⑤アウトな感情〜Side大河〜
それを静かに聞いてくれたあと、彼女はニッと笑って言ったのだ。
「出世するのも、いろいろと大変そ。でもさ……。本当に嫌なら、逃げちゃえばいいのよ」
まったく予想だにしなかったその発言に、驚いた。
「でもそんなことをしたら、残された人たちが……」
「ひとりやふたり人が辞めたくらいじゃ、会社なんて潰れやしないわよ」
ガハハと豪快に笑って言われ、たしかにそうかもなと思ってしまった。
そしていつでも逃げていいんだと思うと、一気に心が軽くなった。
あの時の彼女の言葉にどれだけ心が救われたことか、きっと当人はまるで分かっていないと思うけれど。
結局お互いに名前も言わないまま、俺たちは別れた。
しかもその時俺はクソダサい極厚ビン底眼鏡姿だったことから、彼女はきっとあの時の男が俺だとは気がついていない。
もしかしたら記憶の片隅にもいないかもしれないという考えは、脳の端へと追いやった。
イベントの企画だのなんだのといった仕事をこなし、忙しく過ごすうちに、名も知らぬ彼女との出逢いから既に2年半も経ってしまった。
とはいえその間も夜に少しでも時間が出来れば例の公園を訪れるというのがほぼ日課と化し、当たり前みたいになってしまった女々しい俺。
だけどタイミングが合わないのか、はたまたそもそも彼女が来ていないのかは分からないが、あれ以降一度もあの子とは会えないでいた。
彼女との再会に一方的に運命を感じ、テンションが上がっていたのだが、ほんとなんでよりにもよって今なんだよ!?
いくら好みのタイプだとしても、さすがに彼女のパートナー探しの邪魔をして、自らを売り込むような真似はできない。
そんなことをしたら、会社の信用に関わる。
そしてそれがバレたら、我が社の社長である母親にマジで殺されかねない。
ということは、つまり。
……俺が2年半もの間ずっと再会を望んでいたあの子の結婚相手を探すための、手助けをしなければならないということになるのでは?
なんなんだ? この状況は。本当に、サイアク過ぎる!
しかし考えようによっては、再会出来ただけラッキーといえなくもない。
だって本当にサイアクなのは、彼女ともう会えないまま、あれっきりになってしまうことだと思うから。
あの頃は相当メンタルにきていたが俺は基本的に俺はポジティブな性格で、なんでもプラス思考に持っていくタイプの人間なためすぐに気持ちを切り替えた。
とりあえず、今の自分に出来ることを考えてみる。
うーん……。どうしたもんかな?
しかし運悪くそのタイミングで、こっそり会場に忍び込んでいたのをスタッフの佐藤さんに見付かってしまった。
カツカツと、優雅ながらも素早い動きで俺のほうへ歩み寄る彼女。
ニコニコと表面上は笑っているが、目の奥が笑っていない気がする。
だけどそれに怯むことなく、俺もにっこりと笑顔を返した。
「佐藤さん。今日の参加者一覧を、見せてもらっても?」
公私混同も甚だしいが、なりふりなんか構っていられない。
俺の問いに佐藤さんは、少し戸惑ったように視線を泳がせた。
だけど再度ほほ笑み、無言のまま催促すると、彼女は諦めたようにふぅと小さく息を吐き出した。
そして脇に抱えていた、参加者名が記された一覧の入ったクリアファイルを俺に手渡した。
「大河さん、くれぐれも。……くれぐれも、余計な真似はしないで下さいね?」
……本当にこの人は俺のことを、いったいなんだと思っているのだろう?
その発言は無理矢理抑え込み、もちろんですとだけ答えた。
控え室に戻り、渡されたクリアファイルから資料を取り出してその内容を確認する。
数枚めくったところで、彼女の。
……櫻木 春呼さんの写真が貼られた、プロフィールカードが見付かった。
『春を呼ぶ』、と書いて『はるこ』さん。
その名は明るく元気いっぱいな彼女に、とても合っている。そんな気が、した。
そしてさっき彼女が話していた、相手は……っと。
なるほど。小児科医さん、ねぇ。
しかも次男で、親とは別居。
木ノ下さんはうちの結婚相談所に登録してから既に3ヶ月ほど経っていたから、スタッフが手書きでその印象を、メモ書きとして残していた。
『優しい』『穏和』『やや、人見知りなところあり』。
おそらく女性からしてみたら、母性本能がくすぐられるタイプってヤツだろう。
収入面的にも、性格的にも、俺も迷いなくイチオシさせて頂く優良物件だ。……通常であれば。
結婚相談所のスタッフがなんてことを考えているんだと、自分でもまったく思わないわけではない。
わけではないが、しかし……。
面と向かって邪魔することはさすがに憚れるが、なんとかしてふたりを引き離したい!
そんなことを考えているだなんてバレぬよう、しれっとさも真面目に仕事中ですよというような顔をして再び戦場へ。
佐藤さんに参加者の資料を返しながらも、無意識のうちに瞳は春呼さんの姿を探していた。
だけど彼女を見付け、激しく動揺した。
だってあの夜俺と話していた時みたいに、楽しそうに春呼さんは笑っていたから。
公私混同はしない主義だが、弾んでいるらしき会話に不快感と焦燥感が増していく。
そしてそうこうしている間に、艶やかな黒髪をなびかせて、篠崎さんがふたりの間に割って入っていくのが見えた。
うわぁ……。あそこに、突っ込んでくのか。
……ホント、猛者過ぎるだろ。
愛を込めてスタッフは篠崎さんのことを、『ハッピー・ブルーバードの主』などと呼んでいる。
それほど彼女の在籍期間は長いし、事務員の子たちとも仲良くなり過ぎなほど仲が良い。
見た目は清楚系だが、篠崎さんの中の人はゴリゴリの商人だ。
しかし婚カツパーティーではいつもキャラを作り過ぎているため、空回りしてしまい、結果を残せないでいる彼女。
素の性格はサバサバしていて、うちのスタッフの受けもよい。
だからその飾らない性格をもっと表に出していけば絶対行けるのにと、みんな話している。
普段であればカップル成立目前のところに割り込むような真似はやめて頂きたいと思うところだが、今日は是非とも頑張ってもらいたい。
俺の代わりに思う存分、引っ掻き回してくれ。
桐生 大河は、篠崎さんを応援しています!
オリンピックの公式スポンサーみたいなことを考えながら、心の中で全力で応援旗を振る。
とはいえ公私の、私の部分にばかり構っている場合じゃない。
曲がりなりにも俺は、ハッピー・ブルーバードの社員なのだ。
一部の女性のお客様からの熱い視線と、佐藤さんのお前はもう控え室に引っ込んでいてくれというような生暖かい笑顔。
それに気付きながらもそれとなく周囲に気を配り、あぶれてしまっているらしき男性のお客様に声をかけたりしつつ、そっと様子をうかがい続けた。