第10話 賄い飯が繋いだ未来
王都を発つ前夜、宮廷の厨房で最後の賄い飯を作った。
夜番の衛兵たちのために。十年前と同じ、根菜のポタージュ。蕪と人参をじっくり煮込んで、塩とハーブだけで味を整える。
竈の前に立つと、体が勝手に動く。この場所の温度も、火の癖も、全部覚えている。壁の煤のつき方、風の通り道、鍋の置き場所。十年分の記憶が手足に染みついている。
けれど、この竈はもう私のものではない。次にここに立つのは、別の誰かだ。
鍋の蓋を開けると、湯気がまっすぐに立ち上った。
——ちゃんと手をかけた湯気。最後の一杯も、嘘のない味に仕上がった。
「フィオさん」
背後にマティスが立っていた。侍従の正装のまま、少し疲れた顔をしている。裁定の後処理で忙しかったのだろう。
「王太子殿下からです」
差し出されたのは、一通の書簡。上質な羊皮紙に、王太子の私印が押されている。
中身は、宮廷と辺境領の間に新たな食材流通路を開く許可状だった。辺境の良質な食材を宮廷に届け、宮廷の技術を辺境に伝える。その橋渡し役として、私の名前が記されていた。
「……殿下は、私が辺境に戻ることを見越していたんですね」
「殿下はこう仰っていました」
マティスが少し照れたように、言葉を選びながら続けた。
「『あの者の料理は、どこで作っても人の心を動かす。ならば、居たい場所で作らせるのが最善だ。宮廷に縛りつけるのは、料理人に対する冒涜だ』と」
涙が滲みそうになって、鍋をかき混ぜることで誤魔化した。木のへらを握る手に、少しだけ力がこもる。
「マティスさん」
「はい」
「ありがとう。あの日、黙っていたことを——もう恨んでいません」
「フィオ殿……」
「あなたがいなければ裁定の証拠は揃わなかった。殿下の内偵を守るためにあの場で声を上げなかったこと、今なら分かります」
「……あのとき窓から見ていた背中を、ずっと覚えていました」
「今はもう一人じゃないですから。大丈夫」
マティスは眼鏡の奥の目を細め、深く頭を下げた。
夜番の衛兵が控え室に来て、ポタージュを見つけたとき、小さな歓声が上がったのが聞こえた。
(……やっぱり、これが私の料理だ)
◇
辺境への帰路。馬車の中は、行きと同じように静かだった。
けれど、空気は全然違っていた。行きは緊張と不安が詰まっていた。帰りには——穏やかな安堵と、名前のつけにくい温かさが漂っている。
窓の外を、麦畑が流れていく。収穫前の穂が風に揺れて、金色の波を作っている。
「ヴェルナー様」
「何だ」
「宮廷厨房長の話、断ってよかったですか」
「俺に聞くな。お前の人生だ」
「……でも、辺境に戻るということは、あの厨房に戻るということで」
「それの何が問題だ」
「問題はないんですけど——」
言葉に詰まった。本当は聞きたいことは別にある。でも、うまく言葉にできない。
——あなたは、私が戻ることを、嬉しいと思ってくれますか。
そんなこと、聞けるはずがない。
「フィオ」
「はい」
「俺は料理ができない」
「……知ってます。ハーブ茶、苦かったですし」
「次は三分の一にする」
「……覚えてたんですね」
「当然だ。言われたことは覚えている」
「だから——お前がいないと、困る」
馬車の中が、一瞬だけ静まった。馬の蹄の音と、車輪が石を踏む音だけが聞こえる。
ヴェルナーは窓の外を見ている。耳の先が赤い。いつもの、正直な耳。
「困る」。この人の精一杯の言葉だと、分かってしまった。
合理的な理由を並べて、感情を隠す人。でも、隠しきれないものが耳の先に出てしまう人。
「……私も、困ります」
「何がだ」
「あの厨房で誰かが勝手に竈を焦がしたりしたら、困ります。だから、帰らないと」
ヴェルナーが振り向いた。
目が合った。
銀灰色の瞳。表情のない顔。けれど、その目元だけが——あの最初の日と同じように、穏やかだった。
ほんの数秒。けれど、その数秒で——多くのことが、言葉なしに伝わった気がした。
ヴェルナーが、手を伸ばした。私の手に、そっと重ねるように。
温かかった。薪を運んでいた手。不器用に茶を淹れてくれた手。「何もさせない」と約束してくれた手。
私はその手を、握り返した。
何も言わなかった。言わなくても、伝わっていると思った。
辺境の町に着いたとき、門の前にトビアスが走ってきた。走りながら何か叫んでいるが、声が裏返って聞き取れない。
「フィオさんっ! おかえりなさい! 留守の間、ちゃんとやりましたよ! パン焦がしたのは一回だけです!」
「一回焦がしたの?」
「あっ……」
「二回だ」
ブリジットが後ろから訂正した。
「ブリジットさん! なんで言うんですか!」
「事実だからだ」
「うう……でも三日目からは一回も焦がしてません!」
「成長したじゃない」
「えへへ……フィオさんが教えてくれた通り、生地を倍の時間寝かせたらうまくいきました」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「はい! 焦らないのも技術って言われたので!」
ブリジットが腕を組んで笑っていた。日焼けした顔に笑い皺が寄って、変わらない豪快な笑顔。
「おかえり。飯、頼むぞ」
「ただいま」
その言葉が、自然に出た。
ここが、私の場所だ。
厨房に入ると、竈はきれいに掃除されていた。鍋も磨かれている。棚の調味料は整頓され、床も掃き清められていた。トビアスが一生懸命やってくれたのだろう。棚には、新しい仕入れ先から届いた食材が並んでいた。ロッタの代わりに、ヴェルナーが手配した正規の取引先から届いたものだ。
エプロンを結んで、手を洗う。
竈に火を入れる。
湯気が立ち上る。まっすぐに、正直に。
これから先も、きっと問題は起きるだろう。宮廷との橋渡しという新しい役目は、簡単ではないはずだ。辺境と王都の距離は遠く、利害は複雑に絡み合っている。
でも——。
隣にはヴェルナーがいる。厨房にはトビアスがいる。食堂にはブリジットがいる。遠くの宮廷には、ユーグとマティスがいる。
一人ではない。
鍋から良い匂いが漂い始めた。根菜とハーブの、あの馴染みの香り。
「フィオさん! 何作ってるんですか!」
「賄い飯。腹、空いてるでしょう」
「めちゃくちゃ空いてます!」
「じゃあ手伝って。蕪の皮むき」
「はいっ!」
「……包丁、引くんだよ」
「分かってます! もう大丈夫です!」
「本当に? 前は力入れすぎて飛ばしてたけど」
「あれは一ヶ月前の俺です! 今は違います!」
包丁を握るトビアスの手つきを見た。確かに、安定している。皮の厚みも均一だ。
「……上手になったね」
「えへへ」
トビアスの声に、兵士たちが食堂に集まってくる気配がする。足音が一つ、二つ、三つと増えていく。
私は鍋の蓋を開けて、味を見た。
——うん。悪くない。
窓の外で、ヴェルナーが菜園の様子を見ている。私が植えた種が育って、小さな葉を広げていた。彼がしゃがんで芽に触れ、立ち上がったとき——その横顔が、ほんの少しだけ笑っていた。
ほんの少しだけ。でも確かに。
いつか、あの人にも私の料理で、心の底から笑ってほしい。
それは料理人としての望みなのか、それとも別の感情なのか——今はまだ、名前をつけなくていい。
湯気はまっすぐに立ち上っている。
だから、大丈夫。この一皿に、嘘はない。
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