再会(後編)
彼の一言を終え、その後の進行も恙なく全て終えたのち、ステージから降りた壬生慶一郎はすぐさま人に囲まれた。それもそうだろう。彼は今や表面上誰もが認める――彼だけは断固として認めないだろうが――壬生家御曹司だ。
人垣には先程の女の子たちだけではなく、お近づきになりたい成金じみた経営者や娘を嫁にやりたそうな壬生グループのお得意先の社長までいる。
私はと言えば、彼から少し離れたところのテーブルで下品でない程度に一生懸命料理を頬張っている。とてもおいしい。たまに何故これが高いのかというくらい微妙な味の料理もあるが、私の貧乏舌には合わないということなんだろう。そういうものは食べなければいい。相手にするだけ無駄だ。美味しいものだけ食べて生きていきたい。
一応仕事なので視線だけはしっかり壬生慶一郎を追っていると、彼は焦ったようにキョロキョロと辺りを見渡している。まあ誰かに助けてほしいだろうな。彼に今政治的で経営的な知識はなくそんな話は出来ないだろうし、何よりあれは怖いだろう。ぎらぎらとした眼だけが宙に浮いているように見えてパニックになっているかもしれない。翔平に視線を投げかければ、早く行けと言わんばかりに顎をしゃくられた。傲慢なやつだ。ビールはお前持ちだからな、と睨んだが、通じているかはわからない。
仕方なくテーブルに皿とフォークを置いて壬生慶一郎の方へ歩いていくと、私が声を掛けるよりやや早く彼が私を見つけた。私を女神とでも崇めそうな視線だ。今にも助かったと口に出しそうなそれを辿って、その場にいる誰もが私を注視した。
「ええと、慶一郎さん素晴らしいスピーチでしたね。高知からいらっしゃったとのことですし、お疲れなのでは? 顔色が悪いように存じます……お部屋に一度戻られた方が……」
「あ? そがぁなこ――」
「ね?」
口を開くとすぐ訛る。ステージの緊張が解けたのか、知った顔を見たからか、未だ聴衆がいる中で素を出しかけた壬生慶一郎に、人をかき分けて近付き、背に手を添えて促す。
テーブルマナーを合格しているのかも分からないし、できれば料理もこの場で食べてほしくない。政治的経営的話題でボロを出して嘗められても困る。まあ本当に偉い壬生とズブズブの関係にあるようなお家は承知のことだろうが、例えば悪いことを考えているような連中にはあまり知られたくない。さっきから私を睨みつけているこの成金ぽそうなにーちゃんとかそうだ。
「いきなり人を押しのけて失礼なのでは? 慶一郎さんも困っているではありませんか」
「ふふ、申し訳ありません。壬生家の後継者のお身体が心配で……つい。不愉快な気持ちにさせてしまいましたね」
30そこそこだろう。正味どうしてここにいるのかと誰か思っていそうな男だ。身なりも確かにブランド物で固めてはいるがなんというか決して洒落ているとは言い難い。いや、大学生の男なら、きっとちやほやしてくれるだろう。女受けはよろしくない。まあ、心の中では何と思っているかは褒めそやすその人にしかわからないが。
「あなたは彼とどんなご関係で?」
男がそう言うと、人垣の中でも数人目を細めたり唇を噛んだ人間がいた。彼らはきっと事情を知っているんだろう。つまり翔平が言うところの“お偉方”ということだ。ただきっとポーカーは苦手だと思う。
裏を返せば目の前のこの男はそうでないということになる。
「お言葉を返すようでまた不愉快にさせてしまったらと思うと恐縮なのですが……先に名乗るのが何とやら、と言うではありませんか」
私がそう言うと明らかに心外だとでも言うように顔を歪めた男は、すぐさま顔を取り繕って笑ってみせた。目が笑ってないけど。
「それはそれは……失礼いたしました。私、古畑和幸と申します。高等学校時代に会社を立ち上げまして、そこから一代ではありますが関係各所のお心でこのような盛大なパーティに来るまでとなりました」
ここ10年で流行りの高校生社長、その進化系というやつだ。私はあまりこれが好きじゃない。全てが全てそうだとは言わないし実際誰もが思いつかないような偉業を成し遂げる青年実業家もいる、でも私の高校時代知り合ったこれが“勉強のできる馬鹿”だったのだから先入観は否めない。
そしてこういうやつらは金金とうるさい場合が多い。
「……そうですか」
「それで? そちらは?」
こんなこの場にいるその辺の女の子がとんでもない会社の社長令嬢だったりするのに相手の素性もわからず威嚇するなんて大した玉だな……なんて思ったり、翔平から覚えろと言われた自分の肩書を思い出したりしていると、男は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「名乗れませんか?」
「……私、壬生グループの社長補佐ですが」
「社長補佐? あなたが? もしかして名ばかり秘書ですか。そんな方が一存で経営陣の話に割って入るとは中々気がお強いのですね。あなたのような方に折角の壬生次期頭首とのお話の機会を奪われたくはない」
私の着飾った装いを下から舐めるように見て、最後に私の顔をニヤニヤと見つめる。顔採用だとか若い経営も知らないような女がとその下卑た視線が雄弁に語っている。まあ今私、化粧でかなり綺麗に飾り立てられてるからね。
でも例え私が顔採用だろうが若い女だろうが、その上が自分より偉いとか、その上を貶してることになっているとかは思いつかないんだろうか。
「そうですね、申し訳ありません。その社長である父が先日亡くなり、母とともに途方に暮れていたところを大旦那様に手を差し伸べて頂き現在は大旦那様の補佐として経営を勉強させていただいている身で、将来的に今は大旦那様が後見として経営されている亡き父の会社を継ぐとは言え、まだ一介の社長補佐である私が意見していいことではなかったのかもしれません」
正直無理やり感は否めない。けど事実だ。実際にその令嬢は存在するし、そういう会社を壬生弦太朗は後見として経営している。ただ当該令嬢が経営なんて出来ないと喚いた結果、その会社はかなり内密に壬生グループが買い上げ、令嬢をコネ入社させたらしい。まあ壬生の遠縁らしいから、あの旧態依然親父は恥を晒したくなかったんだろう。
私が忘れぬうちにと早口で捲したてると、古畑は慄いて一歩下がった。
「み、壬生弦太朗の補佐……?」
「ただの遠縁の伝手でお情けをかけてもらった身です、まだ実際に壬生グループの経営に携わってはおりません。勉強させて頂いております」
「は、ま、まあまだ社会見学の学生気分が抜けないんじゃあ、弦太朗様にもさぞご迷惑をかけているんだろう!? そんな経営を齧ってすらいない人間が目上の人間に逆らうんじゃない。社会の常識だぞ。覚えておきなさい」
まあ実際にそうだ。私はただのOLで、こんな頭の弱いにーちゃんでも実業家と言われれば目上なんだろう。センスがないとは言えブランドで身を固めた明らかに上流階級に憧れた社長様に言わせれば私なんぞはこの肩書がなければただの労働力という概念に過ぎないし。
けれどこの場所で、壬生グループを中心にした各企業の社長が集まるこの場で、その言葉は少し刺激が強すぎたんじゃなかろうか。
それに今の私はお嬢様だしね。
「……そのくくりで私を中傷してしまうのは、少し横暴ではないですか」
「実際そうだろう! 私みたいに自分で一念発起したわけでもない、ただの親の七光ならな!」
馬鹿め。
「それは今現在、まだ学生または補佐として社会に出ている全ての社長令息令嬢を愚弄する言葉ですよ」
私がそう言うと、ようやく気づいたとでも言うように、古畑は周りを見渡した。
辺りでは気位の高そうなお嬢様や奥方がガン飛ばしながらひそひそよろしくやっているし、むしろ社長である父親のほうが激怒して子どもに窘められているところまである。
一念発起して一代で築き上げてきたこの男の信用はここで潰えただろう。そもそも、こういう場所で誰もに気が使えない人間はこの世界できっと生きていけない。ただド正論を語ればいいってもんじゃない。むしろ相手が不愉快になると分かっていてあえて言葉を使って、自分から切り出しにくい言葉を相手に言わせたりやらせたりする汚い世界だ。
そういうこと経験する機会を、全ての実業家とは言わないが少なくとも、この男は捨てて起業に勤しんできたんだろう。
「お前、私を嵌めたな!」
古畑は声を荒げると、私の腕を掴もうとする。それを避けようと後ろに下がると、丁度テーブルがあったのか体制を崩してしまった。……勿論私へ向かってきていた古畑も一緒にだ。
話がわからず私の横で黙って聞いていた壬生慶一郎が、流石に驚いたのか私を支えようと手を伸ばすのと同時に、古畑が体制と立て直そうとテーブルに手をついた――いや、つき損ねてテーブルクロスを掴んだ。
「あ、」
私の間の抜けた声が辺りに響くよりも早く、甲高い誰か女性の叫び声と、グラスがいくつも宙を舞う。ワインや、シャンパンや、オレンジジュースや、水が、キラキラとシャンデリアの光りを反射している。
そして――。
ぐしょり、と壬生慶一郎に全てが被さった。僅かな飛沫が古畑にかかると、古畑は自分のブランド物のスーツを抱いて悲鳴をあげる。
「……おまん、濡れはせざったかよ」
「あ、ううん。大丈夫。慶一郎さんは……?」
「ああ、こんなもん何ちゃあない。ほら、濡れゆうやか。こっち向け」
そう言うと袖の濡れていないところで私の髪をなぞる。一瞬視界に映った水滴は布に吸われると染みとなって広がった。
「わ、私は悪くない! その女が……後ろに倒れ込んだから……!」
「……にゃあ、おんし……えい加減にせいよ」
その声音のあまりの冷たさに私の身体までが震える。
「おっこうにほたえなや。あやかしいことでよーだいばっか言っちゅうき、おんしゃあ、やしべられちゅうろう?」
「あ? え、え?」
「おんしゃにわざわざ言い直さんき。……社長つか? えらいての御前でやまったにゃあ」
壬生慶一郎は前髪をかきあげると、嫌そうに目を細めてその手を見た。ここから私が見てもベタベタしてるのが分かる。早いところシャワーでも浴びさせないと髪にダメージ半端ないと思うよ。
「おまん、ええと、名は? 聞いちょらんかったな」
「す、……宮部若菜」
「行くぜよ若菜。こがぁなとこで話せんきにゃあ」
杉下、と言いそうになって慌てて言い直すも、壬生慶一郎は大して気にも留めなかったようで、そのままさっさと歩いていってしまう。
古畑はというとその場に座り込み、呆然と虚空を見上げている。ざまあみやがれ! TPO弁えないからだ! 言葉に気をつけろよ!
とはいえ私の言葉も“お嬢様”でなかったら相当に不適切極まりないし、社交の場にはあるまじき発言なのは事実。きっと後で翔平に怒られるんだろう。ビールのつまみか、楽しみだな。
「しゃんしゃんせえよ!」
「あ、はーい!」
壬生慶一郎の声に返事をすると、そのまま硬直し尽くした招待客を尻目に会場を後にした。
ルビは直訳をもっと会話に近づけた意訳です。
わかりやすいかなと思ったのですが、もし見づらければ止めます。