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三年半前、結婚して二人で初めて行った食料の買い出しで、妻は牛乳を選びながら夫に訊いた。
「ねえ、あなた朝はパンがいい? それとも御飯?」
「俺は両方好きだからどっちでもいいよ」
「うん、でもね、私からするとパンの方が楽なんだけど、でも御飯の方が好きなの」
「じゃあ御飯?」
「でも共働きで毎朝御飯で作るっていうのは大変かも」
どうしようかなあ、と唸りながら妻は牛乳の列の奥へ手を伸ばして、賞味期限が少しでも長いものを取る。
「ねえ、月曜日からのローテーションで、パン御飯御飯パン御飯御飯パン、っていうのはどうかなあ」
「うん、いいんじゃないかな」
夫は本当にどちらでもいいと思っているふうで、あっさりと同意した。
「じゃあ、そうしてみる」
「うん。――あ、卵が一パック八十八円だって」
夫が頷き、そして卵のコーナーに目を向けて卵のパックをひとつ取る。
この、生活の始まりを告げる買い物は、そのまま互いの性格や付き合い方をあらわしていた。夫は反論することがなかった。妻はそれを、そういう個性の人だと思っていた。
二人で生活するようになって妻がまず気付いたのは、夫が真夜中にうなされることが多いということだった。毎日というほどではないものの、週二、三回はうなされる。
ある夜、妻はふと目を覚ます。同じベッドに横たわっている夫は何か呻いている。それが耳許で聞こえる。言葉になりそうでなっていない、おそらく夢の中でははっきりと叫んでいるであろう呻き。
枕許の明かりをつけ、妻は肘をついて半身を起こし、そっと、夫の寝顔を見おろしてみる。
額にじっとりと汗が浮いて、小さな明かりに照らされて油のように光っている。眉間に寄った皺。半開きの口からとりとめなく洩れる声。それは明らかに苦悶の表情だった。
起こした方がいいのだろうかと妻は思う。けれど今夜起こしたところで、夫は何度でもうなされるのだろうとも思う。
一体、どんな夢を見て苦悶しているのだろうか。うなされていない時の夫の寝顔は端正で、子供のような無心な安らぎをたたえている。その表情と、今見ている苦悶の表情とはあまりに違いすぎる。
起こすべきか否かで迷っているうちに、夫の夢は場面が切り替わったのか、呻きがすっとおさまった。妻はもう少し寝顔を見続け、それから明かりを消して寝直すことにする。
そんなことが、何度重なった頃だったか。妻はある夜、ついに夫を揺り起こした。肩に手をかけて揺すり、「ねえ、……ねえ、あなた」と少しひそめた声で呼びかけた。
夫は「んん」と口の中で何かを言って、それから眉がぴくりと動き、そしてハッと弾かれたように目を覚ました。時計は深夜の二時少し前をさしていた。
「……何」
妻を見やって訊ねる夫の声は、少しかすれていた。
「あなたが、あまり頻繁にうなされるから」
だから、もう見ていられなくなって今夜は起こしたのだと、そう告げる。夫は眠りを覚まされたことに、ぼんやりとはしていたものの怒っている様子はなかった。
「……俺は、うなされてるのか」
「ええ。苦しそうにしてる」
夫は「そうか」と呟きながら半身を起こした。妻もそれにつられて起きてみる。二人の間の沈黙を、時計の、秒を刻む音が埋めている。
「ねえ、あなた。いつも同じ夢でうなされているの」
「確かに、同じ夢を見ているけど。……それでうなされているかは分からない」
「じゃあ、その同じ夢っていうのは、どんな夢なの」
妻は確実に返答を得るつもりで訊いた。夫は斜め下のあたりをじっと見つめている。蒲団に隠れた膝のあたりを、何の目的も持たずに。それは、そうすることでこの場をやりすごそうとしているようにも、ただためらっているようにも、何か葛藤しているようにも見えた。
「……あなた」
だから、妻は再び呼びかけた。手を伸ばして、夫の、蒲団に隠れている腿のあたりに触れ、横顔を見つめた。
「……夢、なんだ。夢だけれど、現実が夢になっているんだ」
ややあって、夫が言葉に迷いながら口を開いた。
「あれは俺が十四歳の時だ。制服のポケットにナイフが入っている。少し年上っぽい男とすれ違う」
言葉は手探りするように続いた。妻はいつの間にか息を呑んでそれを聞いていた。
「その男は臭かった。汗と、インクの匂いが鼻についた。その時、俺は不快な匂いだと強く感じた」
妻の口が開き、けれど声には何も出ずに、したがって夫は妻の表情の変化に気付かずに話は進められる。
「俺は、誰かを殺すならこの男だと思った。ポケットの中のナイフを握りしめた。足を踏み出して、二歩、三歩と歩いて、それから走りだした」
妻の中で、過去に聞かされた場面と今夫が話している場面がカチリと重なる。――それは、その場面は、あの人の最期の。
「俺は、体当たりするように男の背中を刺した。それから肩を掴んで向き合って、胸を」
いやだ。やめて、もうこれ以上掘り起こさないで。妻は凍りついたような口でかろうじて息をしながら、心の中で絶叫した。
「……忘れられないんだ。あの時の、男の表情も、手触りも、匂いも」
夫は、そこで口を閉じた。
妻は、「そうだったの」とさえ言えなかった。体が小刻みに震える。記憶が怒号のように襲いかかってくるのを感じながら、ただ、抑えた呼吸を繰り返した。
知らずにいるということは、こんなにも恐ろしいことだったのか。
よりによって、誰よりも許すべきでない人間と、結婚してしまった。
「寝直し、ましょう」
ロボットのような固さで、妻は何とか呟いた。夫は呼吸ひとつを置いて、「そうだな」と頷いた。
再び横たわる音、蒲団をかけなおす音が静けさの中に響く。妻はなだめるように夫の頭を撫でる――機械的の手でもって。しばらくして、夫の寝息が微かに耳をうつ。
妻は思う。なぜ、今まで、夫が殺したという人物が、かつて自分の交際相手だった人物ではないと思えていたのだろう?
彼は当時十四歳の少年に殺され、夫は十四歳の時に人を殺していたというのに。
妻は夫の寝息を確かめ、しっかりと閉ざされた瞼を見おろして、その時になってようやく、衝撃に凝り固まっていた胸がほぐれてくるのを感じた。それは胸の奥から微かな笑いが洩れてくるような感覚で、それに任せて妻は低く笑った。胸許が痙攣するかのような笑いだった。目の前に眠る男の顔をじっと見おろしていると、それまで見慣れ親しんできたはずのものが、突如として蝋人形の化け物のように感じられた。今まで見守ってきたはずの寝顔は、一体何だったのだろうと妻は思った。見守っているその眠りの中で、かつての交際相手が繰り返し殺されなおしていたというのか。たとえそれが、殺人犯の悔やむ心によるものだとしても。




