喧嘩2
頭に血が上っていても、状況を把握できるのがロートの強みだ。「ウミネコ亭」に迷惑をかけないようにと、はじめにとった行動が酔客を店外へ誘導することだった。
当初の目的がヘアンの頼みで、ホアジー山賊団の面々を追い払うことだったのを考慮すると、ロートに任せたのはむしろ失敗だったのかもしれない。
街灯が夜をほんのりと光で染め、一直線の通りの脇にはいくつもの飲み屋が軒をそろえている。この商店をはしごして、さんざんに踏み倒したあと、ホアジー山賊団はウミネコ亭にたどり着いたのだ。
それはまさに獅子の口の中に飛び込むようなもので、ヘアンとのささやかな憩いの時を過ごしていたロートとしても、本気の片鱗をみせる弟子を相手にしなければならないホアジーにしても、不幸な出来事だったとしか言いようがない。
先を走る影は、その後ろを追う数十の足音よりも速い。さらにその後をのんびりと歩く、二つの人影があった。
「いいんですか? い、行っちゃいますよ。見失ったら……」
ロートが挑発しながら男たちを引き連れてしまったので、急いでお隣に伝言を頼んでからイリスと追跡を開始したのだ。それでもイリスは走ろうとせず、まったりしている。
「いいのよ、どうせ行くところは決まっているんだし」
「そ、そうなんですか? 事前に打ち合わせとかしているんですね、やっぱり」
「そんなことしてないわよ」
「え……じゃあ、どうしてわかるんですか」
はやる心はイリスの意外な説明によって、どこかに消え去って。かわりに仔猫のような好奇心が心から染み出し、器を満たしていく。
イリスはいつもロートに教えるような、投げやりな態度ではなく一度立ち止まると、石を拾ってアスマークの地図を描き始めた。
今いる大通りを中心に、その先に延びている円形の広場と、そのまた向こうの港。港沿いに細い道をいくらか進むと、ルイスのいる教会に行くことができる。
イリスは広場をトントンと示すと、
「これがなんだかわかるわよね?」
「アスマーク、ですよね」
「正解。で、大人数を相手に喧嘩をするならどこが適当だと思う」
ヘアンは石畳に削られるようにして描かれた白い線の地図を真剣に見つめると、ぼそりと。自信なさげな答えを漏らした。
「……教会……ですか」
「え?」
予想外の答えが返ってきて、イリスが思わず訊き返す。
「だって、人目はないし、一人をたたきのめすには絶好の場所……」
語勢はしりすぼみになって、音をなくした。イリスは諭すように優しく話す。
「まあ、敵側からすればそうだろうけど、今はロートが主導権を握っている状態だからね。自分に有利に働くような場所を選ばなきゃだめよ」
誰でもそうなのだが、慣れないことをすればミスが出る。ヘアンの場合もそうで、間違って逆の状況を考えてしまったのだ。イリスもそれを分かっていて、説明している。だてに師匠をやっているわけでもない。
ロートに接するときは容赦も加減もなくスパルタなのだが。
「だから、そうなると広くて、自由に立ちまわれるようなところだから――」
「――あ、広場ですね!」
今度は確信を持って、断言することができた。ヒントが多分にあったとはいえ、やはり問題が解けると嬉しいものだ。まじめな顔に、笑みが戻る。
「そういうこと。さ、そろそろ行くわよ。もうじき殴りあっているかもしれないわ」
イリスは立ち上がると、紺色のズボンについた土埃をパンパンと払った。くるぶしのあたりまで覆う、長いズボンで、軽快な動きができるように作られている。アスマークに来るまでの船上でも着ていたものだ。
「殴りあってるって――勝てるんですか!?」
小柄で華奢で、とても腕っ節が強いようには見えない。筋肉隆々の大人たちを相手にするのは、荷が重すぎるだろう。
イリスなら、奥知れない力でのらりくらりと薙ぎ払いそうなものである。なのに、のんびり講義などしていてよかったのだろうか。
「平気だと思うわよ。ひょっとしたらもう何人か気絶させているかも」
「え……うそ……」
たしかに命をかけて戦うこともあるとはいっていた。実力はあるのだろう。師匠のイリスがこんなに余裕を持っているのが何よりの証拠だ。けれどもヘアンは、自分の目で確認しないかぎり信じられそうにはなかった。
「ほら、ぼうっとしてない」
イリスは唖然とするヘアンの手を握った。柔らかくて、さらさらしている。
他人に触れられたことで気を取り戻したのか、ヘアンはイリスを置いて、ロートが居るであろう広場へと駆け出していく。
「まったく――恋は盲目ってやつかしら」
なんだか恩をあだで返された気分だ。これも若さのうちなのだろうけど。
ロートとその他大勢の酔っぱらいたちが居るのは小奇麗な広場で、中心には賢者をかたどった銅像と、そのまわりに流れる噴水が特徴的だ。水はとめどなく噴き出していて、絶えず水音を奏でている。荒い鼻息と交わって、不思議なハーモニーを作り出している。
白いローブを目深に着こみ、ぴくりとも動かないロートと。わらわらと餌に群がる蟻のようにロートの周りを囲んでいるホアジー山賊団のならず者たちが対照的だ。
不揃いに並んだ輪の列から、とりわけ人相の悪いひげ面が進み出た。途端に、周りがやかましくなる。ロートの頭上で交錯するヤジ。その喧騒に気づいた住人達が窓を開いて、何事かと顔をのぞかせる。
宵は満月。はるか遠くから旅してきた白銀の光が、一度だけの舞台をあらんかぎりに照らそうとしているかのような、夜とは思えない明るさ。等間隔に並んだ街灯は月光にかき消されるようにして、ひっそりと隅に控えている。
海から一晩中とどく強い風が、ロートの長いローブの裾を激しくはためかせる。乾いた音が、湿気た風に乗せられて、街の通りを滑っていった。
ヘアンがその場に到着した時には、踏みこんだら切れてしまいそうな細い緊張の糸が結ばれていて。
無言のぶつかり合いと、視線の火花が散っていた。
「さあて……泣いて謝るなら、許してやらんこともないが。どうする、くそガキめ」
下卑た笑みを浮かべ、喉から唸るような声を出す。まわりを取り囲む観衆もそれに合わせて馬鹿笑いを上げる。
うるさく、耳障りな声。
「さて――僕が謝るようなことは何もしていないはずですけど?」
ロートがとぼけてみせる。挑発しているのだ。ホアジーはすぐに余裕をなくし、顔が赤くなっていく。
「わかっていないようなら、教えてやろうじゃねえの! てめえはなあ、この俺を馬鹿にしたんだよ!」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪いのですか?」
ひょうひょうと言ってのける。
ホアジーは元から大きかった声を理性と引き換えに更に大きくして、
「年上に対する礼儀ってのを体に教え込んでやろうじゃねえの! 覚悟しとけよ!」
そう怒鳴りつけると、再び手ぐすねを引いて待ちわびている輪の中へと戻っていく。最初は子分に任せて、弱らせてからじっくりいたぶろうという算段なのだ。
いまにも先陣を切っていきそうな勢いで、子分達がギラギラと目を輝かせる。獲物を狩る肉食獣の凛々しい目などではない。弱者に集団でかかる、恍惚とした表情。
「野郎ども、やっちまいな!」
その号令がかかった瞬間、自制心がなくなったかのように雄たけびをあげて、おそいかかるピラニア。
全ての方向から一斉に殴りかかる。
「やめてぇっ!」
ヘアンが絶叫した。甲高い叫びが石畳を走り、空に響く。イリスはその声を聞くと、咄嗟に走り出していた。長い悲鳴は息が続く限り、止まることなく。
出せるだけの声を出そうとするとき、人は体を九の字型に曲げて、目をつぶり、精一杯に肺の底から絞り出そうとする。後ろから肩をたたかれて、ヘアンは思わずその手を払った。
それでも肩をつかむ手は離れなくて。
「落ち着きなさい、あの子は大丈夫だから」
見知った声だったことに気付いて、ヘアンが恐怖と悲痛で渦巻く顔を上げた。大きな瞳は涙にぬれて、光を反射している。長いまつげもしっとりとして、力無い。
「ほら、見ればわかるわよ」
イリスがロートの居る方向を顎でしゃくる。おそるおそる、ヘアンが顔を向けると、広場に倒れていたのはロートではなく、折り重なるようにしてうつぶせになっている数名の男たちだった。
ロートは辛くも包囲網を逃れ、崩れかかった輪の外側にいる。どうやら無事のようだ。
相変わらずひょうひょうと自然体で構えている。
「……ぐすん」
鼻をすすりながらヘアンはイリスにもたれかかった。そしてゆっくりと立ち上がっていく。
その間にもロートは迫りくる拳をいとも簡単に避け続けていた。かわすたびに耳元で口を小さく動かし、挑発することも忘れない。怒りにまかせた攻撃は軌道が単調で、直線的なのだ。つまり、予測しやすい。
「おそい、おそい」
戦況を眺めていたイリスがポツリと漏らした。あれくらいなら、目をつむってでも戦えそうだ。いや、比喩とかではなく本気で。
「あんなんじゃねえ……」
あたしの出る幕もなさそうね。本当に山賊団なのだろうか。考えてみれば粗野で乱暴で、見事に条件がそろっているのだが、いくらなんでも弱すぎる。
今までイリスは気の向くままに幾多の賊どもをつぶしてきた。
同じ手に入れるということなら、強奪するのではなく鮮やかに盗っていくのが礼儀であり人の道だというのがイリスの持論で、山賊や海賊などといった者たちはそれに反しているのだ。だから、全力でつぶす。
自分の心情にあっていないからと言って排除しようとするのは確かにエゴだろう。異教徒だからと無暗に非難を浴びせかけ、攻撃するのと同じこと。
けれども人はどこかで自分に折り合いをつけなければいけないのも知っている。己を許さなければ、他人を許すこともできない。完璧主義は身を滅ぼす。完全などというモノは少なくとも人間においてはありえないのだから。だから自分がやりたいことをやって、行きたいと思った道を選ぶ。
結果的に人のためになっているのだから、手加減するつもりはない。
でなきゃ、やってられないでしょ。この世知辛い世の中で。




