不意打ちパーティ
「いいですかお嬢様、英語は話せてください」
「はい」
屋敷について二日目、一番始めに翔平に教わったのは英語だった。
英語に関しては多少学生時代に頑張ってはいたものの、大学に入って社会人になってめっきり使う機会が減っていた。元々学び直したいと思っていたことだ、英語を学べてなおかつ今この時間にも私には給料が発生しているのだと思うとウハウハである。
「いいですか、まず……」
教材も何もなく与えられたのは電子辞書と紙の辞書とノートと筆記用具だけ。翔平は全ての会話を英語で話しかけてくる。
聞き直せば何度でも同じ内容をただし意地悪く文法を変えて言ってくる。いや、文法が違うことで話す内容がその文法のどの意味を用いているのかが何となく分かる。やり手だ。
ちょっと抜けていると思っていたけど、翔平は“英語が話せる馬鹿”にまで昇格しなければならないようだ。
「正味お嬢様は経営や交易に関して知る必要はありません。令嬢の次のステップに進むことは有り得ませんから。ただし今までと比べて有り余る時間、英語とありとあらゆる趣味分野の知識をつけてください。まあ、マナーに関しては確認だけで済むでしょう」
英語をみっちり三時間話した後に翔平が紅茶を入れてくれる。ようやく休憩、と思いきやひとつ、ふたつ、みっつ、とカップとソーサーが増えていく。
「三つも置いて誰か来るの?」
「全部お嬢様がお飲みになるんですよ」
お腹タプタプになってしまう。
「まあ基本は紅茶です。出先でまず聞かれるのはコーヒーと紅茶の好きな種類ですね。この知識がないと出鼻をくじかれます。女性同士なら紅茶の割合が多いですから、初心者のお嬢様にはダージリン三種類飲み比べをして覚えていただきますよ」
どうやら少なくとも今日の休憩はないと思ったほうがいいらしい。
◇ ◇ ◇
「さて、そろそろ休憩をかねてお出掛けください。お嬢様の執務は慶一郎お坊ちゃんのお相手ですからね」
午前を丸々レッスンに使われたと思ったら、今度は出かけろという。酷い。しかも休憩を兼ねていると。
翔平は私の部屋のベッドの上に幾重にも洋服を広げて悩みこんでいる。そのどれもがどちらかと言うとパーティーに行くようなドレスだ。この服で街に行けというのはいささか厳しいのではないだろうか。
「ねえ、なんかちょっと派手じゃない?」
「令嬢やる気あるんだったらこれくらい着こなしていただかないと。ワンピースドレス着てても普段遣いのコートと靴で意外と馴染むものですよ。……この群青のと、このダークグレーのコート着てください。そこの箱から黒いピンヒール出してください。裏が赤いやつです」
「……何だか私の扱い雑じゃない?」
「知識もへったくれもない人に人前でもなく令嬢扱いする必要あります?」
「仕事なのよね?」
「ここまでとは……」
何だか無性に腹の立つ話である。私だってしたくてしてる訳じゃないっつーの。
ムダ毛やら何やらは昨日またあの超高待遇エステを呼ばれていたので無問題だ。もしかして今日もうあの坊っちゃんに会う予定が組まれていたのだろうか? そういうのはもう少し早く言っておいてほしい。
私が適当に服を被ると、翔平が整えてくれる。しゃがみこんでワンピースドレスの裾を引っ張るものだから異様に心が浮ついてしまうが、向こうの視線は真剣だ。まああの車かかってるなら仕方がない。私だって新しいうちに乗り回したい気持ちわかる。
しかしこの天蓋付きベッド、本当におしゃれよね。何ていうかこの部屋、シンプルなのに豪華なところはちゃんと豪華って感じで、なおかつ使いやすいようにまとまっていてこの部屋を私に割り当てられて正直嬉しかったりする。
「お嬢様」
「ひゃい!?」
「イタいですよ。……このネックレスつけてみてもらえます?」
まあそりゃ言いたいこと分かるけれども。
言われるがままに後ろ手でネックレスを着けると、遠目から眺められる。すっごい眉間にシワが寄っている。伸ばしたい。隣の家の柴犬を思い出してしまう。
「何よ」
「髪結い上げましょう」
そういうと慣れた手付きで髪を引っ張る。引っかかりにもちゃんと考慮してくれる。むしろ心地良い。よく美容室でシャンプーしてもらうときこんな気持ちになるのだけど、髪を結われてなるのは初めてかもしれない。
「慣れてるわね」
「一時は美容師目指してたんで」
こんなイケメン美容師だったらそりゃあモテただろうな。……いや、壮絶な女の闘いが起こったに違いない。
ぶるりと身を震わせば「動かないでください」と怒られた。
「そういえば、今日はどこに行けばいいの」
「坊っちゃんのお披露目パーティですよ」
声さえ出なかった。身体もろとも意識さえ硬直した。
壬生慶一郎のお披露目、それすなわち壬生弦太朗主催のパーティだ。そんなもの、各分野のドンが揃い踏みに決まってる。
そこに庶民の私が。
「いっいやあああああ!!」
「ちょっ動くなってば!!」
最早敬語ですらねえ! つまり私はその程度の庶民ってことだ!
そんなところに行きたくない。どんな恥をかかされるか分かったもんじゃない。そもそも英語だって今日の付け焼き刃で使いこなせもしない。
立ち上がって翔平の手を振り切るように対峙する。
「むりむりむりむりむり」
「心配しなくとも結構です。お嬢様はお話もダンスもしなくていいことになってますから!」
「……本当?」
「はぁ……。お嬢様が庶民の出なのはお偉方は勿論知っておいでです。ただその令息令嬢は知らないので嫌味くらいは言われるかもしれませんが」
「それは……全然大丈夫だわ」
このだわはお嬢様じゃない方のだわだ。
まあ言ってしまえば壬生弦太朗の息のかかった労働者を、息子娘の嫉妬所以のお願いで潰しに来るような阿呆はいないだろう。あの坊っちゃんは顔と仕草だけはいいから、近づけばやっかみは避けられまい。つまりそういうことだ。
安心して、再びぼすんと椅子に座る。
「今度は今みたいにお人形でいてくださいよ」
「お人形って何よ」
「美容室によくあるあれです」
あれか。
「いいですか。今日はお嬢様は坊っちゃんと一緒にいてください。問題児はひとまとめの方が対応しやすいので」
はい。
聞き捨てならないがその通りだ。私も正直その方がいい。いくら実のところ日本で一番の金持ちの跡取りですって人間であっても、親しみやすい庶民の感覚を持っている人間と一緒にいたほうが精神的に楽だ。
あと覚えていれば私に吐いた負い目もあるはず。げへへ。
使わせてもらうぜお坊ちゃん。お前には私が一人にならないためのパートナーになってもらう!
「承知」
「私の方が目下なので承知はやめてください」
◇ ◇ ◇
さて、もうパーティの時間だ……。
私は車窓から見えるずらりと並ぶベンツやらBMWやらの軍勢に若干引き気味だ。
「お嬢様、ここまで来て何が変わるという訳でもないんですから」
「そんなこと言ったって」
正直トイレに駆け込んで終わるまで閉じこもっていたい。こんな気持ちになるのは小学校のいじめ以来だ。つまりこれは私に対してのいじめと変わらない。
「お嬢様をどうこうできそうな偉いおじさんたちは大旦那様の息がかかってますし何もしてきませんよ。あとは若い礼儀も知らんじょーちゃんぼっちゃんの嫌味に堪えれば終わります」
「そ、そうよね……むしろ偉いおじさんたちは庇ってくれそうなものよね!」
「ですです。きっと守ってくれます。自分のクビをですけど」
翔平は胃がキリキリしたアライグマみたいな顔をして、私のためか砕けたおちゃらけた言い回しで励ましてくれる。……励ましてくれてるよね?
「お嬢様。早いとこ帰ってビールで無事帰れた祝杯あげましょうね」
「やっぱ翔平こっち側の人間だよね?」
「父と区別してるのかもしれませんが公式の場では間中でお願いしますね~」
そういうとハンドルを切って中へ入る。大きな門が頭上を越えていく。
数日前に訪れたときとは比べ物にならない緊張感だ。あの時さえ胃が痛かったのに、今では穴が空きそうだ。普段はそこそこ履いているピンヒールも、もしかしたら転けるかもしれないなんて思うと不安になってくる。
私の不安とは裏腹に、車はついには止まってしまった。
「さあ、お嬢様行ってらっしゃいませ」