滑稽な
目の前に並んでいるのはきれいに積まれた空の皿。どれも容量の多い、大きめのものだ。すでに大半がイリスの口へと放り込まれ、その細い体へと吸い込まれていった。どれだけ食べても太らないような体質なので、カロリーだとかは気にしていない。
それどころか食事に気を使わなければいけないとは、何と不幸なことか、といたわっているのだ。他人から嫉妬の眼差しで見られてもおかしくはない。しかも絶世の美人というわけならば、なおさらだ。
いくらなんでも量をこなすには時間がかかる。イリスが完食するまでに、何組もの客が入っては出ていった。
今現在、ウミネコ亭にいるのはイリスらと、他の宿泊客。
女将が「今日は酒を切らしていてねえ、明日には入荷するからそれまで待っていておくれよ。どういうわけか頼んでおいた荷物が届かなくて。まったく、困ったもんさ」
といっていたのもあって、酒を目当てに集まる飲み客もいない。もっとも、酒代は重要な収入源なので、まず切らすようなことはないはずはないから、実に珍しいことであった。
「よーし、デザートお願い!」
他の宿泊客は各自の部屋に戻るか、別の店に出かけるかしていて。四人掛けの、木目があらい机の並ぶ一階には三人の人影しかなかった。
女将も在庫のないものを補充しに、買い物へ出ていた。
イリスとロートが隣り合わせに座り、仕事を終えたヘアンが向かい側にいる。細い肩にかかる金髪はところどころ乱れていて、給仕の忙しさを示していた。
「はーい!」
ヘアンは元気良く返事をすると、今は留守の女将が作っておいたプリンを運んできた。
「ロートの分もあるよ、ほら」
そう言って、柔らかい黄色とほろ苦い茶色の色彩が美しいプリンを手渡す。揺れるたびに誘うような姿をさらす、甘美な菓子はよく冷やされていて。ロートが受け取った皿も、ひんやりとして心地よかった。
「すみません、ありがとうございます」
頼んでいなかったのに、ロートの分まで作り置きをしていった女将の気遣いに感謝する。甘いものはイリスに負けず劣らず好きだった。
「あら、ずいぶん美味しそうじゃない。ロート、あんたの分もよこしなさいよ」
イリスは一口で四分の一ほど頬張ると、すかさずロートの分に手を伸ばそうとする。矢のように鋭い動きで、危うくえぐり取られるかどうかの瀬戸際で防ぐのが精いっぱいだった。必死にスプーンをはじく。
「いやですよ。自分ので満足してください」
「……なかなかやるじゃない。なら、容赦はしないわよ!」
イリスは本気とも余裕ともとらえられる、不気味で黒い笑みを浮かべる。口の端が引きつっているところを見ると、プリン奪取を防がれたことがよほどショックだったのだろう。先端をつまむようにして持った銀のスプーンが小刻みに震えている。
「いざ、勝負!」
一方的に宣戦を布告してイリスが指先を一閃させようとする。ロートが慌てて防御に徹しようとしたその時、誰かが扉にぶつかる鈍い音がした。つい、物音がした方へ視線を向けてしまう。
その一瞬のすきを逃さず、イリスが柔らかな本体をえぐりとった。ああっ、と声を洩らすのと同時に顔を赤らめたやたらと図体のでかい男が、扉を引いて店の内側へと入りこんできた。足取りはふらついていて、さらにその後ろから幾人もの酔っぱらいたちがやかましく騒ぎながらなだれ込む。
赤ら顔と、顎にはびこった髭。何日間も洗濯していないだろう、垢にまみれたシャツは黒ずんでいる。むき出しになった筋肉の塊のような腕には、白くなった傷跡がいくつもつけられていた。
既視感を覚える、果てしなく人相の悪い大男。奪い取ったプリンのかけらを口に運びながら、イリスは首をひねった。
「ねえロート、あいつらどこかでみなかった?」
「僕もそんな気がしますが……無視の方針で良いでしょうか」
「そうね、余計なことを気にする必要もないわ」
その数ざっと十名。誰もかれもがぐでんぐでんに酔い潰れていて、ヘアンが露骨に顔をしかめた。アルコールの鼻をつくにおいが部屋に充満する。匂いを嗅いでいるだけで、酔っ払いそうだった。
ヘアンは疲れたように立ち上がると、
「すみませんが、うちはもう店じまいなんです。出ていってください!」
と怒鳴りつける。小さい頃から飽きるほど見てきているので、泥酔した客の対応には慣れている。彼らに正論は通用しない。とにかく大声で、締めだすことが肝心だ。外に出しておけば、後はなんとかなる。
ヘアンの怒声もむなしく、男たちは床に座り込んでしまった。困ったような顔をして、ヘアンは後ろを振り向いた。そして、両手を合わせる。
「ごめんなさい。ちょっと手伝ってくれない? いつもはお母さんがやってくれているから、私だけじゃ力不足で……」
上目遣いで、すがるような目つき。金の前髪に隠された丸っこい瞳が、まっすぐロートのフードの下に向けられている。元より断るつもりもなかった。頷いて、承諾の意を示す。
ヘアンは安心したようで、強張っていた肩の力を抜いた。いまにも寝ころんでいびきをかき始めそうなむさくるしい男たちを一睨みすると、ロートは立ち上がって声をかけた。とはいっても、もはや言葉が通じるような相手でないことは了承している。とりあえず、手順を踏んでから、ということである。
「……今すぐ退出してください。しなければ、力づくでもかまいませんけど、どうしますか?」
答えは聞かなくても分かっている。ロートの言葉は研がれた氷のように鋭く、冷たかった。
後ろでは、早々と自分のプリンを平らげたイリスが弟子の分をさらって、呑気に現状を見守っている。近頃はこのように単独で行動させることも多い。手間はかからないのだが、見ている側としてははらはらして安心できない。
あくまで態度には示さないが。自分の責任は自分で何とかしなさい、という暗黙の言葉である。
先頭――つまり、もっとも最初によろけながら店に入ってきた大男がロートを見た。本人は睨みつけているつもりであるのだが、いかんせん目に力がない。
「あ~ぁ、なんだてめえ! おれに喧嘩売ろうってのか!」
異様に声が大きい。節度も限度もないかのようだ。握りしめた拳を頭上でぶんぶんと振りまわして、ろれつの回らない売り言葉を発する。
「いい度胸じゃねえかぁ~! この俺をホアジー山賊団の頭領だと知って喧嘩を吹っ掛けてくるたぁあな、ええ?」
「山賊団だか何だか知りませんけど、とにかく外に出てもらいますね。じゃあ――」
ロートはマントを祓い、腰から柄だけの剣を取り出す。すると何もなかったところから漆黒の線がゆっくりと伸び、ロートの身長の半分くらいの長さになると、扇形に開いた。
今までどんな奇術師でもなしえなかったような芸当を前に、ヘアンが目を見張る。のんびりとデザートをつまむイリスにささやいた。
「あれ……一体どうなっているんですか? いきなり黒いのがニューっと出てきて、なんだか広がって……」
「ん? いつものことだから気にしなくていいわよ――とは言っても無理な話か。あのロートが持っているやつは、インフィニト・ノイテ。要約すると、万能の便利器ね」
本来なら、「略しすぎです」という突っ込みが飛んでくるところなのだが、生憎その役目をするべき少年は酔っぱらいたちの掃除で忙しい。ヘアンに間違った認識を植付けられているとは、微塵も考えていなかった。
「便利器――なんですか? なんだか剣のように見えるんですけど……」
ヘアンが首をひねる。観察力はしっかりと兼ね備えているようだ。イリスは何の気なしに、
「ああ、普段はそうやって使ってるわね。大正解」
といった。この少女、案外に鋭いのかもしれない。ロートの彼女候補くらいにしか見ていなかったものを、少々評価を上げることにした。
「やっぱり、戦うためですか」
ヘアンの顔にはいつものような明るい雰囲気は纏われておらず、ただ硬く、そして悲哀を感じさせる表情があるだけだった。その眼は、いつになく真剣である。
「そうよ」
武器を使うことに慣れるまで、何度も地獄を味わった。いっそ自分が地獄に落ちてしまえばいいのだと。心が折れては砕け、何とか形を取り戻しては倒される。そんな日々を潜り抜けて、ようやくたどり着いたある意味での境地。
もはや常人には戻れないのだと、自覚している。目の前にいる、戦いといえば親子げんかと街の喧騒くらいしか経験した事のない、純粋でけなげな。少女のような瞳にはもうなれない。
「人を傷つけることもあれば、殺すことだってある。普通、あの子くらいの年齢で自分の手を赤に染めるようなことはいけないのだろうけど……でも、現実は想像よりもずっと厳しいのよ。あなたが考えているような、安易な世界とはケタが違うわ」
「…………」
ヘアンは小さな唇を真一文字に結んで、俯いている。箒で掃くように大男たちをあしらっている姿と、インフィニト・ノイテで肉を切り裂く影。イコールでは結べない、相反した二つの真実。
裏と表、などという簡単な表現では説明しきれないのが現実なのだ。まだ年端もいかぬ少女にとっては、あまりにも過酷で原色に近すぎる写真。
「そうなんです……ね。やっぱり冒険は――旅人は」
その後は続かなかった。突然、怒り出した大男がロートの顔面に向かって殴りかかったのだ。素面の状態ならともかく、軌道もままならない惰性の拳では当たるはずもなく。
「そんな程度で殴っているつもりですか? 遅すぎますよ」
「んだとぉ!」
激昂する自称、ホアジー山賊団の頭領。ぞろぞろと控えている他の汚らしい男たちも、最高権力者の怒声に背筋を伸ばし、何事かと目を見張る。
ますます温度の下がった、極寒の中で吹雪いているような。射抜かれるだけで凍りついてしまいそうな。
イリスはロートの皮肉めいた辛辣な言動に、嘆息した。また悪い癖が出たかと、内心毒づいた。
「普段はクールなんだけどね……意外と熱くなりやすくて意地っ張りだったりするのよ」
「――そうなんですか」
「まったく、後でお仕置きが必要かしら」
イリスが本気でお仕置きなどというモノをしたらどうなるのだろう。おそらく、というかかなり現実的に再起不能になるのが予想できた。ヘアンの背中に、ぞわりと悪寒が走る。
「あ、あんまり痛いようなことは……しないであげてください」
イリスはしどろもどろになるヘアンの様子をじいっと見つめて。
「ま、今回はあなたに免じて許してあげることにしましょう。ほんとは百万円くらい稼がせるようなのを考えていたんだけど、なしにするわ」
世界中で共通の通貨「円」。どこへ行っても使える普遍の存在。いくつかの紙幣と、硬貨で構成されている。ちなみに百万円といえば、ロートのような少年が一日中、肉体労働をしながら三カ月かかってようやく稼げるような金額である。
「ひゃ、百万円って……本気ですか?」
あまりの金額の多さ、というよりもお仕置きの厳しさに驚く。並大抵の量ではない。
「もちろん本気よ。で、その中からあたしの生活費を半分くらいぶんどって、遊びまくるわ。ほんとに賢いならギャンブルでもやって一気に稼ぐだろうけど、たぶんあの子には無理ね。まじめ一辺倒だから」
鬼畜だ、と。かすかな表情にも出さないように細心の注意を払いながら、心の奥底で呟いた。
こんな師匠と寝食を共にしていたら、精神力は半端ではないものが身につくだろう。そのまえに崩壊してしまわなければいいのだが。
「さあ、そろそろ気をつけた方がいいわよ。ひと波乱ありそうだから――」
イリスの目つきが変わった。ヘアンが視線の先を追うと、今にも実体化しそうなほどに険悪な空気が流れていた。激昂する男たちの粗野な怒声と、ただ一人皮肉な文句を飛ばしているロートが対照的だ。
リーダー格の大男が、ロートの胸倉のローブをつかんだ。小柄な少年は軽々と持ち上げられ、大男と同じ目線の高さまで上昇する。
その拍子に、目深にかぶっていたフードがはだけ、彼が押し隠そうとしていた童顔とピンク色の髪があらわになった。それを見た大男が、馬鹿笑いを浴びせかける。
「なんだぁ? その情けない顔と髪の毛は? ばっかじゃねえの! なっはっはっはっは!」
「あーあ、人のトラウマを刺激しちゃって……。どうなっても知らないわよ」
波乱は嵐へと発達していきそうだ。なにせ、とんでもない地雷を踏んでしまったのだから。
「…………」
もはや怒り心頭で言葉にすることもかなわない。ロートは解かれたベールを元に戻そうともせず、無言で大男の腹に強烈な蹴りを喰らわせた。的確に鳩尾を狙っている。筋肉に足がめり込む鈍い感覚が、ロートに伝わった。
「ぐっ……てめえ……」
急所に一撃をもらって、大男がむせこみながらロートを落とした。よろめきながら後ずさる頭領に、周りの子分達が血相を変えて寄り集まってくる。
「ホアジー様! 大丈夫っスか!?」
この大男の名前がようやくわかった。ホアジー山賊団などというよく分からない賊を語っているので、リーダーの名前をとっているのではないかとうすうす感づいていたが、わざわざ自分の名前を誇示するような名称にすることもないだろう。権力の象徴にはなるが、己のネーミングセンスのなさを露呈する結果となってしまっている。
イリスは鼻で笑った。
「単純な名前」
ねえ、とヘアンに聞こうとして、少女の瞳が異様にキラキラ輝いていることに気付いた。そのきらめきはまるで――。
「――素敵……」
「――恋する乙女、か」