘れたことはありません」


「言い訳かどうかは、これからの行動で決まります」


 私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 マティスは深く頭を下げた。背中が小さく見えた。


「殿下からの伝言があります。『証拠が揃い次第、宮廷で裁定を開く。その席に、お前の料理を出してほしい』と」


「……料理を?」


「裁定の場で、ドルクが供してきた料理と、あなたの料理を並べる。同じ食材を使い、同じ条件で。そうすれば、誰の料理に問題があるか、一目瞭然になると」


 なるほど。王太子は賢い。ただ罪を暴くのではなく、料理という形で真実を見せようとしている。言葉は嘘をつけるが、料理は——湯気と同じで、嘘をつけない。


「分かりました。でも、そのためにはドルクの仕入れルートと、眩暈草の混入経路を証明しなければなりません」


「その件で、こちらにも情報があります」


 マティスが懐から一通の書簡を取り出した。封は開かれており、中の紙は丁寧に折り畳まれていた。


「ドルクが親族の問屋を通じて、辺境の商人——ロッタに指示を出している書簡の写しです。内容は、あなたの評判を落とすための工作と、辺境領への問題食材の流通。ロッタがあなたに近づいたのは、偶然ではありません」


 手が震えた。紙を持つ指先に、力が入る。証拠だ。これが、決定的な証拠になる。


「この原本は」


「殿下が保管しています。ただし、裁定の場まで表に出せません。先に動けば、ドルクに隠滅の時間を与えることになる」


「分かります。では——」


 私は息を整えた。夜風が菜園のハーブを揺らし、清涼な香りが漂ってきた。


「まず、ロッタの件を片付けます。彼がドルクの手先だという証拠を、こちら側でも押さえます。辺境での物的証拠と、宮廷の書簡。両方揃えば、逃げ道はなくなる。その上で、裁定に臨みます」


 マティスが頷いた。


「フィオ殿。もうひとつ。伯爵令嬢セレーナも、この件に関与しています。彼女はドルクと手を組み、あなたの追放を後押しした。偽の担当表の筆跡は、おそらく彼女のものです。動機は——」


「王太子殿下に私の料理が評価されたことへの嫉妬、でしょう」


「……ご存じでしたか」


「あの日の彼女の目を見れば、分かります。蔑みや怒りではなく、嫉妬の色でした。自分より格下の人間が、自分の欲しいものを手にしている。そういう目」


 宮廷の暗部が、少しずつ輪郭を現してきた。


 ドルク、セレーナ、ロッタ。三人は線で繋がっている。ドルクが利権を守り、セレーナが嫉妬を晴らし、ロッタが金を得る。それぞれの欲望が、私という一人の料理人を排除するために合流した。


 そして、王太子ユーグとマティスが、その線を断ち切ろうとしている。


「マティスさん。敵だと思っていました」


「当然です。何もしなかった人間を信じろとは言えません」


「でも、今ここにいる。それだけで十分です」


 マティスの目が、一瞬だけ潤んだ。眼鏡の奥で、月明かりが揺れた。


 菜園を後にするとき、屋敷の窓から明かりが見えた。


 ヴェルナーの書斎だ。まだ起きている。こちらを見ているような気がしたが、暗くて確認できない。


 報告しなければ。すべてを——。


 私は足早に屋敷に戻った。


 書斎の扉を叩くと、すぐに「入れ」と声がした。


「ヴェルナー様。重要な報告があります」


「……座れ」


 菜園でのマティスとの会話を、すべて伝えた。王太子の内偵のこと。ドルクの書簡のこと。裁定の計画のこと。


 ヴェルナーは黙って聞いていた。話が終わると、しばらく沈黙が続いた。


「マティスという男は、信用できるのか」


「殿下の密命で動いている以上、嘘をつく理由がありません。それに——あの人の目は本物でした」


「お前がそう言うなら、信じよう」


「ありがとうございます」


「礼は要らない。お前の判断を信じると言っただけだ」


 不器用な信頼の言葉。この人はいつもそうだ。


 ロッタが次に来るのは、三日後。


 その日が、決着の始まりになる。


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