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福耳

作者: 雉白書屋

 ある朝。洗面所で顔を洗おうとしたおれは、鏡を見て驚いた。耳たぶがやや膨れており、少し伸びていたのだ。

 膿が溜まっているのだろうかと思ったが、引っ張っても痛みはない。しかも、それは両耳だった。二次性徴なんて年齢でもない、名実ともにおっさんだ。なのに、どういうことなのかと鏡の前で首を傾げたが、おれはおっさんらしく鈍感さを発揮し、ひとまず気にしないことにした。


 だが、周りの反応は違った。時間の経過とともにおれの耳たぶはどんどん伸びていき、またどういうわけか周りの人々の態度が柔らかくなっていったのだ。

 おれは自分でも言いたくないが、まあ顔が良いほうではない。しかし、耳たぶが伸びたことによりバランスが取れ、黄金比というやつに近づいたのだろうか。いや、そうだとしても影響があるのかはわからないが、とにかく同僚や上司、さらには営業先の人々からも可愛がられるようになった。


 充実した日々が続いた。しかし、それは耳たぶの大きさが一定のラインを越えるまでの話だった。

 おれは徐々に仕事を任されなくなった。また、周りの人々の態度もこれまであった馴れ馴れしさとは程遠く、よそよそしいどころか敬うように変化したのだ。

 戸惑いはしたものの、仕事をしなくても文句言われないのだ。楽でいいと考えることにした。何なら昇進させてくれるだろうと思った。しかし、おれはある日いきなり、クビを言い渡された。

 おれは驚き、当然抗おうと思ったが、社長が背中が水平になるほど深くお辞儀して「何卒、お辞めになってください……」「あなた様と共に働くなんて畏れ多く……」「もはやハラスメントです……」と懇願してきた。検討の余地がないことは明白であった。同僚たちもお辞儀をし、また両手を合わせ、おれがスッと身を引くことを期待、いや確信しているのだ。おれはその無言の圧力に何を言っても無駄だと思い、会社を辞めた。

 ああ、なんという不運だ。しかし、話はこれで終わらなかった。

 就職、バイト。どこへ面接に行っても、それはそれは丁重な門前払いだった。さらには満足に買い物もできなくなってしまった。

 コンビニでおにぎりを買おうとしたのだが、おれを見るなり店員がおにぎりをレジ台に勢いよく叩きつけ、その上から拳を何度も打ちつけ、潰してしまったのだ。「こんなもの! 並べて! すみません! 中身がスカスカでごめんなさい!」「あ、あ、あ、あなた様のお口に運ぶにはあまりに低俗でぇ……」と。

 耳たぶが伸びるにつれ、どの店もその調子で、外食もままならなくなった。唯一、歯を食いしばりながらおれにラーメンを提供してくれたあのラーメン屋の店主も、ある時、店を閉めた。

 シャッターにあった貼り紙にはこう書かれていた。


【今まで、ラーメンに麻薬を入れていました。ごめんなさい自首します】


 どうやら、悪人の方がこの耳たぶに対する抵抗力があるらしい。食料品や生活用品をネットで買ってしばらくは凌いでいたのだが、配達員が商品を渡してくれなくなり、そして貯金が尽きかけたこととは無関係に、大家にアパートから追い出された。そして、その頃にはもう、どこも何も売ってくれなくなった。


 だから今、おれは道端にゴザを敷いて物乞いなんてものをやっている。だが、おれが伸ばした手に触れるのは救いを求め、罪の告白をする者ばかりで、彼らは喋るだけ喋って満足しても、おれに一円たりとも恵んではくれなかった。

 もっとも、高貴な存在に一円だの五円だの、いいや万札であっても、そんな俗物的なものを恵むのは無礼なのかもしれない。

 ああ、考えていたらまた腹が減った……。頭が揺れ、耳たぶが揺れ、景色が揺れ、拝む人々が揺れる。いよいよ最期の時か。


 ――死してこそ仏なり

 

 と、ぼんやりとおれがそう思った瞬間、頭にそんな一文が浮かんだ。

 それで気づいた。彼らはおれの死を望んでいるのだ。

 倒れたおれは黒ずんでいく視界の中で、必死に目を凝らし映った世界を呪った。

 でも、たぶん何も起きはしないのだ。

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