-5-
呑み会は紹介する側の二人のおかげで、なだらかに進められていった。彼女は二杯目のサワーを呑みながら、ビールのジョッキをあける彼を見やる。なるべく、気付かれないように。
近いものをもっている者同士ならば、うまくやっていけるだろうと友人は思うのだろうか?
彼女にはまだ、今日紹介されたばかりの彼との関係は現実味のないものだった。ただ、近いものを感じることは、少なくとも悪印象ではなかった。
それだけでも、ひとつの収穫だったのかもしれない。
後に、交際するようになって半年経った頃に、彼女は彼の控えめな理由を知った。彼は十四歳の時に人を殺してしまったのだと言った。殺人は償いようのない罪だ、自分は何よりも犯してはならない罪を犯してしまったのだと彼は呻いた。聞かされた彼女の中では、十四歳の殺人というキーワードに対する嫌悪感と、今こうして目の前にいる彼への好意が入り乱れた。そして両親がこのことを知ったらどう反応してくるだろうと思った。やはり反対するようになるのだろうか、だとすれば今から少し気が重い。彼のことは、近いうちに両親に紹介するつもりだった。
それでも結局、紹介された彼と彼女はその告白からさらに半年の後に結婚した。結婚式は教会で行なわれ、披露宴には互いの近しい親戚と数人の親友だけを招待して、内輪で催した。彼女の両親には、彼が過去に殺人を犯したことは知らせなかった。ここから三年と三カ月の後に、彼が癌で入院することは、当然まだ互いに知らない。
* * *
空が薄雲に覆われて白く光っている朝、妻は会社に電話をかけて、突発的に仕事を休んだ。
それは朝に目を覚ましてから、ふとした思いつきで取った休みだった。入院している夫にも、夫を看護している姑や小姑にも知らせずに、一人の時間を味わうつもりでいた。
電話をかけた後、再びベッドにもぐって少し寝直し、それから洗面所で顔を洗って歯磨きで目を覚まし、そしてキッチンに向かってコーヒーを淹れる。時計を見ると午前十時をまわったところだった。
妻はコーヒーカップとタバコを持ってリビングのソファに体を沈めた。平日にもぎ取った休日は微かな後ろめたさと確かな開放感がある。
とりあえずテレビの電源を入れ、適当にチャンネルを変えながら面白そうな番組を探した。この時間帯にテレビを見ることは普段まずないから、何が面白いのか、ぱっと見ただけでは分からない。それでも無難そうな番組を見つけ、それを観ることにしてタバコをくわえた。
その番組では芸能関係のゴシップを流していた。そしてそのニュースを読み終わると御大層なBGMと共に画面を切り替えて、妙にものものしいタイトルを掲げてきた。特集のテーマは少年犯罪だった。
妻は、選ぶ番組を間違えたかなと思いながら、舌打ちしたいような気持ちでチャンネルを変えた。彼女にとって少年犯罪は、思い出すだけでも辛い過去をあらわすものだった。
ささくれだちそうな感情を宥めながらタバコの煙をゆっくりと深く吸い込み、サッシの向こうに広がる無彩色の空を眺める。そうして、心を、沸き上がる記憶をおさえるように努める。
タバコが半ばまで灰を進めた頃に思い出すのは、まだ何も失っていなかった頃の思い出だった。
十代の時を一緒にすごしていた彼は、自分の意思でもって高校を自主退学して就職したものの、それでも同年代の他の人がまだ学生として部活や学校行事、または金銭的にかつかつでも時間だけはゆったりと与えられた日々を送っているのを横目に、時として鬱憤がたまることもあるようだった。
そんな時、彼はよく手のひらを軽く弾ませるようにして彼女の頭を撫でてから、そっと抱き寄せて頬ずりをした。彼は「煮詰まってる時にお前といると、ほっとする」と言ってくれて、彼女はくすぐったいような喜びをもってそれを聞いた。求められることが嬉しかった。
ある日の夕方、彼の仕事が終わった後に駅で待ち合わせ、二人でコンビニに寄り、一緒に彼の部屋に帰った。
彼はいつもより口数が少なかった。仕事で何か嫌なことがあったのだろうかと、彼女は気遣わしく彼の隣を歩いていた。彼は、愚痴をこぼすのを野暮ったいことだとみなしていて、彼女に洩らすようなことはなかった。ただ、上手に隠しきることもできず、ふとした表情や動きに滲みでてくることがあった。
「ねえ、疲れてるの」
彼女は、部屋に着いてコンビニで買ってきた飲み物で喉を潤してから、遠慮がちに切り出した。彼がコップに口をつけながら、ちらりと視線を投げかけてくる。
「疲れてるわけじゃ、ないけど」
「じゃあ、何かあったの。疲れて見える」
「そうかな。何かお前、今日は鋭いなあ」
「うん。だから何があったのって」
「何があったんだろうなあ」
「何があったんだろうねえ」
彼女が食い下がると、彼ははぐらかすような語調でかわしながら、表情に笑いを滲ませた。こころもち和んできているような顔に、彼女の心が少し弾んでくる。
「まいったなあ。……お前って声がのんびりしてるよな、人の毒気抜いていくし」
「何のことだか分からないよ」
「じゃあ分からないままでいいから、俺の今の毒気抜いてくれよ」
彼女には分からない表現をしながら、彼が身を乗り出して手を伸ばし、頭をぽんぽんと撫でてくる。何だか犬や猫を撫でるようだと彼女は思う。
彼女は両手を上げて頭に乗っている手を取り、自分のものとは明らかに違う手のひらの感触を楽しみながら指を辿らせていった。そして親指と人さし指をぷるぷると震わせながら、彼の指に生えている毛をつまむ。
「……何やってんだ、お前」
「抜けって言うから」
だから、指の毛でも抜いておこうかと思って、と言うと、彼は呆れたような声をあげて自分の手を取り戻そうとした。彼女は捕らえる手に力を籠めて、それを阻止する。
「アホか。こんな毛抜いて何に使えるってんだ」
「使えないけど、いいじゃん生えてても使い道ないんだし。何抜いていいのか分からないんだもん」
「でも指の毛抜かれてもなあ……痛っ、お前な、本当に抜くか普通」
「あはは。頭の毛じゃないんだから気にしない気にしない」
「しょうがないな、お前は。もう」
彼が顔をくしゃくしゃにして笑う。その顔と向き合うことで、彼女も八重歯を覗かせて笑った。そうして二人で気の済むまで笑ってから、互いの存在を祝福しあうように抱き合った。
「……今さ。爆弾が落ちてもいいなと思うんだ、俺は」
彼が彼女のうなじに顔を埋めて囁く。彼女は彼の匂いを嗅ぎながら僅かに顔を巡らせて「何で?」と訊き返した。
「不謹慎なことなんだろうけど。幸せだなあと思えてる瞬間にさ、一瞬で何もかも終わったら、それはそれでいいじゃん。幸せな瞬間に全てが終わるなら、それもまたひとつのハッピーエンドだって思えるから」
彼女は、彼の囁きを子守唄のように聞きながら「でも」と反駁した。
「でも、そうしたら来週一緒に行くって約束してる映画は? 死んじゃったら観られないよ」
彼は強いて自説を貫こうとはしなかった。やや幼いような彼女の言葉に、「そうだな」と言葉を返しながら、抱き寄せる腕に少し力を籠めた。
「……ねえ。私とつきあう前にも、他の誰かに、そう思ったことはあったの」
彼女がふと訊ねる。彼は低く笑って逃げようとする。
「あー……昔のことなんて、なあ。あ、昔って言葉が使えるほど長く生きてないか」
「もう。すぐそうやってお茶を逃がすんだから」
「待て。そこで液体逃がしてどうすんだ。お茶を濁す、だろ」
「……国語2だったくせに、そういう突っ込みだけは鋭いんだから」
「成績と国語力は別物だって」
彼女がふてくされた横顔を見せる。彼は御機嫌を取り結ぶように抱き締めている体を揺する。
彼の腕は、いつも少し熱い。




