【7滴】相手と自分それだけ
その巨体の重量を表すように一歩一歩と踏み出す度に揺れる地面。同時に大きな一歩が踏み出される度、オークは着実に優也へと近づいていた。
だが優也まであと数歩というところで怒り混じりの大声が割り込む。
「おい!俺のに勝手に触んじゃねーぞ!」
優也がオークと共にその怒声の方へ顔を向けると、凹み崩れた壁の前には無傷のノアが立っていた。
するとノアの姿を見たオークは嘲笑を浮かべると優也の目の前まで一気に跳躍。そして透かさず右手に持った手斧を振り上げ、力任せに振り下ろした。それに対し優也は本能的に両手で身を守り、目を強く瞑りながら顔を逸らす。
しかし振り下ろされたはずの斧はいつまでたっても襲ってこない。その時、頭では疑問と同時に犬族に襲われそうになった時のことを思い出していた。
そして恐々と両手を下げ目を開けながら正面に見遣ると、いつの間にかオークは飛ばされておりそこにはノアの後姿があった。
一方、飛ばされたオークは壁へ背中から激突し、そのままずり落ちると地面にお尻で着地。その際、彼が屈強な戦士なのかそれともオークという種族は痛みの感覚が鈍いのか、一切痛みに顔を歪めることはなった。
だが平然とした様子のオークが右腕へ視線を運んでみると、そこにはあったはずの二の腕が途中から下が無くなっており、腕に回るはずだった鮮血が地面へ血だまりを作っていた。
そんなオークを混乱しながら見ていた優也は眼前に垂れた血に気が付いた。その血を辿りゆっくりと視線を上げていくと、ノアの肩にはまだ手斧を握ったオークの腕が担がれていた。
血にも生々しい肉にも耐性の低い優也は、その光景に思わず情けない声を上げ後ろに後ずさる。
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そんな優也に気が付きもしないノアは真っすぐオークを見ていた。
そして二人の目が合った瞬間、担いでいた腕を投げつけた。腕は握られた手斧と共に不規則に回転しながら空を切りオークの顔の真横に突き刺さる。
だがオークは微動だにせずノアを見続けていた。
「わざわざお守りまでしてるってごどはよほどゾイヅが大事らしいな。ぜっかくでぎた兵隊は失いだくないか?」
「コイツが兵隊?兵隊作んならもっとつえーヤツを勧誘するぜ。せめて自分の身は自分で守れるヤツをな」
「ならゾイヅはなんだ?いや、今どなっではなんでもいい。ごごで俺がおめぇをだおしておしめーだ」
オークは真横の手斧から腕を剥がすと手斧だけを取り、立ち上がりながら言った。
そして時が止まったかのような睨み合いが数秒間、先にオークが先に走り出す。大きな歩幅で一気に近づくと手斧をノアの頭上目掛けて振り下ろした。
それをノアは斜めに跳躍し躱す。標的を真っ二つにできなかった手斧が地面に作った亀裂は少し後ろで腰を抜かす優也の股下まで伸びた。
一方、手斧を躱したノアは近くの壁を経由しオークの顔前まで跳んだ。そして左足で脳まで届きそうな衝撃を頬に与え、続けて右足で顎を蹴り上げる。蹴り上げた後は勢いそのまま後ろに宙返りをして着地。
オークは顔に二発の蹴りを喰らい少し怯みつつもすぐさま手斧で反撃を開始した。手斧は上半身と下半身を切り分けようと空気をも切り裂く勢いでノアへ襲い掛かるが、その場でしゃがみ躱されてしまう。その刃が餌食にできたのは逃げ遅れた毛先数本だけ。
だが毛先に悲しむことはなく――というよりは気が付きもしてないノアは手斧を躱した後、姿勢そのまま足払いをしオークを転ばせた。体格差も重量差も歴然としているはずのノアにいとも簡単に転ばされたオークは、まるで初めて魔法を目にした人間のような表情を浮かべていた。
だが現実にポーズ機能はなく起きた事実に思考が捕まっている間にも時間は進む。オークを転ばせたノアは大きく跳躍すると、手を貫手のように構え心臓へと狙いを定めながら落ちてきた。重力の助けも借りつける勢い。
一方、何とかリアルタイムに思考が追い付いたのかオークは手斧を胸の前で構え間一髪防ぐ。なんとか胸に穴を空けずにすんだ。
そしてそのまま鍔迫り合いのようになったノアを押し返し、後転しながら態勢を立て直す。片膝を地面につけたオークは自分が始めに飛ばされた壁を背負っていた。
すると、オークはなぜか手斧を地面に突き刺す。
「思っだよりもやるな。だげど、しょぜんおめぇは過去の一族。吸血鬼が最強だっだのも昔の話だ。ぞれに加え、のごる吸血鬼はおめぇだげ。おめぇらの時代はもう終わっだんだよ!」
状況だけ見れば押されているのはオーク。だが秘策でもあるのかは定かではないが、随分と強気だった。
そんなオークは落ちていた自分の腕(最初に無くした右腕)を掴むとノアに向けノーモーションで投げ飛ばした。その直後に手斧を地面から抜き走り出す。
だがノアは腕を組み避けようともせず動かない。
そして真っすぐ飛んで来た大きな腕が当たる寸前になると片手で弾き返した。しかし弾き返された腕など関係なしにそれごと陰のノアを真っ二つにしようと手斧が振り下ろされる。
分厚い腕を気持ちよく切った手斧は勢いそのまま振り下ろされていくが、直撃とはいかずノアの袖を掠め地面に食い込んだ。そのギリギリの攻撃に対しても全く動じていないノアは、オークの目を見据えながら腰辺りの高さにある峰にそっと右手を乗せた。オークはそれを目にし手斧を引き抜こうとするがどれだけ力を入れてもビクともしない。それはまるで手斧が地面と一体化しているのではないかと思わせるほどだった。
「全く、どいつもコイツも...」
溜息交じりの声で呟きながら視線は逸らさず手は乗せたままオークに向かって歩き出すノア。
「過去の一族だの、落ちた一族だの。色々言ってくれるじゃねーか。まぁでも、時代は変わり吸血鬼がやられたのは事実だ。何を言っても構わねー」
右手が刃を過ぎると手斧を押さえたまま左手で柄を掴むオークの手首を軽く握った。そして徐々に力を入れていく。それと同時にノアの心に感情の炎が灯り始めた。
「それに、元々落ちるようなところに居ない雑魚のお前らがいくら煽り文句を言ったとこで何とも思わねーよ。所詮は負け犬の遠吠えだ」
そう話すノアの表情には笑みが浮かんでいたが、笑みは笑みでも相手を見下ろす嘲笑。
そして手首を握る力が更に強まると爪が食い込み骨が軋み出す。あまりの痛みに耐えられなくなったオークが柄を離すと、同時にノアも手を離した。その後、オークの手が離れたことで持ち主の居なくなった手斧をノアは地面から軽々と引き抜き担ぎ上げる。
激しく燃え上がってはいないものの、触れるモノを焼き尽くす確かな熱さを備えた炎はゆらゆらと彼女の中で踊るように燃えていた。
「最後にひとつ言うとすれば...いくら時代が変わって吸血鬼がオークより劣ったとしても...」
手斧を両手で持ち真上へ跳んだ事でノアとオークとの目線は丁度同じ高さへ。互いの双眸は対等に見合っていた。
「俺がお前に負ける理由にはなんねーよ」
そう言って首目掛け手斧を振った。手斧はつっかえること無く綺麗な断面を作り頭部を胴体から切り離した。切られた直後一瞬、宙に浮いているようにも見えた首だったがすぐさま重力に引かれ地面へと落下。
そして頭より少し遅れて地面に降りたノアは、噴水の如く血を噴き出し倒れていく巨体を背に血の滴る手斧を担いだまま優也の元へと戻った。
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すっかり腰の抜けた優也の目の前で立ち止まったノアは見下ろしながら声をかけた。
「おーい。大丈夫かー?」
「精神的な衝撃が大きかったぐらい、かな……」
無理に浮かべた所為で笑みは愛想笑いのようになってしまっていた。それもそのはず、今の優也は目の前で起きた非現実を受け入れるだけで精一杯。更に言えばその所為で一歩も動いていないがすっかり疲れ切ってしまっていた。
「じゃあ大丈夫だな」
だがそんな優也の心情など分からないノアは軽くそう言うと肩から手斧を下ろし後ろに投げ捨てる。その際、刃に付いたオークの血が優也の頬へと跳ねた
「あっ。わりぃな」
「え?」
しかし優也はそれにすら気が付いていなかった。
そんな彼に教える為ノアはしゃがみ膝に腕を乗せながら頬を指差す。
「血ー。飛んじまった」
指差された場所を指で触りると指に付着する少しベットリとした生暖かい液体。その液体を彼は顔の前まで運び目視で確認した。
「うわっ!」
「驚きすぎだろ」
「だって...」
弱々しい声で呟くと色んなポケットを探りハンカチを探す。
そして見つけたハンカチを取り出しその血を拭き取ろうとした時、ノアが地面に片手を付けながら顔を近づけてきた。かと思うと頬に付いた血を舐め取った。
突然の行動に驚きを通り越し思考が停止し言葉を失う優也。
そんな優也に対しノアは眉を顰め舌をだらりと出していた。
「まっずー。何だこれ。ギトギトでどろどろじゃねーか」
するとさっきまで血の付いていた頬へ無意識で左手を当て、ぼーっとしていた優也を指先の痛みが我に返らせる。
「っつ!」
透かさず痛みのした右手の親指に目を向けるとノアが血を吸っていた。少し吸うと小さな傷口を舐め治す。
「口直しごちそうさん」
礼儀正しく両手を合わせそう言うとノアは立ち上がった。
そしてまだ思考が渋滞気味で立ち上がろうとしない優也を見下ろした。
「ほら、行くぞ」
「あぁ。うん」
一旦全ての思考する事を脇に寄せることで何とか今に集中し小さく返事をする。
だが立ち上がろうと地面に両手を着けるが力が入らない。
「腰が抜けて力入らないや」
自分の情けなさに優也は思わず乾いた笑い声を付け足した。
「ったく。しょーがねーな」
するとノアは優也の横に回り何をするかと思えば背と膝裏に腕を伸ばし抱きかかえた。それはいわゆるお姫様抱っこ。
それに気が付くまで数秒を要したがその瞬間、優也を吃驚を遥かに上回る恥ずかしさが一気に襲う。だが自分の為にわざわざ運ぼうとしてくれているノアに文句は言えずただただ両手で顔を隠すしかなった。
そしてノアは近くの屋根まで壁や室外機などを利用し上がると屋根伝いで家まで一直線で帰って行った。