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 ロートの開けた扉からは通路が一本のびていた。その先で、十字のように交差している。十字路のさらに向こう側にただならぬ雰囲気を感じさせる指輪が安置されていた。

 台座の上に、ぽつんと置かれている。

「あれ……?」

 ロートが三本の通路を眺めながらいった。

「これってもしかして」

「なんの考えもなしに、あたしがあんたに任せると思ったの。どれを選んでも失敗はないだろうから、ロートにやらせたの。せかしたのは事実だけどね」

「どうしてわかったんですか。全部が正解だって」

「最初の扉に書いてあったでしょ。汝の正しいと思う道を選べって。それで外れたらあたしは地獄まで行って文句をいうつもりだったわよ。まあ、この街のことは見放すことになるけど」

「ずいぶん危ない賭けじゃないですか」

「あたしの勘に狂いはないわ。ギャンブルじゃ負けなしよ」

 そういえば以前、生活費を稼ぐためにかなりギャンブルをしまくった経験がある。その時のイリスは、イカサマで勝ち続けていた覚えがあるが……。

 ロートはきらきらと輝く指輪の方へ向き直った。ローブを深くかぶり、イリスにいう。

「クライマックスですね。ここまで来たら、もう引き返せませんよ」

「いわれなくても分かってるわよ。あんたこそ、逃げるなら今のうちよ」

「今さらどこへ逃げろっていうんですか。僕に帰る場所はありませんから」

「そうね。あたしがいなくちゃ何もできない赤ん坊だから、ロートは」

 これ以上は話していても無駄だと早々に悟ると、ロートは勝手に歩き出した。すぐさまイリスが追い付き、我先にと指輪のもとへ駆け寄る。

 イリスの指にぴったりとはまる大きさの指輪だった。リング全体が透き通った浅瀬のような宝石で造られている。上半分だけが台のそとに出ており、思わず手に取りたくなるような素朴な美しさを持ち合わせていた。

 うっとりと感激の溜息を洩らす。

「こんなものを追い求めていたのよ……。旅人の醍醐味ね。別のいい方をすると、果てないロマンだわ」

「なにをぶつぶつと独り言を」

「ああー、いつまでも眺めていたい」

 目がとろけている。こりゃだめだ。

 夢の世界へ旅立っているイリスの頬をつねってみても、おそらく大丈夫だろう。それより過激なことをしても、ばれない自信がある。

 要するに、ほとんど意識がないということだ。

「さっさとそれを使って下さいよ。早くしないとアスマークが――」

 突如、ロートとイリスのまわりの景色が変わった。まるで、その場所だけ別の空間に転移してしまったかのように。

 あたり一面は海。空には漆黒の雷雲が立ちこめ、せわしなく落雷が海面を叩いている。

 巨大な男が――ホアジーをほうふつとさせる――、渦潮の中心に君臨していた。とにかく怒り狂っている。両拳を力任せに振りまわし、その度に天まで届こうかという水柱がせり立つ。

「――これは……」

 ロートが息をのんだ。

 イリスは周りの様子もお構いなしで、一心不乱に海神の指輪を見つめている。魅力あふれるお宝以外は、眼中にない。凄まじい集中力だ。

 目の前に宝石を吊り下げられたら、たとえ罠だと知っていても突撃するだろう。そんな気迫があった。

 荒くれた神がどこに怒りをぶつけるとも知らず、吠えた。

 たちまちその周囲に、街一つくらいは軽がる飲み込めそうな津波が発生する。

「これが、ポセイドン……」

 一刻も早く、封印しなくては。強烈な使命感が、ロートの体を支配した。

「師匠!」

 イリスに、叫ぶ。その声と呼応するように、青い指輪が輝きはじめた。

 さすがのイリスも、これには驚いた。ぽかんと口を開いて、その行方を見守る。

 指輪はくるくると回転すると導かれるようにしてイリスの細い指にはまり込んだ。まるでイリスのために作られたかのような、完璧な大きさだった。

「持ち主を選ぶってことかしらね……」

 指輪のはまった右手の薬指から、意志のような力が体を上ってくるのがわかった。その波は腕を伝い、心臓に届き、全身をめぐる。

 イリスの頭の中で誰かが話しかける。

「汝は指輪の主に選ばれた。この力、正しい方向へ導くがいい」

 賢者の想いだろうか、と直感する。

 なすべきことが映像となってなだれ込む。イリスは右手を高々と掲げると、叫んだ。

 アスマークに襲いかかる津波を打ち消すように、大海を超えた場所に届くように、ポセイドンを手中に封印するように。

「この指輪に集え。己が暴挙、一手に収めん」

 ビジョンからポセイドンの姿が消えた。それと同時に、イリスの指輪の中で激しい力と力のぶつかり合いが起こる。まるで戦争だ。イリスは全神経を指輪にむけている。額には汗がうっすらと浮かび、鼻筋を流れていった。

 ロートはただイリスのことを見ているしことしかしない。彼は信頼しているのだ。自分の師匠を。イリスの力を。むしろイリスが負ける姿を想像するほうが難しい。

 それくらい自信があった。

 指輪を中心にして空気のうずが形成され、竜巻のように吹き荒れる。ロートは風にフードが飛ばされないように押さえながら、徐々にその威力が弱まっていくのを感じていた。

「…………」

 無言の戦いが続く。

 しかし、やがてポセイドンも力尽きた。暴れ狂っていた指輪のなかに取り込まれていく。

 怒れる海神を封印し、イリスの指で光り輝く指輪はさらに透明度を増したようだった。最初の海のような、混ざり気のない美しさをまとっている。

 ロートが静かに話しかけた。

「終わったみたいですね。無事でなによりです」

 その瞬間、イリスは糸が切れたように膝をついた。ため込んでいた息をぜいぜいとはきだす。

 顔色は明るかった。

「あんたも見てないでちょっとは手伝いなさいよね。ボーっとしちゃって」

「僕だって心の中で応援していましたよ。届かなかったみたいですけどね」

「どんなに必死な願いも相手に伝わらなきゃ意味がないでしょうが。せめて声に出しなさい、声に」

「じゃあ、頑張ってください」

 棒読みのセリフ。イリスは左手でロートの頭をパコンと叩いた。ロートは大げさに頭を押さえてみせるが、口元は笑っていた。

 イリスがいう。

「ロート……あんたそんな趣味があったのね」

「趣味?」

「殴られて笑っているなんて……」

「そんな変な性格はしていません」

 ポセイドンを封印して気が緩んでいたためか、ロートの声は本人が思っているよりも大きくなってしまっていた。ロートの頭に、天井からこぼれおちた小さな石がパラパラとぶつかる。

 視線を上に向ける。真一文字に亀裂が入り、今にも崩れ落ちようとしていた。

「あ……」

「ばか、何やってんのよ」

 いうが早いかイリスが出口に向かって駆け出す。一度通った道のことは忘れない。地図を広げるまでもなかった。

 ロートは、なんとかイリスに追い付きながらいいかえす。

「こういう宝は、本体を取ったらダンジョンが壊れるようにできているんですよ」

「どうして街を救った英雄が死にかけなきゃいけないのよ。活躍したらもう用済みってこと」

 誰にいうでもなく、イリスが中空に問う。

 返事はない。

 だが、答えは完成したばかりの蒼い指輪から出された。

 イリスの右手が白い光に包まれ、横を並走していたロートの体をも巻き込む。視界は一面真っ白だ。一点のシミも、影も見えない。光だけに覆われている。

「これは」

「たぶん、この指輪の力みたいね。使えない弟子なんかよりもよっぽど便利だわ。あたしが目をつけていたお宝なだけあるわね、もう大好き」

 目からハートマークが飛び出そうな勢いだ。

 ロートは白い空間の中で、気苦労をのせた溜息をついた。恋は盲目、ということか。せめて対象は人間にしてほしかったが。

 世界の始まりのような純粋な場所が真っ青に染まった。海に飛び込んだ時のように気泡が浮かんでは消えていく。どうやら海中にいるらしかった。

 視覚と聴覚だけが分離し、魚のように自由に泳ぎ回る。潮の流れるさまを眺め、銀色にきらめく小魚の群れを突っ切る。頭上を見れば、大きな木の船底がある。

 太陽の光は充分に海底まで満ち渡り、つもった砂の中に埋もれるいくつもの貝殻をさらけだす。その一つひとつに物語があり、命があった。

 ヒトデが小さな貝を食べようと、じりじり移動する。食物連鎖のより底辺にいる生き物は、必死に後ろ向きで逃げ出した。広大な海の、命をかけた微小な戦い。

 ロートはどんな宝石よりも滑らかに輝きを放ち、躍動する光景に見とれていた。

 命あるものと、無いもの。

 それぞれに価値があって、失えば二度とは戻ってこない。

 だからこそ一度きりの姿を精一杯、残そうとする。

「師匠……見たらどうですか? すごく綺麗で神秘的ですよ」

「あたしはこっちの方が好きなの。好みの違いに口を出さない」

 イリスは指輪を撫でまわしている。重なった指の隙間から洩れていた光が細い線へとかわり、収束した。

 それに伴って、海の中にいた球体は猛スピードでアスマークの空を横切り、小高い丘へと降り立った。


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