帰宅
夜を迎える前に、最後の輝きを放ちながら大きな夕焼けが地平線の彼方へと姿を消していく。低い位置から放たれるオレンジ色の光が、長く細い影を石畳に映しあげている。
ひとつはより長く、ひとつはより短く。
濃度の同じ薄い黒色が並んで、歩くたびに上下する。その大きさは段々と増していって、やがて闇に溶けあう。世界が大きな“影”に包まれるのだ。
「今日はお終いかしらねえ……夜は作戦会議して、ご飯食べて、さっさと寝るわよ。久しぶりの生臭くない寝床なんだから、たっぷり楽しむ! わかった?」
「なんで強制されているのか理解不能ですけど――僕は特に異論ありません。けっこう疲れていますし。お腹は……まだもうちょっと時間がかかりそうですけど」
アスマークについた際に、イリスの突発的な行動に釣られて屋台をまわりに回ったのだ。だから、空腹というわけでもない。何となく充実した、正でも負でもない感覚。そんな状態が一番、幸福なのだ。
限りない欲求の中で、最も手軽に満たすことのできる食欲。美味しいものを食べればいいだけの話。それでも生きていれば新たな欲が湧く。
「……お腹すいてないの?」
「……すいているんですか?」
驚いたようなイリスの声に、ロートも意表を突かれる。もし空腹なのだとしたら……。ロートの額に冷たい汗が流れる。あれだけ詰め込んでおいて、半日もたたないうちに消化しているのなら、それはもう食べ盛りという言葉ですまされる問題ではないだろう。――というより、食べ盛りなのはロートの方であるはずなのだ。
イリスは夕焼けによって赤く染められた頬を膨らませる。まるでドングリを目いっぱいに頬張ったリスのようだ。
「なに考えてんのよ、あんたは。その年頃なら慢性の空腹サイクル真っただ中にいるはじゃない! そんなんだから線が細いのよ、まったく……」
怒っているのか、嘆いているのか。ぱんぱんに膨張した頬は徐々に元の大きさに近づいていき、やがてしぼんだ。
「と、言われましても。お腹一杯なのは僕のせいじゃありませんし、体格が良くないのも仕方のないことじゃないですか」
イリスはロートの細い腰に目を遣る。サイズの大きいローブを着こんでいるためはっきりとは窺えないが、やはり、がたいが良いとはいえない。
「そんなんじゃ将来はジャックみたいなひょろひょろの紐みたいな人間になるわよ。まあ、さっきの筋肉男みたいなのがいいとは絶対に思わないけど」
ジャック――薄汚れた焦げ茶色のコートに身を包み、常に悩みのない笑顔を顔に張り付けている。旅人にはよく鍛えられた人が多い中で、ジャックは例外的だった。いわゆる、優男である。
ロートは自分が大人になったときの像を思い浮かべてみたが、うまくいかなかった。未来のことなど、考えていないしどうなるか分ったものではない。
可能性も、選択肢も無限なのだから。
「……じゃあ、どうなれと?」
「そうね――とりあえず、ありとあらゆるお宝を華麗に、しかも優雅に手に入れることのできるようなイケメンの旅人になってほしいわ」
「師匠の理想図が凝り固まっているだけじゃないですか!」
イリスは軽く笑ってごまかすと、
「話を戻すけど。あんたはまだご飯を食べる気にはならない。そういうことね?」
「もう少し待ってもらえると嬉しいです」
「なら、あたしがあんたの分も食べるから」
えっ! というロートの悲痛な叫びを背中に浴びながら、イリスはさも楽しそうに声を上げる。艶めく紫色の長髪が、やがて闇へと包まれていった。
どこまでも伸びる橙の地平線の裏へと太陽が姿を消し、ロートとイリスがウミネコ亭につくよりも一足先に夜が訪れた。日が暮れると人は陽気になるか、寝ることぐらいしかすることがないようであちらこちらの酒場から荒々しい笑い声や歓声が聞こえてくる。
ウミネコ亭は宿屋も兼ねているためさほど食事のためのスペースは広くない。それでも少々冷たくなった木製のドアを開くと、常連客とみられる何人かの男たちが居た。
「あ、お帰りなさい」
せわしなく動く金髪の少女がエプロンを提げ、ロートに挨拶した。手には海鮮料理の乗ったお盆を抱えている。見るからに新鮮な、身の引き締まった具が小高く積み上げられていて、イリスは生唾を飲み込んだ。僅かに胃が消化しきれていなかったものが押し流されて新たな食事を迎えるためのスペースが開いていくのを感じる。
ヘアンは急いで盆の上の皿を届けると、ロートに話しかけた。
「どうだった? 司祭はいらっしゃったかな?」
ロートと違って普段あまり使うことのない敬語がスラスラと出てくるところからしても、ルイスが信頼されていることが身に染みて伝わってくる。ロートはルイスの温厚な顔を思い浮かべた。
「ええ、すごくいい方でしたよ。優しくて――」
ちらりとイリスの方を見遣る。皮肉な視線の先の人物はテーブルに乗った料理の数々に全ての思考を持っていかれていて、ロートの冷たい瞳に気付いていないようだった。
イリスの眼には、湯気を上げるタコ墨のスパゲティしか映っていない。
「――えー、優しくて誰かさんとは全然違って。ポセイドンや戒めの鏡についていろいろ教えてくれましたよ。しかも話し上手で面白かったですし」
「あ、そうそう。そんな名前だったなあ――戒めの鏡。すっかりど忘れしてた」
ヘアンが小さな頭をこつんと叩く。舌をちょっぴり出すのも忘れていなかった。
その様子がよく似合っていて、混じりけのない可愛らしさが眩しい。
「現物も見せてもらいましたけど……結構、立派なものでした。あの中に、指輪が封印されているんですよね」
「そうだよー。わたしも何度か見たことあるけど、その度になんだか萎縮するっていうか、なんだか縮こまった様な感覚になるんだよね。あの大きくて圧力のある装飾とか、すごく綺麗なんだけどな」
賢者が置いていったとされる、厳めしくも美しい鏡。その裏にはアスマーク――ひいては全世界を守るという使命が隠されているのだ。自然と見る者たちを威嚇するような錯覚に襲われてしまうのだろう。
それでも華麗で繊細に施された、鏡本体の周りを覆うようにして取り巻く彫刻と、傷一つない鏡面。無機質な平面は現実をそのまま反射して、描きだす。左右は逆でも、本質は同じなのだ。
「あの感覚は僕もわかりますよ。尊敬の中に、畏怖が混じっているというか」
「たしかに、そんな感じだよね。どうしてだろ、所詮はモノなのにね。わたしたちはなんとなく怖がっている」
「それは……」
論理的な説明ができるものなのだろうか。ロートには自信がなかった。ヘアンのいっていることは理解できるのだが、いざ言葉にしようとすると適切な語彙が見つからない。それは肌で感じるものであって、頭で考えるべきではないのかもしれなかった。
「たぶん、魔法ですよ」
「魔法?」
ヘアンが驚いたような、それでいて面白がっているような含みがある表情を作った。大きな丸っこい瞳がきらきらと輝いている。
「賢者様がアスマークを守るためにかけていった、とっておきの魔法だと思いますよ」
本当に魔法などというモノが存在して、賢者がそれを使ったのかどうかは分からない。けれどもロートは、魔法だと確信していた。
ヘアンは口の中だけで笑った。
「そうかもね。やっぱり、ロートは面白いよ」
「面白い?」
冷たい、といわれることは多々あっても面白いと評価されるのは初めてだった。ほんのりと温かくなる感覚が、体の芯から湧き上がってくる。滅多にないが、イリスに褒められた時と同じ気分だ。人に褒められるとは、こういうことなのだろうか。
悪くはない。
「うん。面白いよ、すごく」
「どの――」
「ヘアン! ちょっと手伝って!」
どのあたりが面白いのか尋ねようとした時、カウンターの中で調理を行っていた女将が娘に声をかける。ヘアンは、はあいと返事をしてからロートにウインクした。
「じゃ、ちょっと忙しいからまたあとでね」
すばやい動きでロートのもとを離れる。とは言ってもさほど広い店内ではない。いつでもお互いが目に入る位置にいる。
会話する相手が居なくなり、ロートは隣で今にもよだれを垂らしそうな気の抜けた顔をしているイリスを小突いた。ぴくっ、と反射的にロートに触られた右腕が反応する。
「な、なに!?」
「なにって、そろそろ戻りましょうよ。いつまでもここで邪魔をするわけにはいきません」
入口の正面を塞いでいるのだ。もしウミネコ亭に入りたい客がいたとしても、通りづらい雰囲気だろう。イリスは我にかえって、ようやく状況を理解したようだった。
「……ああ」
納得したような呟き。多分、自分が何をしていたのか記憶がないのだろうな、とロートは思った。夢の中にいたような気分がイリスを取り巻いている。すぐに忘れてしまうけど、幸せな確信。
「そうね、部屋に戻ったらすぐ夕飯にしましょう。もう待ちきれないって本能が騒いでいるわ」
「それはいけませんね。早いとこ食事をとらないと」
空腹によるストレスでどんな八つ当たりをされるか分ったものではない。それに、食欲を満たしたイリスは機嫌がよくなる。どうやら海神の指輪を手に入れるのは難しそうだと悟っていたロートにとっては、好都合だった。幸いお金は船長からもらったものが残っている。しばらくは観光を楽しんで、それから旅立つことになるだろうから、宝を入手できなかったイリスが拗ねないか、それだけが心配ごとであったのだ。
「よし、決まったらさっさと動く」
イリスはロートの背中を思い切り押した。前のめりになって転びかけたロートが抗議の声を上げる。
「押さないでくださいよー」
「文句いってないで、階段登りなさい。あたしに追いつかれたら夕飯抜きってことで」
いい終えるが早いか、イリスが突然駆け出した。ロートまでは距離があるとはいえど、ほんの人ひとり分だ。すぐに抜かれてしまうだろう。
師匠の気紛れなルールには慣れ切っているロートは早々にバックステップで階段まで進むと、一気に中ほどまでジャンプした。これなら、晩御飯にはありつけそうだ。