第7話 踏み込んだ言葉
口の中に、わずかな甘さが残っている。
さっきまで確かに、あの場は切り離されていた。
音も、気配も、全部。
けれど今は、何もなかったみたいに戻っている。
(……何なんだろう、あれ)
考えかけて、やめる。
今は、それよりも。
「らっしゃいませー!」
店員の声が響く。
カウンター席に並んで座る。
賑わう店内。
食器の音と、人の話し声。
さっきまでの夜とは、まるで別の世界だった。
「どう? 食べたいの決まった?」
メニューを開きながら、沙与が尋ねる。
「えっと……これにします」
「お、ハンバーグか。じゃあ私はこれかな。すみませーん」
注文を終える。
わずかな沈黙。
グラスの水が、静かに揺れている。
その揺れを見ながら、瑛梨は口を開いた。
「……さっきの運転」
「ん?」
顔を上げると、沙与と目が合う。
「すごかったです。速いのに、怖くなかったです」
「そう? ならよかった」
軽い返答。
けれど、否定はしない。
「免許取る時、先輩達にしごかれたから。耳だけに頼るなって」
「耳……?」
「音で詰まる場所とか、抜けるタイミングとか。でもそれだけだと荒いでしょ。だから感覚も使う」
当たり前みたいに言う。
(それが出来るのがすごいんだけど……)
料理が運ばれてくる。
湯気と、香り。
サバ味噌とハンバーグ。
「「いただきます」」
瑛梨は一瞬だけ箸を見て、それから迷いなく手に取った。
丁寧に切り分ける。
一口。
「美味しい……!」
その表情に、少しだけ空気が和らぐ。
(ちゃんとやってきた人なんだ)
沙与は味噌を崩しながら、口を開いた。
「……さっきの」
一拍。
「視えてたよね」
箸が止まる。
わずかに。
けれど、確実に。
(分かってた)
動きも。
タイミングも。
でも――
「……はい」
視線を落としたまま、答える。
「でも、撃てなかったです」
言葉は、思っていたよりもすんなり出た。
「あの距離も、タイミングも……分かってたのに」
「体が、動かなかったです」
少しだけ、声が揺れる。
「……怖かった」
沈黙が落ちる。
食器の触れる音だけが、静かに響いた。
「そっか」
沙与の短い返答。
責めるでもなく。
評価するでもなく。
ただ、受け止めるように。
瑛梨は少しだけ息を吐いた。
それでも。
胸の奥の重さは消えない。
「……でも」
気づけば、言葉が続いていた。
顔を上げる。
「毘乃木さんは……撃てるじゃないですか」
ほんの一瞬。
箸が止まる。
それだけ。
すぐに動き出す。
「仕事だからね」
短い言葉。
それ以上はない。
(……踏み込んだ)
一歩、踏み込みすぎた気がした。
店内のざわめきが、少し遠くなる。
「食べよ。冷めるよ」
いつもの声。
「……はい」
それ以上、聞けなかった。
箸を動かす。
味は分かる。
でも、どこか遠い。
ふと、横を見る。
変わらない横顔。
表情も、声も、仕草も。
何ひとつ変わっていない。
(……本当に?)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
その時。
「……そういえば」
沙与が、ぽつりと言った。
「さっきの、切れる前に戻れてよかったね」
一拍。
「……え?」
「外でやると面倒だからさ」
軽い調子。
それだけ。
それ以上は説明しない。
(……切れる)
さっきの感覚。
音が消えて。
気配が消えて。
そして、戻った。
(時間制限……?)
分からない。
でも。
確かに、そういう“仕組み”がある。
「……はい」
小さく答える。
この仕事は。
思っていたよりも。
分からないことが多い。
箸を動かす。
店内の音が、やけに現実的に聞こえる。
けれど、その奥に。
さっきの静けさが、まだ残っている気がした。




