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迷宮


 イリスが、海神ポセイドンと賢者の対決をかたどった、教会の木扉を押すとそこには既にあたふたした様子で杖を捜している老人の姿があった。昼間と変わらない、白い服と黒い服の重ね着だ。

 ゆるやかな坂でつながっている小さな壇上に立ち、小さな白い杖をついている。これは寝室との間を行き来するためのもので、外出する時などはイリスらがあった時に使っていた黒い杖の方を使う。

 長い時間、出歩くには長い方がいろいろと便利なのだ。

 短い杖を持ったまま、ヘアンが目を見開く。

「あなたは昼間の――イリスさん、とヘアンではないですか。どうしたんです、こんな時間に――というより、いったい何が起こっているのですか、この騒ぎは。なんだか喧嘩のように聞こえますが」

「まあ、簡単にいえば喧嘩です。それで、あなたにとめてもらおうと思って」

 イリスは綺麗な曲線を描く肩をすくめた。透けるように白い手で、やれやれというジェスチャーをつくる。

 ぐずるような声が聞こえて、イリスが隣を見下ろすとヘアンが濡れたまつげを手の甲で拭っていた。

「私のせいで……こんなことになってしまって……司祭様、お願いします。ロートを助けて下さい」

 ルイスが、おやという表情で首をかしげた。そして、眉間にしわを寄せる。

「――そういうことですか。ならば、私が行きましょう。彼が巻き込まれているのなら、一刻も早く救い出さなければなりませんからな」

 察しのよい老人だ。

 ルイスはあたりをきょろきょろと見回した。イリスは素早く目的のモノを探し出すと、皮膚の硬くなったルイスに渡した。温厚な司祭は柔和な顔をした。

「おお、それです、それです。これで外に出られます――」

 ルイスのよく通る声を打ち破って、教会の扉が壊れそうな勢いで開かれた。最初に飛び込んできたのは、明らかに自分の力だけで動いているのではない少年。

 その後ろからなだれ込むようにして男たちの大群が押し寄せる。

 まるで城に攻め込むかのような、薄暗い教会の中にこだまする雄たけび。その威勢に気圧されて、ルイスとヘアンが後ろに倒れこみ尻餅をついた。その拍子に、鈍い音がなる。

 ヘアンが床に座り込んだまま、小さなしゃくりを上げた。

「ロート、あんた何やってんの! あとちょっとなのに」

 堪えきれなかったということだ。

 イリスと遭遇した時には油断していたこともあって瞬殺されたホアジー山賊団の頭領であったが、その実力は本物だった。

 高みの見物をやめて戦闘の輪に入るなり、ロートの裾を軽々と捕まえて投げ飛ばしたのだ。その馬力は尋常なものではない。

 ロートは激しくせき込んで、イリスに顔を向けた。

「あんな怪力、反則ですって! 第一、掴まれたら何もできません!」

 リーチの差がある。持ちあげられてしまったら、いくらもがこうと届かないものは届かない。

 イリスが叫び返す。

「だったら掴まれないようにすればいいじゃない!」

 単純明快な理論である。

 それができれば苦労しない。

 ロートは、この人には何を言っても無駄だと、既に悟りきっていたはずのことを思い出して。疲労がどっと湧いてくるのを感じた。

「ちょっと、ロート聞いてるの?」

「わかりました。僕が悪かったです。逃げ切れなかった僕が悪いんです」

 棒読み口調。しかし、そんなことをかまっていられる状況ではなかった。

 暴力の塊と化した野獣たちが手当たり次第に蹴飛ばし、放り投げ、目に入るものなら何でも壊してやろうとしているのだ。

 今まで幾人もの街人が座ってルイスの言葉を賜ってきた長椅子が無残に転がり、中には亀裂の入っているものも見受けられる。ロートはすぐさま立ち上がって、自分の方へ気を引こうとした。

 十人ほどが標的を変え、その魔手を休める。

 だが、残りの半数ほどはロートの相手を仲間に任せて教会内を暴れ回っている。

「ちょっとあんた達、いい加減にしなさいよ」

 イリスは泣きじゃくるヘアンと、腰が抜けて動けないルイスを安全な隅っこに寄せると般若のような形相ですごんだ。美人なほど怒ると怖いものがある。

 ロートが、色のついた窓ガラスを割ろうとしていた一人に飛びかかる。

 その手には漆黒の刃が握られていた。

 インフィニト・ノイテが背中に届くとともに、膝をつく山賊。もう、人目を気にしていられるというレベルではない。自分だけに危害が及ぶのならまだいい。

 いまや教会が壊されかけているのだ。手を抜いてはいられない。

「ああ!」

 ルイスが悲鳴のような、鋭い叫びをあげた。

 動かない体で、懸命に手を伸ばそうとする。しわだらけの手が必死に止めようとする先には、拳を高々と掲げて高笑いを上げるホアジーの、残酷なまでに無知な姿があった。

 どんなに声を張り上げようと、届かない指を伸ばそうと、変わらない最悪の未来。

「やめろぉぉぉ!」

 老体から絞るようにして出される、悲痛な想い。

 それでもホアジーの拳は無残にも「戒めの鏡」を――アスマークの宝物を――粉々に砕いて。すべての光を反射し、世界を映し出していた鏡の破片が無機質な音をたてて床に散らばった。宝石のようにきらきらと輝きを放つ。

 ルイスの腕が力なくうなだれて。がっくりと首をたらす。

 病的なまでに悪くなった顔色。何かに脅えるように、頭の上からつま先まで震えている。

 ぱくぱくと機械的に開閉される口からは、呪文のような呟きが漏れていた。

「――復活する。ポセイドンが復活する……」

「し、司祭様……?」

あまりに異常なルイスの様子。心配したヘアンが、おそるおそる声をかけた。驚きで、涙も止まっていた。

 限界にまで見開かれた目が、金髪の少女を見遣る。

 ルイスは、はっとしたように首を横に振ると、ヘアンの細い肩をつかんだ。

「今すぐ逃げなさい。なるべく高い所に避難しなければいけない。もうすぐ、この街は巨大な津波に襲われるだろう、それまでにみんなに知らせないと……ヘアン、行ってくれますか?」

「え……」

 あまりに急な要請で、返事ができなかった。ルイスが冗談を言っているわけではないのは、よく分かっている。大津波がアスマークに来るなどという光景も、同じくらいに信じられなかった。

 別段地震があったわけでもない。たかだか鏡が一枚割られただけなのだ。

 海神ポセイドンという存在はヘアンには遠すぎて。その実態が何であるのか、理解しがたかった。

 肩にかかる手に、力が入る。指が食い込んで、少し痛む。

「そんな、私にはできません――。イリスさんに頼んだ方が……」

「時間がないんです。はやくしないと、大変なことに――」

「おいおい、何をほざいてるんだ爺さんよ。こんな鏡の一枚や二枚、割れた所で関係ねえだろ? どうせ金をがっぽり巻き上げてんだから、買いなおせばいいじゃねえか」

 イリスの威嚇をもろともせず、酒の力も手伝って傲慢になっているホアジーが下卑た笑いを向ける。

 逆恨みというのか、少々怒っているようだ。

 絨毯のように広がる破片を踏みつけ、さらに細かく砕く。

「そうだろう? し、さ、い、さま」

「黙りなさい」

 イリスはホアジーの前につかつかと歩み寄ると、声を荒げた。

 アスマークに来た理由、それは海神の指輪を探すためだ。そして見つけた宝物が、目の前にいる男によって失われてしまった。頭に血がのぼっているのも仕方無い。

 昼間の戦闘を思い出して、ホアジーのなかに屈辱の感情がふつふつと沸きあがっていた。

「だまれだぁ? てめえ、ちょっと油断してたからって調子に乗ってると――」

 唐突に、立っていられないような、平衡感覚を失ってしまうような揺れが地面から伝わってきた。教会の中にいる全員が、姿勢を崩して床に手をつく。

 ルイスの言っていた災害が、現実のものとなりつつあるのだ。

「ああ、ついに始まってしまったか……」

 ルイスは頭を抱えて涙を流している。生気のない肌に、しおからい雫が伝っていった。

「ポセイドンがよみがえろうとしている。私達はもう駄目かもしれない――」

 地揺れが収まった。それと同時にロートとイリスが、

「一体どうなってるんですか? この揺れは普通じゃありません」

「どうにか防げる方法はないの――海神の指輪はまだ使われてないんでしょう? なら、それを使えばいいじゃない」

 と、矢継ぎ早に問いかけた。

 未だに状況を受け入れられていないヘアンは、板挟みにあってただただ顔を見上げるばかりである。

「そういえばそうですね――。それなら可能性があると思います。ルイスさん、あなたなら知っているでしょう、海神の指輪がどこにあるのかを。アスマークを救うためには、誰かがそれを使わなければいけないんです」

「あることには、ある」

 ルイスが苦しそうにうめいた。

「あるなら、早く使わないと」

「だが――そこにたどり着くまでには、つらい道を通らなければならない。文字どおり、イバラの道だ。今の私に、海神の指輪を手にするだけの力はないのですよ……。私の足さえ大丈夫なら、今すぐにでも行くのですが」

 ルイスがかみしめた唇は色を失っている。

 イリスは悔しそうにうつむくルイスに視線を合わせた。

「だったら、あたしたちが行く」

 一瞬、目に希望が宿ったがそれはすぐにくすんでいった。

「そんなことはできません。一介の旅人であるあなた達は偶然この街を通りかかっただけです。もしかしたら命を落とすような、そんな危険な場所に行かせるわけにはいかないのです。今ならまだ間に合います、すぐにアスマークを離れて下さい」

 ルイスは一気にまくし立てた。

 また地震が起こる。今度のは先程よりも大きい揺れだ。

 ホアジーの態度が風船のようにしぼんで、いくらか上目遣いになっている。おぼろげながら、自分の犯したことの重大さに気付いたようだ。

 子分の者たちも気まずそうにしている。

 教会の外から、近づいてくる人声が聞こえた。だいぶ大人数のようだ。ほとんどは男の声で、がやがやと議論している。滅多に起きない地揺れがあったのと、ロートやホアジー山賊団が教会の方へ向かったのもあって、皆でまとまって訪ねてきたのだ。

 室内の惨事の当事者たちはホアジーと同じように、言い逃れできない、調子に乗り過ぎた暴挙に出てしまったことに気が気でない。所在なさげに頭領の情けない顔を見つめ、口をあけるばかりである。

「司祭様、大丈夫か!?」

 数人の、よく日に焼けた褐色の肌を持つ男が心配そうな大声をだしながら扉を開けた。空気の流れが通って、割れた窓から風が吹き込む。

 外から、炎の明かりが差し込んだ。そして、空白になった窓枠から新たに中を覗き込む顔が増えた。

 教会に入った漁師たちは、床にへたれこんでいる山賊とルイスに目をやると、急いで駆け寄った。

 それと同時に、外にいる仲間へ声をかける。

「おい、ちょっと来てくれ――!」

「司祭様――にヘアンじゃないか、何やってるんだこんな時間に」

 もう夜も深み、子供が出歩くような時間ではない。ヘアンはただふるえながら海の方角を指さすだけだった。

 男が首をかしげる。

「あたしたちに、やらせて」

 イリスが繰り返した。

 男はイリスの、女神に愛されたとしか言いようのない端正な横顔を見ると、

「あんた、昼間の。大立ち回りしてたべっぴんさんか。まったく、一体どうなっていやがるってんだ」

 男が頭を抱える。

 壊された教会に起こるはずのない地震。畏怖する司祭に震える少女。どうすることもできないならず者に、フードをかぶった少年と絶世の美女。

 役者はそろい過ぎていて。まるで事象の方から引き寄せられているかのよう。

「時間がないんです。教えて下さい、海神の指輪までの道のりを」

「海神の指輪だって?」

 男が反応した。

「ここには戒めの鏡があるだろ――おあっ!?」

 本来あるはずの、シンボル的な鏡は跡形もなく砕け散っていて。残っているのは、虚ろなホアジーのみだ。

「い、いったい何があったんだ! 司祭様、説明してくれるか?」

 男の動揺が、一気に加熱した。

 しかし、ルイスはもうイリスの方しか見ていなかった。イリスの紫色の瞳が、どれほど頼もしげに感じたことか。長い時間をかけて築いてきた絆よりも、たった一人の旅人の方が絶対的な存在に思える。天才、とでもいえばいいのだろうか。人並み外れたモノを持っている人は確かにいたのだ。

 心の中でせめぎ合う希望と良心とが、ルイスの決断を遅らせていた。

 ロートがイリスの横から口を出す。

「もう時間がないんでしょう。それに、僕らが行っている間に他の人たちは避難ができる。僕らが居なくなって悲しむ人はいませんけど、この街の誰が欠けても悲しみは生まれてしまうんです。僕も、誰かが泣くような顔は見たくない」

 真剣に語るロートにヘアンは何も言うことができなかった。

 金髪の陰で弾力のある肌をやさしい涙が伝っていく。言葉で表すよりも、物悲しい想い。

「それは私も同じだ、だが、私は君たちがいなくなるのも見たくはない」

「でも誰かが行かなきゃいけないんです。動かなくちゃ、人は救えない。ルイスさんだってそうしてきたんでしょう」

 イリスはロートを手で遮ると喉元まで出かかった言葉を引き継いだ。

「それはあなたが一番分かっているわよね」

 もういいでしょう? これはもう決まってしまったことなのだもの。

「あたしたちが街を救う。最も似合ってる二人だと思わない?」

 強引な説得。

 ルイスは重たい口調で、ため息交じりにいった。

「……頼みます」

「よし、了解!」

 イリスが胸をバンと叩いた。顔には笑みさえ浮かんでいる。心の底からにじみ出てきた自信はどんな不安さえも打ち消していた。限りある経験から作り出された底なしの確信は、信頼という形になって映し出されるのだ。

「で、さっそく情報をちょうだい。何事も知ることから始まるわ」

「わかった」

 ルイスは心を決したようで小さなふみづくえを指差した。もう、後戻りはできない。足を止めたら待っているのは暗闇だ。

「あの中に賢者様の言い伝えが詳細に記されています。中身は暗記してありますが、地図も書いてあるのであった方がいいでしょう」

 男が気を利かせて、筒状になった巻物を取り出してきた。青い生地に波のような模様がいくつも描かれている。

 くるくると広げると中央に、海の中で暴れる巨人の絵があった。これがポセイドンなのだろう。どこかしらホアジーに似ている。

 両手を広げたほどに延ばされた巻物の最後の部分に、迷路のように入り組んだ地図が載っていた。地図なしで挑めば、迷子は必至だ。それに、通路の所々になにやら記号のようなものがかきこんであって、より難解な地図になっていた。

「これです。これが、海神の指輪までの道のりになっています。賢者様が万が一という時のために残していったものなのですが――こんなことになってしまうとは」

「なるほど。じゃあ、ありがたく頂いていくわね」

 といって、イリスはロートに巻物を渡した。ロートは一心に内容を読み始める。

「入口は祭壇の裏にあります。そこから歩いてどのくらいかかるか分りませんが……地下迷宮を進んでいけば、海神の指輪があるはずです。それを使えば、ポセイドンの復活を防ぐことができるでしょう。まだ封印が解けきれていないせいか、まだまだ動きは緩慢のようですからな。こうなれば、時間との勝負になります。ヘアン、外にいる人からたいまつをもらってきてくれるかな?」

 ヘアンはこぼれた涙を袖でごしごしぬぐうと、わき目も振らずに駆け足で出ていった。その間も、ロートは書面から目をそらさない。

「なにしろ下は光が差し込みませんから。不便なものです」

 街には街灯はあるが、いまだに携行する光源はたいまつだ。せめて火ではない何かを使えるといいのだが。

「今は夜だし、あんまり関係ないわよ。それで、入口はどこなの?」

 イリスが大理石でつくられた祭壇の裏を覗き込みながらいった。どこにも地下へつながる階段のようなものはない。

「床にへこみのような部分があるのですが、わかりますか?」

 規則ただしく並んだ木の板の中に、指が一本入るかどうかという大きさの穴があった。イリスの細い指をかけ、引っ張り上げると塵埃が舞った。どうやら久しく使われていなかったらしい。

「最近はからだが弱ってろくに整備が行えませんでして――クモの巣でも張っているかもしれませんな」

 教会の中が薄暗いせいもあって、イリスは階段の最深部まで見られなかった。ヘアンが戻ってくるのを待って、暗闇にたいまつをかざす。

 ルイスのいうとおり、入口の付近にはいくつかのクモの巣が張ってあった。

 急勾配の階段に気をつけながら、地下へ下りていく。


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