教会
港から十数分ほど歩いたところに、例の教会はあった。どうやら人々から大切にされているようで、白い壁で造られた側面には汚れの一つも見当たらない。
もう随分と長い歴史を誇っているはずなので、改修を繰り返してきたのだろう。
そこまでして守り、敬ってきた物が「海神の指輪」なのだ。よほどのお宝に違いなく、それを想像するだけで踊りだしたくなった。
もちろん、いきなり路上で踊り出すことはできないので足取りを軽くすることにとどめたのだが。
「あれですね、鏡がおいてある教会というのは。なかなか綺麗ですし、お宝にふさわしいですね」
「そうね」
円錐状の緑色をした先端がいくつか飛び出ていて、空に向かって伸びている。ほとんどの教会がそうであるように天井までが高くなるように作られていた。そのため、かなり大きく感じる。
背の低いロートがてっぺんを見上げながら言った。
「なんだか縦に大きい割には、横に狭いですね」
教会の横幅は高さに比べて半分ほどしかない。見た目ほど、中は広くなさそうだった。
イリスは全貌を見つめて、
「ま、教会なんてこんなものよ。とにかく外見を立派にすれば、後は勢いでなんとかなるわ」
「そんなものですか?」
「そんなもんよ」
イリスが言うことにも一理ある。
竜頭蛇尾、というわけではないがとにかく外装を良くすれば入りたくなる。入ってしまえば後は司祭の話術で引きとめて説教なり、懺悔なり、なんでもありだ。
「重要なのはなるべく多くの信仰者を集めることだから、思わず中をのぞきたくなるような形になっているのよ。で、中は狭くても綺麗に作る」
それはたとえばオルガンの音色であったり、ステンドグラスのきらめきであったり。
長椅子に座っているだけで安心するような雰囲気が、教会には備わっている。
「つまりは、花のようなものね」
「花?」
「だって植物は可憐な花びらで虫を誘って、中の蜜を飲ませるでしょ。そして、真の目的は花粉を運ばせること」
それが、目の前の建物に似ている、と。ロートはすぐに理解して、まじまじと人工的な花を見つめた。
先入観さえあれば、この美しい外壁だって汚れた純白に見えるのだろう。
「そんなまがまがしいものなのでしょうか? 僕には分からないのですけれど……」
イリスは愛弟子を一瞥し、近くに落ちていた石ころを蹴っ飛ばした。コロコロと音を立てて、小石が道を進む。
「あたしたちだって、いちいち花を見て『これは虫を誘うための罠だな』とか思わない。それと同じことよ」
「なるほど」
「ま、細かいことを気にしない方が長生きできるわよ」
そうですね、と相槌を打って。
二人は入口の前に移動すると、中を覗き込んだ。
そこには花粉まみれの柱頭――ではなく、長椅子が並んでいた。中央には通路があって、その横にずらりと取り囲むようにして木椅子が置かれている。パイプオルガンはその奥にあり、教会中に響くようになっていた。さぞかし、美しい音色であることだろう。
美しいといえば、他にも色ガラスがはめ込まれていて。色彩を持たない陽光が、緑や紫、赤といった風に染められていた。床には、聖母とみられる女性が浮かび上がっている。
鏡は右の奥隅にあった。傷一つない、完璧に平らな鏡面がイリスの姿を映し出す。
司祭は丁度、休憩中だったようだ。一段高くなったステージの端で、ゆっくりと腰掛けながら読書をしていた。しわだらけの手で、ページをめくる。
温厚で、優しそうな眼を持った人だった。白髪の本数から推定するに、60を過ぎたあたりだろうか。
ロートはイリスと顔を見合わせて、それから足を踏み入れた。
「失礼しまーす」
イリスの声に気付いて、司祭が本から目を上げた。そして、柔らかな微笑を口元に浮かべる。見ているだけで心が落ち着くような笑みだった。
「おや、こんにちは。どうかいたしましたか」
「いえ、綺麗なところだなあ、と思って覗いてみたんです」ロートが応じた。
先程の会話の内容はおくびにも出さない。司祭はうれしそうにうなずいた。
「そうですか、そうですか。それならこちらにどうぞ」
そう言って、自分のすぐ向かいにある椅子を指し示す。二人掛けの、簡単な作りだった。それから、思い出したように付け加える。
「あ、すみませんが、私は足が不自由なものでしてね。ご足労ですが、来ていただけますか」
実に丁寧な口調だった。人柄がにじみ出ているようだ。横にはつやのある、腰ほどの長さまである黒い杖を立てかけている。
イリスとロートは了解したふうを示すと、司祭のもとへ歩き寄った。段差の端には足の不自由な彼のために作られた小さな坂があり、不便のないようになされていた。皆から愛されているのだろう。
二人が腰をかけると、司祭が切り出した。ゆっくりとした、落ち着きある言葉であった。
「ようこそいらっしゃいました――この街は初めてですかな」
「ええ」
イリスがにっこりと笑いかける。よい人柄に出会えば、おのずと人は優しくなれるものだ。
「私はこの教会の司祭で、ルイスと申します」
ルイスと名乗った司祭は皮膚の固くなった手を差し出した。その掌は幾人もの迷える者を包み込んできたのだろう。温かかった。
「失礼ですが、あなた達の名前をうかがってもよろしいですかな?」
「イリスです。で、この小さいのがロート」
そう言って、ぽんぽんとロートの頭をたたいた。弟子は顔をしかめる。
「では、イリスさんとロートさん。お見知り置きを」
どうも、と言ってロートが頭を下げる。イリスは椅子に座りなおしただけで、特に挨拶などはしなかった。
「……覗いてみた、とおっしゃっていましたね」
「はい。でも、他に用があるにはあるのですが……」
ロートが応答した。師匠は動静をうかがうばかりで、これ以上何も話そうとはしない。ロートがどう話を運んでいくのか、高みの見物を決め込んだようだ。
「ほほう。用事、ですか」
司祭が目を細めた。彼は小柄で、ロートと同じくらいの背丈だろう。座っているのではっきりしたことは分からないが、目線がちょうど合わさる高さだった。
「僕らがアスマークにきて、小耳に挟んだことなんですけどね。海神の指輪、という伝説です。ルイスさんも、もちろんご存知だと思いますけど」
ルイスはこくり、と小さくかぶりを振った。
「そのことでしたら、街の者よりは詳しくお話しできるでしょう。なにしろここには、伝説の大賢者様が置いていかれた「戒めの鏡」があるのですから」
心なしか自慢げなルイスの顔。賢者が大賢者に格上げされているのは、いつもその存在を間近に感じているルイスにとって仕方のないことだ。自然に、誇大表現が多くなる。
「戒めの鏡?」
鏡、とはヘアンから聞いていたものの、詳しいことは教えてもらっていなかった。初耳である。
賢者が指輪の力を悪用されるのを恐れて、鏡を置いていったというようなニュアンスではあったのだが……。
「おや、「海神の指輪」の方はご存知でしたからてっきり「戒めの鏡」もご存知かと……これはすみません」
「いえいえ。ルイスさんが謝ることではありませんよ。――それで、その「戒めの鏡」のお話をしていただけますか?」
ルイスはうれしそうな表情を作った。物語を聞かせるのも、久しぶりなのだ。最近ではだんだんと信仰が薄れかけていて、誰かに話す機会も少なくなっていた。
「もちろんですとも――それでは」
ルイスの話の大方はヘアンから聞いていたものと遜色なかったが、幾分耳を傾けていて面白かった。やはり、話術を本業にしているからだろう。直接的に教わるのが初めてのイリスも、口をはさむことなく真剣に聞き入っている。
司祭の言葉には淀みがなく、いかにも語り慣れているといった様子だった。時折、休むようにして作られる間も絶妙で、その場面に居合わせたような臨場感があった。
神聖な教会で語られる伝説。舞台は完ぺきだ。
そして話題が戒めの鏡へと移ると、二人は僅かに緊張を混ぜた表情になった。
「――大賢者様は強大な力を持った海神の指輪が、その内現れるであろう悪人に使われることを危惧しておった。指輪を使えば七つの海を支配し、全ての大陸を従えることも可能ですからな。つまりは、世界征服ということです」
「世界征服……そこまで強い力を持っていたんですか?」
ロートが訊いた。たかだか指輪一つで簡単に世界を制覇できるものだとは到底考えられない。
ルイスは手を広げて、大げさとも取れるジェスチャーをした。
「なにしろ海神ポセイドンをやすやすと封じ込めるほどの魔力を伴った指輪に、荒ぶる海を支配し、操ったポセイドンが抑え込まれているのだから、それは凄まじい力があることでしょう。我々の想像をはるかに超えるものかもしれませんな」
二つの力が相乗効果となって、更にパワーを増す。これを使えば、なんでも思うがままにことを運べるのだ。心ない人が手に入れれば滅亡への道を招きかねない。
「そういうことで、大賢者様が恐れていることは理解いただけましたかな?」
「まあ、すごく危ないものだということはわかりました」
「そこで大賢者様は街の者に戒めの鏡を渡した。戒めの鏡にもかなりの魔力が宿されておりましてな、なんとかポセイドンを封印するだけの効果があったのですよ」
「ちょっと待って下さい。それはつまり、指輪は何の役にも立っていないということですか?」
ロートが口を挟んだ。
指輪を使わず、鏡だけで用を済ましているのだとしたらいったい何のために指輪はあるのか。
「そういうことになりますな」
ルイスが大きく頷いた。話を続ける。
「――戒めの鏡は指輪ほどの魔力を持っていませんので、かなりギリギリのところでポセイドンを封じ込めているのです。ですから、繊細に出来ておりまして。少し動かしただけで、地震が起こったこともありました」
本当に海神が居たという絶対的な証拠になる。だが、そんなことは問題ではなかった。
「どうして指輪で封印を施さなかったのですか? それなら災害が起こることもなかったのに」
ロートが問題の核心をついた。
「大賢者様は万が一の事態に備えて指輪を隠していかれたのです。もしも戒めの鏡が割られるようなことがあれば、海神の指輪を使え、ということですな。ただ、かなりの危険が伴うというはなしですが……」
「鏡は悪用できないと?」
「ええ、なにしろ持ち運びが不便だし、制御もしづらい。これを扱うのは至難の業でしょうな」
「――賢者は、鏡を大切にしろといいたかったのでしょうか」
「おそらく……。真に大切なのは、皆で協力し、助けあい、守っていくことなのです。大賢者様はそれを伝えるとともに、指輪の乱用を防いだのですよ。まことに賢明な判断であることです」
ふーむ、とイリスが考え込む様子を見せた。美しい曲線を描く顎に手を当て、肘を太ももに当てている。
たんに悪いものを懲らしめるだけならば、力があればいい。たんに人々を想うだけならば頭があればいい。その二つを同時に併せ持つからこそ、彼は伝説となり、後世に語り継がれているのだ。街を救った英雄として。
どうして人はここまで能力の差があるのだろう。それはきっと、女神の微笑みを受けた者だけが知っているのだ。
「いい話しねえ……。ますます会ってみたくなったわ」
女神のように神秘的な美しさを備えたイリスがいった。
「会うって、誰にですか」
イリスはあきれたような表情を作った。
「決まっているじゃない、大賢者様よ。きっとどこかで不死の秘薬でも手に入れて、この俗世を眺めているに違いないわ。そんなことも考えられないような弱っちい脳味噌だったの?」
「……そうですかー」
ロートはのんびりといった。半ばあきらめている状態である。もう何度も経験して、慣れっこではあるのだが。
くくく、と笑う声がルイスから洩れた。好々爺の相好を崩し、腹を抱えている。
「――これは失礼、実に愉快だったもので……」
あっはっは! 会ってから初めての大声、もとからよく響くようにできている教会にルイスの声がさざめきわたる。
ロートとイリスは、顔を見合せて苦笑するほかなかった。