第1話 空腹の追放者と最後の一皿
湯気は嘘をつかない。
どんなに着飾った言葉よりも、どんなに美しい笑顔よりも、皿の上の湯気だけは正直だ。ちゃんと手をかけた料理からは、まっすぐに立ち上る。手を抜いた料理は、すぐに消える。
それが、私——フィオが二十三年間で学んだ、たったひとつの真理だった。
宮廷厨房の片隅で、私は今日も賄い飯を作っている。兵士や侍女たちが食べる、献立表に載らない料理。華やかな宴席の裏で、名前のない皿を何百と並べてきた。
宮廷厨房は広い。石造りの竈が八つ並び、天井は煤で黒ずんでいる。宴席用の厨房は奥の大部屋で、そちらには銅の鍋や銀の器が所狭しと並んでいた。
私の持ち場は手前の小さな竈だけ。壁際の棚に調味料が並び、足元には根菜の入った木箱がいくつか転がっている。
「フィオ、まだ残ってたのか」
隣の竈を使っていた同僚が、外套を羽織りながら声をかけてくる。彼女は宴席用の前菜を担当していて、私とは持ち場が違う。
「あと少しだけ。夜番の分を仕込んでおきたくて」
「真面目だな。どうせ誰も気づかないのに」
同僚は肩をすくめて出ていった。足音が遠ざかり、厨房に静けさが戻る。
気づかなくていい。食べた人の顔色が良くなれば、それで十分だ。
私は鍋の蓋を開けて、味を確かめる。根菜をじっくり煮込んだポタージュ。安い食材でも、火加減と塩加減を間違えなければ、体の芯まで温まる一杯になる。
蕪の甘みが溶け出して、とろりとした舌触り。仕上げに落とした一滴のハーブ油が、ふわりと鼻に抜ける。
……悪くない。
そう思った瞬間だった。
厨房の扉が、乱暴に開かれた。
「フィオ。厨房長がお呼びだ。今すぐ来い」
衛兵が二人、入り口に立っていた。鎧の肩当てが廊下の灯りを反射して、厨房の薄暗がりに冷たく光る。
呼び出しは珍しくない。食材の発注ミスや、宴席の急な変更。そういう用件だろうと思って、エプロンで手を拭きながら歩き出す。
ただ、衛兵が二人というのは——少しだけ、妙だった。
普段の呼び出しなら、使い走りの小間使いが来るだけだ。衛兵が二人揃って厨房まで来るのは、私の十年の経験で一度もなかった。
廊下を歩きながら、嫌な予感が胸の底に沈んでいく。
◇
厨房長の執務室に入ると、空気が違った。
恰幅の良い男——ドルク厨房長は、いつもの愛想笑いを浮かべている。けれど、その目が笑っていないことを、私は知っている。十年も同じ厨房にいれば、人の表情の裏くらい読める。
彼の隣には、見覚えのある金髪の女性。宮廷の社交界でよく見かける伯爵令嬢だった。名前は思い出せないが、いつも華やかな集まりの中心にいる人だ。宝石をちりばめた扇子を指先で弄んでいる。
なぜ、この人がここにいるのだろう。厨房長の執務室に、貴族が顔を出すことなど滅多にない。
「フィオ。単刀直入に言う」
ドルクが卓上の書類を指で叩いた。
「昨夜の宴席で出された料理に、禁止されている魔獣の素材が混入していた。調査の結果、お前が担当した下ごしらえの工程で混入した可能性が最も高い」
息が、一瞬止まった。
魔獣の素材。宮廷厨房では、許可なく使用すれば即座に処罰される禁忌だ。過去にそれで追放された料理人を、私は二人知っている。
「……待ってください。私は昨夜、宴席の料理には関わっていません。賄い飯の仕込みだけです」
「担当表にはお前の名前がある」
ドルクが差し出した紙には、確かに私の名前が記されていた。けれど、その筆跡は私のものではない。私の字はもっと角張っている。この流れるような筆致は、別人のものだ。
「これは——」
「言い訳は不要だ」
金髪の令嬢が、扇で口元を隠しながら言った。
「宮廷の安全に関わる問題ですもの。厳正に対処していただかないと」
彼女の声は穏やかだったが、その瞳の奥に浮かぶ光を、私は見逃さなかった。蔑みでも怒りでもない。もっと冷たい何か。計算された満足の色だった。
……これは、仕組まれている。
反論しようと口を開いた瞬間、ドルクが被せるように宣告した。
「本日付で、宮廷厨房から除籍とする。荷物をまとめて、日が暮れるまでに宮廷を出ろ」
頭の中が白くなる。
十年。十年間、この厨房で働いてきた。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。夜番の衛兵が冬を越せるように温かい汁物を仕込み、体調を崩した侍女には消化の良い粥を届けた。
それが、たった一枚の偽の書類で終わる。
執務室の隅に、もう一人——眼鏡をかけた痩身の男が立っていることに気づいた。神経質そうな顔立ち。視線が一瞬だけ私と交わり、すぐに逸らされた。
(この人も、知っている。これが不当だと)
けれど、彼は何も言わなかった。
握りしめた手が震える。爪が掌に食い込むのが分かる。けれど、私は叫ばなかった。叫んでも、この部屋の空気は変わらないと分かっていたから。
「……荷物は、すぐにまとめます」
それだけ言って、私は踵を返した。
背中に、令嬢の小さな笑い声が刺さった。低く、甘く、残酷な響き。
厨房に戻ると、鍋がまだ温かかった。夜番の分のポタージュ。蕪の甘い匂いが、静かな厨房に漂っている。もう、これを届ける必要はない。
でも——。
私は迷った末に、鍋の中身を小さな容器に分けて、夜番の控え室の前に置いた。
(最後くらい、ちゃんと届けたい)
誰にも言い訳はしない。ただ、空腹の人がいるなら、温かいものを届ける。それが、私が十年間やってきたことだ。
宮廷の門を出るとき、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、足が動かなくなる。
懐にあるのは、わずかな路銀と、使い込んだ木のへらだけ。刃のこぼれた包丁は置いてきた。あれは宮廷の備品だから。木のへらだけは——最初にこの厨房に立ったとき、自分で削って作ったものだから、持ち出しても許されると思った。
行く当てはなかった。ただ、王都にいれば追手がかかるかもしれない。だから、とにかく遠くへ。
辺境行きの荷馬車が一台、街道に停まっていた。御者に頼み込んで、荷台の隅に座らせてもらう。対価として、路銀の半分を差し出した。
馬車が揺れ始めて、ようやく実感が追いついてきた。
——私は、追放されたのだ。
空を見上げると、星がやけに近かった。宮廷の高い壁の中からでは、いつも一部しか見えなかった空が、ここではどこまでも広がっている。
風が冷たい。外套を持ってくる余裕もなかった。体を丸めて、木のへらを握りしめる。
このまま辺境まで行って、それからどうする。
分からない。何も分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
私の手は、まだ料理を作れる。
誰かの空腹を満たせる限り、私はどこでだって生きていける——そう思わなければ、この荷台から転がり落ちてしまいそうだった。
三日後、荷馬車は辺境の小さな町に着いた。
降り立った私の前に広がっていたのは、荒れた街並みと、疲れ切った人々の顔。通りには活気がなく、店の半分は板が打ち付けられて閉まっていた。犬が一匹、痩せた体で道端を横切っていく。
そして——。
「おい。そこの女。この町で何をするつもりだ」
低く、感情の読めない声が降ってきた。
見上げると、銀灰色の髪の長身の男が立っていた。黒い外套の下に革鎧を着て、腰には剣を佩いている。表情はほとんどなく、けれど目元だけが、不思議と穏やかだった。
「……料理を、作れます」
私が絞り出したその一言に、男はしばらく黙っていた。風が吹いて、銀灰色の前髪が揺れる。
「——来い。厨房が空いている」
のちに知ることになる。この男が辺境伯ヴェルナーであり、この出会いが、私の人生を根こそぎ変えることになるのだと。
けれど、この瞬間の私には、そんなことは分からない。
分かっていたのは、ただひとつ。
この町の人たちは——ひどく、腹を空かせているということだけだった。




