再会(前編)
果たしてこんな光景を誰が想像しただろうか。
ざわめく招待客。叫ぶ女。水浸しの壬生慶一郎。そして、険しい表情をした壬生弦太朗。お偉方は眉をひそめて遠目にこちらを眺めている。
ぽたり、ぽたり、と壬生慶一郎の髪から滴が落ち、その表情は伺い知れない。水も滴るイイ男、なんて冗談すら後になって思ったくらいで、この時はそんな余裕すらなかった。上半身、主に頭をしとどに濡らして、その男は声を発する。
「にゃあ、おんし……えい加減にせいよ」
その声音に私は身を震わせた。
◇ ◇ ◇
パーティ会場に着くと、辺りは煌やかで華やかな空気に満ちていた。庶民さなど微塵も感じさせない。華やかな女性は言うまでもなく、真面目そうな女性も、ただ真面目というよりは洗練されたようで優雅さを見失わせない美しさを放っている。この美しさは見た目の美醜じゃない。何年もかけて培われる精神からくるものだ。自信だ。
私からコートを受け取った間中は、車を停め終え合流するまでここにいない。私は連れ合いもおらず、知り合いもおらず立ち尽くしてしまった。早く壬生慶一郎を見つけよう。このままではこのシャンデリアの輝きでさえ私に毒だ。
誰も彼も私を気にかけようとしないのはむしろラッキーだった。いや必然かもしれない。みな一様に商談や取引の話を持ちかけ、パーティとは言えども仕事の場であるようだった。今までOLとしてこんな豪華な場には出たことはないものの、もっと規模の小さなものであれば上司に連れられて来たこともある。そう考えればまだ気持ちも楽だというものだ。キョロキョロと辺りを見渡すと時折若い女の子たちの視線を感じるがそれまで。彼女たちにとって今の私は大したことのない存在なはずだしね。
しばらくドリンクをもらいつつ歩き回ると、どうやら壬生慶一郎らしき人物がテラスへ出ていくのが見えた。下手なダンスのステップを踏むように人を掻き分けて進んでいく。硝子の向こうで、彼はどうやら一人のようだ。後ろで壬生慶一郎を探す声が薄っすらと聞こえる。察するに、彼がいないとセレモニーが始まらないらしい。ボーイに空いたグラスを頼むと、私はそっとテラスへ滑り込み後ろ手にその声を会場へ押し戻した。
「ねえ」
「……」
「ねえったら」
声をかけても壬生慶一郎は反応しない。聞こえていないのではない。無視しているのだ。テラスの端で手すりに頬杖をついて夜闇に追いやられていく夕暮れを眺めている。ああ、やはりというか何というか。
「顔がいいな」
「……はぁ?」
夕陽で影がかかった物憂げな表情と、すらりと置き場なく放られた片足が見惚れるほどに美しかった。にも関わらず、その顔が怪訝に歪められてこちらを振り向く。まるで敵でも見るような目が、ほんの少し驚いて恥ずかしそうに細められた。
「なんじゃ、おまんか……」
「体調はどう?」
「げにまっこと、すまんちや……」
手すりにもたれかかり、そのまま頭を抱え込むと、壬生慶一郎はこちらを見上げるようにして覗き込む。その目には色っぽい光が乗っていて、照明と、夕暮れと、影のコントラストに酔いそうになる。
「……にゃあ、おまん、金持ちながか?」
「……そうだね」
「やに浮気しゆう男好いちゅうがか」
「……そうだね」
好きではないと言えば嘘になる。好きだ、まだあの男のことを。優しくて、甘くて、どろどろに自分が駄目になってしまうのが分かるのに、それでもなお心惹かれるあの人が。
壬生慶一郎は沈みきった夕陽の、伸ばした光を見つめてため息を吐く。
「おまんをわやにしやせんがの、……めとろやいか、にゃあ」
「うん?」
「いや、気にするな」
「ありがとう」
その言葉に壬生慶一郎は目を見開いて飛び上がる。心なしか顔が赤い。顔がいいってずるいな。何しても可愛い。私もそんな顔に生まれたかった。いや、女だしそれは駄目だな。
「おまん、わ、わしの言っちゅうこと分かるが……!?」
「うん? ううん、標準語話してくれてありがとって」
「あ、ああ……そういう……」
期待はずれだったのか、壬生慶一郎は唇を尖らせて不満そうな安心したような微妙な表情で私から視線を外した。
まあ土佐弁と言えども、何となくのニュアンスが分からないくらいで言葉の端々をつまんで粗い意味くらいは何となく推し測れる。というか、さっきから返事していたのにこいつは何を言ってるんだろう? もしかして適当に返事してると思われたのかな。心外だ。
「やっぱりお前も標準語の方が聞き取りやすいのか」
「まあそりゃね。土佐弁とかドラマでしか聞いたことないし」
「じゃあ、標準語で話す」
「私と話したいって思ってくれてるってこと?」
標準語で話していてもやや訛っているのが可愛くて、お世辞とは言えこんなハンサムが自分と話したいと思ってくれているということがなんだかくすぐったくて、私は思わず笑みを溢す。
彼は抗議するような、子供が反発するような声を震わせて、見開いた目で私を見つめた。心外なのは自分の方だとでも言いたげな目だ。
「おまんが、」
「うん」
「おまんがわしと話したい言いちょったやか……」
「そうだっけ?」
「話し相手になっとうせって言いちょったやか!」
ああ。
違う。
多分、彼は嬉しかったのか。私と同じだ。
話してほしいと言われて律儀に標準語を使っていてくれたんじゃない。話してほしいと言われたのがこっちに来て初めてだったのかも。
上京して、自分の祖父だという男は自分と面と向かって話してくれず、令嬢には怖がられ、マナー講師には問題児として扱われ、たぶん、私以外の人間は彼と話したがらなかった。だから飲み歩いて、酔っぱらい相手に話しかけて、どうでもいいことで大声上げるほうが、例え言葉が通じなくとも彼にとっては家にいるよりマシだった。
居場所がなかったんだ。
そんな彼に『ここにいていい』と同じ言葉を初めて投げたのが私だったのかもしれない。
「おまんが来るって聞いちょったき、ここに来ゆうろう……」
ああ、どうしよう。母さん。
思ったよりも早く帰れるかも知れません。
「ヘイシリ?」
「標準語使う!」
突き出そうとした指を手首ごと取られて、お互い見つめ合ってしまう。日はとっくに沈んでいて、シャンデリアの灯りだけがきらきらお互いの顔に反射している。それが何だかおかしくて、顔を見合わせて笑った。
ああなんだ。ただ彼は、寂しかったのか。
「ああ慶一郎坊っちゃん! ようやく見つけましたよ!」
スーツがガラス戸を開け、汗を滝のように流しながら肩で息をしていた。掴んだ戸枠の中の硝子が一緒に汗をかき出す始末だ。相当だろう。
「坊っちゃんには一言仰って頂かないとなんですから! 早く! セレモニーへ出てください!」
「やめぇ! わしはそんなんせんき! 放せ!」
あまりの大声に、ホールの中からも人が覗き込んで人垣ができる。スーツが掴んだ腕を振りほどこうと、壬生慶一郎は暴れ、その勢いにできた人垣が膨れたり縮んだりを繰り返す。壬生慶一郎は掴んだままの私の腕を引き寄せ、助けを求める様な、一見切なく思えてしまうような目で私を見つめる。
ごめんね。私は仕事中なんだ。
「ええっと、慶一郎? 標準語でうまく一言話せたらその人も満足すると思うから、そしたら私とまた話してくれる?」
「わしが戻るまで去んじゅうせんがか?」
「うん?」
「わしが戻るまで帰らない? ここにいてくれるか?」
何故だか知らないけれど涙が出てしまった。まるで自分のことのようにつらくて、彼が子供のように見える。
「いかないいかない、ちゃんと見てるからね」
「泣きなや……行ってくる」
そう言うと、今度こそ彼はスーツの腕を振り払って、自分で歩けるとばかりに肩を怒らせて人垣を掻き分けて行った。スーツも私に一礼すると、彼の後を追いかけていく。
「何あれ~」
「野生児みたい。ちょっと関わり合いたくないね」
若い女の子のそんな声が聞こえて、恥ずかしさや申し訳無さよりも先に何故か怒りが湧いてきた理由を、私はまだ知らない。
人垣もまばらになった頃、ステージの上では焦ったような進行の声がようやくセレモニーが始まったことを告げた。
私もステージが見えるところへ移動しようとすると、翔平がトレーを片手に誰かを探すように視線を巡らせている。まあ、私なんだけど。
「間中」
声をかければ手間を掛けさせるなとでも言うような表情を作った後、ため息を吐くことなくにこやかな笑顔に一変した。
「ああ、お嬢様。私は手伝いの身ですが、お困りでしたらいつでもお申し付けください」
そういいつつも私のある程度近くをキープしてくれる。その優しさ、染み入るよ 翔平。良いビール買って帰ろう。
そんなこんなをしているうちに、壬生弦太朗がステージ上へ歩み出てきた。
「本日は皆様、ご足労頂きありがとうございます」
そんな文言から始まり、世界情勢や会社の難しいような話題を流れるように語り切ると、重々しいような口ぶりで壬生弦太朗は続ける。
「……ですが、そんな私も老い、衰えを感じるのもまた事実でございます。長男と次男を立て続けに亡くした私に跡継ぎをご心配頂く声も勿論頂きましたが……」
誰もが息を呑む。
壬生弦太朗の側近や、現在重役についている人物からしたらドキドキだろう。もしかしたら自分があの壬生グループを牛耳れるかも知れないと思えば、その期待に胸を踊らせているかも知れない。
残念だったな。でもできれば問題は起こさないでね。
「私の孫をご紹介いたしましょう。孫の慶一郎です」
ステージの端から慶一郎の頭が見えると、ホールは割れんばかりの拍手で轟いた。
烏の濡羽色をした髪、彫りの深い顔、筋の通った鼻、緑がかった黒の吸い込まれるような瞳、薄く整った唇。
特に女の子たちの熱心な拍手が目立つ。そりゃあ、あんな薄暗がりではっきり見えなければあの言動とも相まって野生児にも見えるだろうが、今の彼は照明の下、高いスーツを着こなすハンサムだ。
「皆様、はじめまして。壬生慶一郎と申します」
彼の声が響くと、辺りは静まり返った。
「私は今まで高知に暮らしており、まさか自身にこのような身分があるとはつゆほども思いませんでしたが……いきなり私のような新参者が跡継ぎだと言われて皆様も困惑していらっしゃるでしょう。しかし精進していきますのでどうか温かく見守ってくださればと存じます」
そう語る彼は無表情だったが、再び拍手に包まれた壬生弦太朗は満足そうに頷いていた。
京都へ参拝に行ってくるので次回更新まで時間があきます。