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流し  作者: 城間遙子
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   *   *   *

 

 殺された少年と彼女とは、中学校のクラスメイトだった。

 少年は無邪気で屈託のない性格で、勉強はまるでできなかったが、文化祭や体育祭や学校行事のあらゆる場面で周りを楽しませてくれていた。いつも全力で楽しもうとする彼のもとには、笑いや明るさが慕い寄っているかのようだった。当時の妻――彼女は、そんな彼を、クラスの中心になって祭の時には日なたで輝く人だと、羨望をもって眺めていた。彼女はクラス内ではおとなしい方で、彼と会話を交わすことは滅多になかった。

 にもかかわらず二人が交際するようになったのは、中学生活の終わり、彼女が卒業式の後に彼から呼び出され、つきあって欲しいと告白されたからだった。彼の言葉は緊張で切れ切れになっていた。彼女にとっては想像すらしたこともない展開だった。自分がそういう意味をもって彼の目にとまっていたとは思いも寄らないことだった。

 私でよければ、と彼女はその場の雰囲気にのぼせるようにして頷いていた。

 しかし互いが高校に入学してからしばらくは、思うように会うこともできない状況が続いた。彼女はいわゆる進学校に入学して、はじめからテストや課題に追われることとなった。彼は中学校の教師の協力によって、体育と技術を5に、音楽と美術を4にしてもらうことで内申書を支えてもらい、近所の公立高校に入学できていたものの、ようやく会うことができた五月には既に自主退学してしまっていた。

 そんなにあっさりと辞めちゃっていいの、これからどうするのか決めてるの。彼女がそう訊くと、彼は相変わらず屈託なく頷いて、働くことにしたんだ、と言った。職場は自宅から二駅先にある工場だった。

 彼はそこで一年間働いてから辞め、今度は殺されるまで勤めていた印刷会社に途中入社した。ここは人間関係がいいんだ、と彼は嬉しそうに話してくれた。彼は、仕事がどんなにきつくても、何より大切なのは人間関係だと思っていたようだった。そうやって学校や職場を転々とした彼を彼女が軽蔑せずにいられたのは、そうした彼の人間関係への姿勢があったためかもしれない。彼は、無邪気さゆえに誰に対しても表裏なく接し、一度仲間と認めた相手にはとことん根気強く、とても情味のある人間だった。

 彼は印刷会社に入社してから、その会社の先輩に誘われてスポーツジムに通うようになった。もともと、彼は比較的大柄で骨太だったが、ジムに通うようになってからは更に頑丈そうになっていった。この仕事は体力勝負だから、と言いながら、彼は時おり彼女も誘って汗を流した。彼女は彼が汗を流すところを眺めたり、軽く体を動かしたりする程度だったが、彼は真剣に打ち込んでいるようだった。彼女は体を鍛えることより、体を鍛えた彼の腕に触れる方が好きだった。ほどよく健康的にまとった筋肉。彼の二の腕を両手で包み、撫でおろし、抱きかかえ、唇を滑らせ、自分の腕と比べたりするのが好きだった。

 彼とは、向き合うことの全てが不慣れで新しいなかで、がむしゃらに抱き合っていた。未熟な情熱と旺盛な好奇心に任せて将来を約束しあい、果てのない未来を夢みて、共に駆け抜けようとしていた。生活の違いや考え方の違いから喧嘩になることもあったが、彼も彼女も素直に謝る性質だったため、交際関係が揺らぐことはなくて済んでいた。素直に口論し、素直に謝りあえることを、彼女は二人の勲章のように思っていた。そうさせてくれる彼は、彼女の誇りだった。

 

 彼女は高校三年になり、高校入学以来、夏休みには毎年参加している大学受験のための合宿に行くことになっていた。特に今年は本番があるため、生徒も教師も真剣味が強くなっていて、合宿前から緊張感で昂っていた。

 彼女が合宿に行っている間は、彼にとっても気の抜けない日々が続いた。八月中旬に行なわれる大掛かりな同人誌即売会に合わせて受注がたてこみ、彼を含むほとんどの社員が会社や会社近くのビジネスホテルに泊まりこんで仕事をしていた。

 お互い、これから大変だけど、それが終わったら夏の終わりに遊びに行こう。その日を目指して頑張って乗り切ろうね。そう約束を交わし、互いに心待ちにして目の前のものに取り組んだ。

 彼を突然に死なせた事件は、その約束が果たされるはずだった日の二日前に起こった。

 彼女は途方に暮れ、悲しみに暮れた。突然に彼女を襲ったこの不幸な事件は、それまでが輝かしく幸福だったがために、なおのこと烈しい不幸に感じられた。この事件を知らされた瞬間から、彼女のなかの時間は止まったようなものだった。果たされなかった約束の前で、彼女は泣き叫んだ。自分の部屋に籠もってうずくまる日々が続き、その様子を心配した両親が、泣き疲れて茫然としている彼女を病院へ連れて行った。そこは心療内科で定評のある病院だった。

 彼女は、彼を殺した少年を想像のなかで殺した。思いつく限り酷いやり方で、何度も殺した。そして彼を死なせた運命を憎んだ。彼が死んでも終わらずに続いている自分の人生に絶望を感じた。朝も夜も変わらずに繰り返され、季節は移り変わり、彼女は抜け殻のようになったまま大学を受験し、第二志望の学校に合格して、春から通うための手続きが行なわれた。彼という存在が絶たれても、立ち止まること、この世界から飛び立つことはできなかった。

 日々を生きていかざるをえない彼女のなかで、時の止まった彼という存在は、少しずつ永遠の理想像として出来上がっていった。あらゆる思い出は美しく、彼に捧げたあらゆる好意は最大限に誇張され、彼から受けたあらゆるもの全てが聖なるものとなった。そうすることで夢をみるのが、彼女にとって、悲しみから立ち直るための唯一の方法だった。

 時間は彼女に優しくなく流れていった。彼女は彼と向き合ったような関係を、以後誰とも結ばずに十年以上すごしていた。かたくなに拒んだという自覚はなく、けれど踏み出す勇気もなかった。

 今の夫と知り合ったのは、踏み出せないまま二十代も終わろうとする頃だった。互いに勤め先の友人を介して知ることになった。


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