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EP 1

ゴミ捨て場の獣医師と、灰色の卵

 冷たい風が、ブリーディング・ステーション特有の獣臭さと、鉄錆のような血の匂いを運んできた。

 レオンはその風を肺いっぱいに吸い込み、すぐに後悔した。鼻腔の奥で、数日前に解体された病気のワイバーンの臭気が蘇るからだ。

 彼はそっと、自身の茶色い犬耳の先端を指で押さえた。

 獣人族の中でも、犬耳族の嗅覚は鋭敏だ。だが、汚物と死臭が充満するこの職場においては、その鋭さは呪いでしかなかった。

 ガルーダ獣人国、王立飛竜騎士団・第三育成所。

 空の覇者たるワイバーンが産まれる神聖な揺籠ゆりかごであり、同時に――選別に漏れた敗北者たちが消えていく墓場でもある。

「おい、駄犬ポチ。何を手止めてやがる」

 背後から飛んできた嘲笑交じりの罵声に、レオンは反射的に身を縮めた。

 振り返ると、そこに立っていたのはヒョウ耳族の男、グレン。

 この育成所を管理する「ブリーダー」であり、下位種族を見下す典型的な上位獣人だ。

「申し訳ありません、グレン様。風向きが変わったもので」

「チッ。嗅覚だけは一丁前だな。ほら、仕事だ」

 グレンが革のブーツで蹴り出したのは、泥にまみれた木箱だった。

 中には、大人の頭ほどもある灰色の卵が三個、転がっている。

 だが、その表面は石のように冷たく、生命の脈動パルスは微塵も感じられない。

「……孵化予定日まで、まだ二週間あります」

「だからどうした? こいつを見ろ」

 突きつけられたのは、魔力測定器が弾き出した羊皮紙のデータだ。

 そこには乱暴な赤字で『魔力活性:E(計測不能)』と書き殴られている。

「魔力反応なし。成長停止。完全な『死に卵』だ。こんなゴミを温めておくほど、俺たちの予算は潤沢じゃねえんだよ。騎士団長の視察が来る前に、裏の谷へ捨ててこい」

「ですが、この殻の色はまだ……」

「口答えすんじゃねえ! これだから闘気オーラも練れねえ犬っころは困るんだ。さっさと行け!」

 ドガッ、と再び木箱が蹴られる。

 中の卵がカチリと音を立てた。

 レオンは唇を噛み締め、無言で木箱を抱え上げた。

 この国では「強さ」が全てだ。闘気を持たず、魔法も使えない、ただ器用なだけの人間ヒューマンに近い犬耳族のレオンは、社会の最底辺に位置する。

 反論すれば、職を失うだけでは済まない。

(……分かっていますよ。俺はただの、ゴミ処理係だ)

 レオンは育成所の裏手へと歩き出した。

 足元の土は硬く、草木は一本も生えていない。通称「廃棄谷」。

 選別に漏れた卵や、訓練で再起不能になった幼体が捨てられる場所だ。谷底からは、無数の骨が発する死の気配が立ち昇ってくる。

 谷のふちに箱を降ろし、レオンは荒い息を吐いた。

 前世の記憶が疼く。

 かつて「地球」という世界で、獣医師として動物たちの命と向き合っていた日々。救えなかった命への後悔。

 そして今、目の前にある「理不尽な死」。

「……本当に、死んでいるのか?」

 レオンは震える指先で、一番手前の卵に触れた。

 冷たい。

 だが、その冷たさは死の冷気ではないと、彼の指先が告げている。獣医師としての直感だ。

「頼む……俺の勘違いであってくれ」

 レオンは深く息を吸い、意識を集中させた。

 瞳の奥で、焦げ茶色の光が明滅する。

 世界でただ一人、彼だけが持つ前世の置き土産。ユニークスキル――【生体構造理解アニマル・アナリシス】。

 視界が暗転し、網膜の上に青白い光のウィンドウが浮かび上がった。

【解析完了】

対象: ワイバーン(未孵化卵)

状態: 仮死(魔力循環不全)

魔力活性: -0.03% (致死域)

体温: 34.2℃ (適正値:35.7℃)

【診断結果】

病名: 重度ミネラル欠乏症

原因: 母体からのCaカルシウムおよびMgマグネシウム供給不足により、殻を通した魔素吸収が阻害されている。

判定: 生存可能性あり(78%)

「……やっぱりだ!」

 レオンは息を呑んだ。

 グレンたちは測定器の数値だけを見て、「魔力が低いから死んだ」と判断した。

 だが真実は逆だ。「栄養が足りないから、魔力を取り込めずに弱っている」だけなのだ。

 これは「呪い」でも「運命」でもない。ただの、科学的な欠乏症だ。

【治療プラン】

推奨薬剤: Ca/Mg含有量の高い魔草『月光草』の濃縮抽出液

投与方法: 殻表面への塗布および温度管理(35.8℃固定)

必要経費: 日割り・銀貨2枚相当

 銀貨2枚。日本円にして約2000円。

 レオンの手取りを考えれば、決して安い額ではない。

 孵化までの二週間、毎日投与し続ければ、彼の全財産である「なけなしの貯金」は底をつくどころか、借金生活だ。

 自分の食費を削り、暖房用の薪を売り払い、それでも足りるかどうか。

 この国で、下位種族が貯金を失うことは、死に直結するリスクがある。

 だが、ウィンドウの最下部に表示された予測データが、彼の理性を吹き飛ばした。

【成長予測】

種別: 雷撃種サンダー・ワイバーン

潜在能力: Sランク相当(変異個体)

「雷撃種……だと?」

 レオンの手が止まる。

 ワイバーンの中でも、対魔族戦において最強とされる希少種。空を飛ぶ魔族や、強固な装甲を持つゴーレムを一撃で粉砕する「空の雷神」。

 もし、これを孵化させることができれば。

 ただの「ゴミ処理係」である自分が、Sランクの飛竜を従えることができれば――。

(これは、俺の存在証明になる)

 心臓が早鐘を打つ。

 レオンは周囲を警戒し、誰も見ていないことを確認すると、木箱を抱きかかえてきびすを返した。

 向かう先は谷底ではない。自分の暮らす粗末なボロ小屋だ。

 所持金は、銅貨180枚と銀貨1枚。計2万8千円相当。

 ギリギリだ。だが、やるしかない。

「上等だ。見せてやるよ、グレン……いや、この世界マンルシアに」

 レオンは泥にまみれた卵を、宝物のように抱きしめた。

 かつての獣医師としての知識と、この世界の非常識なスキル。

 その二つを武器に、ゴミ捨て場の犬は今、静かに牙を研ぎ始めたのだ。

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