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喧嘩


「いやあ、ひじょうに助かった。この航海が成功したのは、ひとえに君たちのおかげといっても過言ではない。積み荷もすべて無事だったし、なにより船員たちがみな生きて戦いを凌ぐことができた。本当に感謝している」

 海上の強い日差しを満遍なく浴びて、顔を真っ黒に日焼けした船長が頭を下げた。これまで幾多の海を乗り越えてきた彼だったが、今回の海賊ほど手強い相手には遭遇したことがなかった。そして、イリスとロートほどに頼りがいのある用心棒に出会ったのも、初めてであった。

 いくら礼を言っても、いい足りないくらいである。船長の大きくがっしりした手には、ずっしりと重みを感じるほどの金貨が入っている。イリスの視線はしっかりそれを捕えているものの、さすがに手を伸ばすところまではしていない。

「ボーナスといってはなんだが、これはいくらかの餞別だ。ぜひ受け取ってほしい」

「そんな――悪いわ」

 と表面だけ取り繕っておきながら、イリスの右手は袋の端を握っており、余程のことがなければ離さないだろう。ロートがやれやれとため息交じりに呟いたのを聞き逃さず、思いっきり足を踏みつける。

 涙ながらに怨みがましい視線を送りつけるが、イリスの注意は右手にある報酬に向いており、気がつく様子は微塵もなかった。

 もう一つ、溜息。

「では、我々はそろそろ出発するので、ここらへんでお別れと行きましょう」

 船長が懐中時計を取り出し、時間を確認しながらいった。

 大海原を渡った船はアスマークの港の一角に寄せられ、押しては引いていく波の動きに律義に反応している。時々、きしみをたてて大きく揺れる姿は、流されては戻ってくる貝のようだった。

「それでは。またどこかで会いましょう。この広いフィールドの上で」

 埠頭に立ちながら、船からかけた橋を通って船室へと帰っていく船長の背中を見送る。もはや地面ではない木の板を踏みしめていく姿からは海の男としての威厳が漂っているように思えた。

 また海鳥の鳴く声と潮騒が聞こえる。浜の香りが肺にたまって、吐き出された。

「さて、到着したし。お金も貰った。次にすることは」

 ロートに視線を投げかける。ロートはにべもなく「さあ」と答えた。

 弟子の無愛想な態度に、後ろ頭をパコンと叩いてからイリスが続ける。

「当然、現地の食文化を知ることから始めるのよ。基本中の基本ね」

「ただ単に、食べ歩きがしたいだけでしょう」

 ロートの的確な突っ込みには、もう一回頭を叩くことによって返答する。再び小気味のよい音が響いた。

 立て続けに衝撃を負った後頭部をさすりながら、ロートはイリスを見上げた。

 ロートよりも頭一つ分は大きいイリスが何だ、とばかりに睨みかえしてくる。

「文句ある?」

 あると言ったら、海に放り込まれるかもしれない。いや、ほぼ確実にそうなるだろうと直感する。

 必死に岸へ泳ごうとするロートを、笑いながらボニタ・ソニオで狙い撃つイリスの楽しそうな表情が目に浮かぶ。その光景は、冷や汗とともに拭って消し去った。

「いえ、なにも」

「わかったならそれでよし」

 イリスは満足げにうんうんと数回うなずいて、露店のひしめく街並みに目を遣った。色とりどりのレンガで造られた何階建てにもなっている家の前で、売り子たちが特産品とおぼしきものを持って回っている。おそらくは漁師たちの娘なのだろう。

 よく日焼けした健康的な娘と、正反対に透き通るような肌を持った女の子が、呼び声を張り上げる。

 今まで気づかなかったが、心なしか食欲をそそられる美味しそうな香りがイリスの鼻孔をくすぐった。思わず、ふらりと歩き始める。

 なんだろうか。

 こうばしい、誘うようなにおいが食欲を刺激する。

「ああ――」

 それと同時に空腹が脳内を支配して、手当たりしだいにむさぼり食べたくなる衝動にかられる。幸か不幸か金はふんだんにあるし、わざわざ逆らうこともなさそうだ。

 石で造られた埠頭の先から、嗅覚を頼りにイメージ像を描き上げる。

「し、師匠?」

 少し濃いめの味で焼かれた新鮮なイカに、魚の燻製。ほかにも、貝類を踊り焼きにしたり、海藻を使ったスープだったり――。

「おーい……」

 流石は港町。海の幸が豊富なようだ。

 これは食べ応えがある。つばがとめどなく湧いてきて喉を潤した。ごくり、と飲み込む。

 イリスは期待に胸躍らせながら、ついに駆け出した。いくらでも進んでいける陸地は何と素晴らしいものであろうか。

 呆然と立ち尽くす弟子を尻目に早速、一番近くの店へ飛び込んでいった。


「あー美味しい!」

 両手に念願のイカ焼きと、ご当地名物のタコ墨ジュースを持って、イリスが実にうれしそうに踊りまわる。とは言っても今いるのは商店街の真っただ中であり、通り行く人々を避けながらではあるのだが。

 こぼれそうになるジュースをうまくコントロールして一滴もたらすことがない。縁のギリギリで黒いジュースが揺れる。こればかりは流石というしか無かった。

自分の師匠をつかず離れずの距離で追いながら、ロートは完全に赤の他人であろうとした。

 ただでさえ人目を引く容姿である超美人が、食べ物を手にしながらルンルンと回っていたら、誰でも注目してしまうに違いない。案の定、人だかりこそ出来ていなかったが最も目立っている存在ではあった。

 そんな人と関係があるとは思われたくない。ましてや弟子だなんて感づかれるのは最悪だ、とロートは内心考えていた。それでも師弟の悲しいところでイリスを見失うわけにもいかず、適当に間をとっているのだ。

 なんだか涙が出てきそうだ。

 そういうわけで、熱々のタコ焼きを食べながら、フードをかぶった少年が美女を追いかけるという、怪し過ぎる構図が出来上がっている。それでもロートに人々の視線がいかないのは、彼の位置取りのうまさと、それ以上にイリスが人目を引いているからに相違なかった。

 ざわざわと。まれに指をさして耳を寄せあう者もあったが、そんなことを気にしていたら生きていけない。

 華麗なステップで一回転を決めると、自然に拍手が沸き起こった。両手を高々と掲げて喝さいを浴びるイリスにロートは冷たい視線を送ったが、珍しモノ好きな群衆の喝さいにかき消されて届くことはなかった。

 身の厚いイカをかじりながら、スキップを交えてイリスが進む。あまりに気分がよかったので、前方不注意になっていた。

「いたっ」

 体格のいい大男にぶつかってしまった。質量差が大きすぎて跳ね返されたイリスが、腰をさすりながら起き上ろうとすると――こんな時でもジュースをこぼさないのは、もはや執念なのだろうか――大男がどすの利いた声で、

「おい、どこに目ぇつけて歩いてんだ、姉ちゃんよ」

 といった。

 あちこち擦り切れた汚らしい服に身を包み、顔には不精髭が雑草のように生えている。毛むくじゃらの腕には傷跡がいくつか付いており、人相は果てしなく悪かった。

 普通の人ならば睨まれただけで腰が抜けるか、悲鳴を上げるかしてしまうだろう。

「ちょっと、気をつけなさいよね」

 イリスが毛むくじゃらを睨みつけた。完全に悪いのはイリスなのだが、相手が悪そうな奴だと見ればなおさら謝る気はない。それどころか開き直る有様だった。

 大男はさらに大声を出して、イリスに詰め寄った。

「ああ!? ぶつかってきたのは手前ぇだろうが!」

 イリスが絡まれているのを後ろから眺めているロートに、動く様子はない。それどころか、何事だと集まり始めた野次馬に紛れて、ゆっくりタコ焼きを賞味している。

 これで落ち着いて食べられるというものだ。

「まあ、あんまり怒らせない方がいいとは思いますけどね」

 心の奥底で大男に警告を送るが、もちろん当の本人が知る術もなく。

「さっさと謝れ! そのほそい腕へし折るぞ!」

 むりむり、と思いながら一口ほおばる。サクッとした食感は、何度味わっても飽きなかった。

 イリスは目つきを変えて立ち上がると、お男に負けじときつい口調でなじった。

「何言ってんのよ! ぶつかってきたのはあんたでしょうが。そっちこそ早く謝った方が身のためだと思うけど」

 挑発する意味合いも含めて、大男の目をじっと見据える。男の瞳は怒りで燃え上がっていた。

 唾が飛びそうな勢いで大男が怒声を発した。

「なんだとぉお!」

 それが逆に、自分に冷静さを与えたのだろう。

 急にイリスをまじまじと見つめると、いやらしい笑みを浮かべる。その表情を見て、イリスは吐き気がした。

「よく見れば、いい体してるじゃねえか。ええ? 今なら、一晩くらいで許してやるぜ。げへへへ」

 もぐもぐと口を動かしながらロートはその様子を観戦する。

 小さい子供も見ているだろうに、と思った。

 それよりも――。

「調子乗ってんじゃないわよ! 誰があんたなんかに」

 その後を言うのは気が引けたのだろう。ロートは少しだけ嬉しくなった。

「そんなことになるくらいだったら、大嵐の日に寒中水泳する方がましね」

 よくわからない喩えだったが、それでも大男は多少なりともプライドを傷つけられたようで、

「んだと、このあまぁ! ちょっと優しくしたらつけ上がりやがって――」

 さらに激昂した。

 それを見逃すイリスではない。他人の弱点を見切るのでは超一流である。その弱点を正確に攻めるのもまた、徳意中の得意であった。

「るっさいわねえ。この不細工顔が。どうせ彼女いない歴がそのまま人生の長さなんでしょ?」

 精一杯の皮肉をこめて、イリスが見下したような態度をとる。

 見事に図星なのと、大男の容姿では反論できないのとが重なって、怒りにつながった。もはや冷静な思考は失われ、目の前の女を殴るということしか考えられなくなる。

「この……この……」

 言葉もろくに発することができない。

 そんな大男の様子を見てもイリスは動じることなく、さらに相手を怒らせようとするかのような素振りを見せる。

「あーあ」

 これは乱闘になるな、と呑気に予想する。誰の目から見ても、大男が殴りかかるのは時間の問題であった。

 鼻の穴が広がって、呼吸も荒くなっている。眼は見開かれ、かすかに充血していた。握りしめられた両拳はプルプルと震えて、手の平に爪が食い込んでいる。

「かわいそうに……」

 完全に他人事で、一分の同情心も見受けられない。

 まあ、運が悪かったのだろう。それくらいの気持ちだ。

「何かいいたいことがあるのなら、ちゃんといいなさいよ。この、イノシシ男」

 それが決め手だった。顔を真っ赤にして、大きくごつい手でイリスの端正な顔面を捕えようとする。イリスは軽くしゃがんで大男のパンチをかわすと、ジュースを一気に飲み干して、イカを空中に投げ上げた。

 一撃目を外したと悟った大男は、今度は蹴りを入れようとする。

「うおらぁ!」

 豪快な掛け声と違わずモーションの大きいキックが繰り出されて、イリスの腹に食い込んだ――ように見えたのもつかの間、大男の足はイリスの脇に抱えられていた。

 大男が反動をつけている間に上体をそらし、直撃を免れると同時に攻勢に転じたのだ。

「なっ」

 自分の太い脚が華奢な腕に挟み込まれ、動かせなくなってことに驚愕する。次の瞬間、もう片方の足を払われて体勢を崩した。頭から思いっきり硬い地面に激突する。

「いたそう……」

 今度は同情心が沸き上がるような顔の歪み方だった。これもまた、子供の教育にはよくなさそうだ。

 イリスは放り投げておいたイカ焼きを掴み取ると、大男の鼻先に突きつけた。串の尖った先端が、鼻の頭に触れるか触れないかという絶妙な距離で寸止めし、告げる。

「あんたが悪かったんでしょ?」

「ば、ばい……」

 圧倒的な実力差を見せつけられて、大男は萎縮した。鼻血がでて、うまく喋れないようだ。

 痛めた鼻の頭を押さえながらうつむく。それでも血は止まらなくて、どくどくと流れ続けていた。ぼろきれのような服に点々と赤いしみができる。

「わかったならよし。あたしの前からすぐに消えなさい」

 屈辱的なセリフに再び怒りを伴った瞳で睨みかえすが、すぐにしゅんとなってふらつく足取りで歩き始めた。二人の乱闘劇を取り囲むようにして見守っていた人々が自然と道を作り、そこをとぼとぼと情けない格好で去っていく。

 ロートはちょうど最後のタコ焼きを食べ終えて、満足だった。


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