第1章 27「会社員が辞めない理由~準備だけで勝つ男~」
全面的に自己責任でお願いします。
第27話「営業の顔、翻訳家の名刺」
優守は、今日も外を回っていた。
業務用の事務用品。
コピー用紙、トナー、文具、備品一式。
分厚いカタログを抱え、
学校、病院、企業、事務所を順に訪ねる。
特別なことは、何もしていない。
会社員として、ごく普通の営業だ。
業種を限定しない分、訪問先は幅広い。
弁護士事務所。
会計事務所。
税理士事務所。
相手から見れば、
「よくいる事務用品の営業」。
それでいい。
◆◆◆
名刺交換の瞬間、
優守は無意識に“見る”。
《鑑定》
――反応は、まちまちだった。
肩書きだけ立派で、中身が伴っていない者。
知識はあるが、対応が雑な者。
問題はないが、可もなく不可もない者。
(……まあ、こんなもんか)
だが。
数件に一人。
はっきりと“違う”反応がある。
・説明が正確
・言葉が簡潔
・相手の立場で考えている
・長期的な視点を持っている
(……あ、当たりだ)
弁護士。
会計士。
税理士。
それぞれの分野で、
「任せてもいい」と直感できる人物が、確かにいた。
しかも、偶然とは思えない頻度で。
◆◆◆
その日は、税理士事務所だった。
雑談の中で、相手がぽつりとこぼす。
「最近、海外絡みの書類が増えてましてね。
翻訳が絡むと、どうしても時間がかかる」
その言葉に、優守は一拍だけ間を置く。
営業としては、余計な話だ。
だが――今は、違う。
名刺ケースを、もうひとつ開く。
「実は、個人で翻訳もやってまして」
差し出したのは、翻訳家の名刺。
ハンドルネームと本名。
URLとQRコード。
見やすく、過不足のない一枚。
相手の目が、わずかに変わる。
「……ほう。英語と中国語ですか」
「基本は。そのほかは、指名案件のみで」
押し売りはしない。
説明もしすぎない。
相手は、名刺を一度見てから、静かに頷いた。
「必要になったら、連絡します」
(……十分だ)
◆◆◆
それは、弁護士事務所でも。
会計事務所でも。
病院でも。
学校でも、同じだった。
誰にでも渡すわけじゃない。
鑑定で「信用できる」と判断した相手にだけ。
翻訳の話は、
あくまで“付け足し”の情報。
だが、不思議と――
「実は、ちょうど探していて」
「短い翻訳なんですが」
「一度、お願いできますか」
そんな言葉が、後日、自然に返ってくる。
◆◆◆
協会案件も、増え始めていた。
法人依頼。
官公庁関連の下請け翻訳。
――“信用側”からの接触。
(……ああ、そういうことか)
営業をしているつもりは、なかった。
だが、人と会い、名刺を交わし、
信用できる相手だけに扉を少し開く。
それだけで、縁は勝手に流れ込んでくる。
◆◆◆
帰宅後。
優守は、名刺ケースを机に置いた。
会社の名刺。
翻訳家の名刺。
そして、今日増えた連絡先。
弁護士。
会計士。
税理士。
各分野に、
「任せられる人間」が揃いつつある。
(……雇えば、開業は簡単だな)
頭をよぎる考えを、すぐに流す。
まだ、決めない。
だが――もう、悩む段階ではない。
信用は、作るものじゃない。
出会って、選び取るものだ。
優守は、静かに理解していた。
独立への道は、
もう、向こうから整い始めている。
読み終わってのクレームは、お止めください。
自己責任です。




