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Episode1-2.再会


 兵士をやり過ごして進むこと、十数分。

 なるべく人気が少ない方を選んで来たが、どうにもここらへんの通路は記憶になかった。

「おかしいな……大抵探検し尽くしたはずだったんだけど……」

 さすがに七年も前のことは詳しく覚えていなかったらしい。

 だがここは人通りもないようだし、身を潜めるにはピッタリだ。

 気が抜けたのか、壁に背を預ける。

 やっと一息つけると安心しきった時だった。

 ゴト、と。

 ほんの少しだけ、聞き取れたかどうかも定かじゃない振動が背中に響いた。

「……ん?」

 恐る恐る、確かめるように振り向く。

 壁。

 何の変哲もない真っ白な大理石を積み重ねた壁。等間隔に並ぶ燭台には、真新しい蝋燭が差してある。

 今まで通ってきた通路と変わらない、ただの壁だ。

 振動を感じたあたりに手を伸ばし、指先でゆっくりと撫でていく。

 この国で最も精巧な造りのはずなのに、指先の感触には違和感があった。

 段差だ。

 大理石が一部だけ、周りの壁より沈み込んでいる。

 王国でもっとも重要な建造物に、そんな些細な設計ミスがあるはずもない。

 では何故だろうか。

 一瞬、脳裏を何かが駆け巡った。

 いや、待てよ。わかる。俺にはわかる。何故ならそうだ、俺はこの仕掛けを、この先にあるものを――


「――知ってる」


 奇妙な感覚だった。

 一種の集中状態に近い。思考しているはずなのに、思考している自分を第三者として知覚しているような錯覚。

 焦点がどこにもあっていない視界。

 脳だけが宙に浮く感覚。

 水中を揺蕩うような停滞。

 いや、そうじゃない……きっと理解できないんじゃなく、理解したくないんだ。

 全てを思い出すことは、とても恐ろしいことではないのか、と心の奥底で幼い自分が言っている。

 だが、それでも……俺は確かめなくちゃいけないと、そう思った。

 沈み込んだ壁の一部に手を当てて、指先に力を入れる。

 ギィ、と金属の擦れる音。

 直後、真横にあった燭台が、引いてくれと言わんばかりにその身を乗り出した。

 隠し扉だ。

 ゆっくりと燭台を掴んで、慎重に引く。

 石と石のこすれる音を鳴らしながら、一帯の大理石の塊が、ドアの形でくり抜かれるように開いた。

 目の前に現れたのは、窓も燭台もない、暗がりが続く通路。

 知っている。

 幼いころの探検中の出来事だった。

 潜入捜査のつもりで、巡回に見つからぬようにと身を隠しながら進んでいたところ、目の前を空の食器を持った使用人が通り過ぎたのだ。

 この先には特に目ぼしいものはなかったはずだった。

 それを確認しに行くと、案の定面白い収穫は無し。

 メイドの盗み食いの現場でも目撃したのだろうと、ため息を吐きながら、壁に背中を預けたときのことだった。

 あのときは、たまたま仕掛けの大理石に後頭部が当たったのだった。そう考えると俺の背も伸びた。

 問題は、その後だ。

 ずっと封じ込めていたもの。

 自分のすべてを覆しかねないほどの何か。

 あの日のことを思い出す。

 仕掛けに気付いた俺は、もちろん隠し扉を開き、この道を進んだはずだ。

 記憶はおぼろげだ……だけど、そう俺はこの奥で……何かを、いや誰かと出会って――




『――“指輪の契り”を知ってる?』




 思い、出した。

 呼吸をしばらく忘れていたかのように、大きく息を吸い込む。

 脳が、視界が、一瞬にして鮮明になる。

 胸を掴んだ。

 正確には、首のチェーンにかけたあの指輪・・・・を。

「思い出した……!!」

 駆け出す。

 暗がりをゆく。

 記憶が細部まで蘇ってくる。

 あの日俺は出会ったんだ。

 この宮殿の奥に閉じ込められた少女と。

 この国の誰からも忘れ去れていた少女と。

 もっとも有名な約束のおまじないすら知らない、あの少女と。

 服の上から、指輪を強く握りしめる。

 どうして忘れていたんだろう。

 あの絶望の最中でも。

 家も家族も財産も名声も……すべてが奪われていく中でも、決してこの指輪だけは手放さなかったのに。

 どうして俺は忘れていたんだろう。

 こんなにも、大切な約束を。

 通路が終わる。

 扉が現れる。

 子供のころは苦労したこの堅牢な戸も、今は軽い。



 開く。



 視界に映る光景と遠い日の記憶が重なる。

 天蓋から降り注ぐ陽の光の中心に、いつか迎えに来ると約束した少女がいた。

 鳥籠を連想させる円筒の部屋。

 ここは七年前と変わらず閉鎖的で、室内にあるのは生活に必要な最低限のモノと、数えるほどの娯楽だけ。

 違うのは、あの日は夜で今は昼だということと――この場所にいる二人が、七年の時を経て成長したってことだけだ。

 亜麻色の長い髪をふわりとなびかせながら、彼女は振り向く。

 姿が重なる。

 七年前のあの時と同じ。

 顔を突き合わせた、その瞬間。自分の中で止まっていたときが動き出した気がした。

 少女は一瞬驚いた顔を見せて、そして、

「……セ、ウロ?」

 振り絞るような声で、そう呟いた。

 心の中で、いくつもの感情がない交ぜになって、沸騰した水のように暴れている。

 それでも今言うべき言葉だけは、不思議と素直に浮かんだ。

「――迎えに来たよ、ティファ」

 もう一度胸を掴んだ。

 幼い指には大きすぎた指輪は、あのときからずっと鎖に通して首から下げたまま。

 それを制服の下から取り出して、良く見えるように手のひらに乗せる。

「遅くなって、ごめんな」

 彼女の顔はこれ以上ないくらいにほころんだけれど、一転してぎゅっと口を結んだ。

 すぐに耐えきれなくなった瞳から、大粒の涙が零れだした。

 慌てて近づくと、倒れこむように彼女が胸に飛び込んできた。

「ずっと、ずっと待っていました……セウロ……っ!!」

 涙に擦れたか弱い声が、強く胸を打つ。

 華奢な腕が力の限り俺の制服を掴んで、震えていた。

 再会できた喜びよりも、途轍もなく大きな罪悪感に襲われる。

 俺は、今の今まで忘れていたんだ。

 自分の不幸に抗うことに精一杯で、大切な約束を、見失ってしまっていた。

「本当に、ごめんティファ……こんなにも長い間、七年も待たせちまって……」

 すると彼女は顔を上げて、ゆっくりと横に振った。

 頬が触れあいそうな距離に、彼女がいた。

 明るい蒼色の瞳は、吸い込まれそうなほどに澄んでいて、息遣いが聞こえてしまう。

 ティファは俺と同じように、胸にさげた指輪を手のひらに乗せた。

「もう良いのです。こうやって迎え来てくれたことが、約束を守ってくれたことが、私はこの上なく嬉しい」

 そう言って笑う。

 ああ、あの夜を克明に思い出す。

 それは、俺を惚れさせた笑みだ。

 幼かった俺がレディを連れ出そうなんて言い出した理由はひとつしかない。

 一目惚れだったんだ。

 出会った瞬間に落ちたんだ。

 そして、再会した瞬間に気付いた。

 実に七年の時を経て、この恋慕の情へ、再び火がくべられたことに。

「なあ、ティファ。今更かもしれないけど、俺とここから――」



「ええ、ですが――ごめんなさい、セウロ。これはお返しします」



 声を遮ったのは、涙ながらに真剣な面持ちのティファだった。

 次の言葉を紡ごうとした喉が、締めつけられたように硬直して動かなかった。

 鼓膜を揺らした言葉の意味。瞳に映る「これ」と言われた物体。

 二人の間に流れる沈黙が苦しくなるぐらい時間をかけて、ようやく理解が追いついた。

 指輪は契りの証。

 それを突き返すということは、つまり、約束を反故にするってことだ。

「……私は、既にたくさんあなたに助けられました。あなたにとっては一瞬の出来事でしたでしょうが、あの夢のような一夜と、その証である指輪のおかげで、この部屋で星を眺めることしかできない辛い夜を、何度も何度も乗り越えられたんです――でももう、今の私にはこの指輪に縋ることは許されません」

 一歩、彼女はその身を引いた。

 温もりを感じるところにいたのに、今は手を伸ばしても届かない。

 その一歩はあまりにも大きく、深い溝のように俺と彼女の間を隔てた。

 そして、渡れない溝の向こうから、指輪を受け取れと言わんばかりにティファは手のひらを差し出す。

「私は、あなたと一緒には行けないのです」

 さっきまでの嬉し涙は、いつの間にか苦しそうな頬を流れて落ちていた。

「なん、だよ……それ。なんで、どうしてそんな顔をして泣くんだティファ」

 わからない。

 やっと迎えに来れたのに。

 やっと思い出せたのに。

「もう七年前とは違うんです……存在してはならなかったはずの私は、今になって、ようやく存在価値を得ることができました。こんな私にも、ここで生きてきた意味が、これから生きてゆく価値があったんです。だから、行けません」

 その顔は、苦しみや悲哀を超えた、決意に満ちていた。

「貴方を待ち続けられなくて、ごめんなさい」

 既に、彼女は決断していた。

 待たせていたのは俺の方だ。ティファが謝るのはおかしいと、そう言いたかった。

 けれどその宣告は俺にとって、一切の会話すら許さない拒絶のように感じられた。




 『王のご子息は、双子だったのではないか?』

 王子の出産の際、お妃様は妊婦にしても大きな胎で、体調を崩されることも多く、難産だったと聞く。それを目にした多くの人が口にし、一時期は噂となって首都を賑わせた。

 古くより双子は忌避されてきた。一度に二人以上も子を産むというのは、家畜を連想させるからだと言う。

 片方は死産されたことにされたり、捨て子にされたり、なんてことはよくあること。

 しかし、血族であることが重要視される王族という狭い狭い枠組みの中でそれが起きたら、一体どうなるのだろう。

 しかも、子宝に恵まれなかった王が、老年にしてようやく授かった嫡子であったのなら?




 鳥籠ここがその答えだ。

 何倍にも膨れ上がった“血”の価値は、そう簡単に切って捨てられるものじゃない。

 だが王族という性質上、それを受け入れ、高貴な血筋を汚すことも殊更憚られた。

 そうして存在を抹消された片割れはここ、監獄と変わりない石造りの鳥籠へとたどり着いたのだ。

 それが、俺があの後知った昔の噂であり彼女という存在の真相。

「どうしてだよ、ティファ。お前はずっと辛い思いをしてきたはずだ。この狭い部屋の中だけで、兄の保険としてただ生きることだけしか許されない人生だったはずだ。生きる喜びをまったくと言っていいほど知らなかったから! だからお前はあのとき俺と“約束”したんじゃないのか!!」

 思わず、顔を背けてしまう。

 苦しかった。

 救いたいと思った少女が、理不尽に虐げられていることも。

 ティファニアが、それを理不尽だとも思っていないことも。

「“生きる価値があった”だなんて言葉を……そんな苦しそうな顔して言うなよ……!」

 想い人にそんな顔をさせてしまう、自分の無力さも。

 ティファは目を見開いた。自分がそれほどまでに表情を強張らせていたことに、やっと気づいたんだろう。

 彼女はそっと自分の頬に指先で触れ、痛々しい笑顔を、無理やりに作って見せた。

 その頬をまた、涙が流れる。

「セウロ……やっぱり、貴方はすごい人です」

 彼女は手のひらの指輪を、両手で包むように握りしめた。

「あなたには救っていただくばかりで、本当に、いくら感謝しても足りないですね……ええ、だからこそ、やはり私は行けないのです」

 ティファは、顔を上を向けた。

「私の価値をお教えします」

 天窓を、その先にある天空を見据える姿は、そらへと祈りを捧げているようにも見えた。

「この狭い部屋の中で私にあったのは、高い天窓と遠い星空だけです。あなたを思い出しながら。あなたの教えてくれた、この部屋の外に広がる素晴らしい世界を思い浮かべながら。自分もいつか、そんな世界をこの目で見られるのだろうかと夢見ながら天を仰ぐ――それを、空から見つめ返す存在・・・・・・・・・・があったと言ったら、あなたは信じてくれますか?」

 ぞわり、と身の毛のよだつ感覚があった。

 俺にはマナを探る術が一切ない。

 それでも、ティファの周りに迸る何かを肌で感じた。

 彼女のドレスの裾がふわりと浮いて揺れる。

星乙女アストライアは私をまじまじと見つめてこう言いました。『余りに不憫な娘よ』と『怒りはないのか。恨みはないのか。このまま果ててしまう恐怖はないのか』と……そして最後に、『見るに見かねて降りてきてしまった』と私の目の前でそう微笑んだのです」

 物理的に干渉するまでに濃いマナが、円筒状の部屋を満たしていた。

 発生源は、目の前にいるお姫様から。

「“神との契約テウルギア”を知っていますか? 精霊は契約により召喚され、神は契約により力を託す――私は、星乙女に見初められてしまったのです」

 部屋に並ぶ数少ない家具。その内、最低限のペンとインクと紙しかない机から、ティファは一枚の紙を拾い上げた。

 星図。

 また一枚、拾い上げた紙にもまた星図。

 また一枚。手を離れ、ふわりと床に落ちる。

 また一枚。

 また一枚。

 また、一枚。

 太陽の輝き。月の満ち欠け。惑星間の位置関係。流れ星の数。一等星の明滅。宙の北の果てを中心として、そこに描かれていたのはこの空全ての星の動きだ。

「一切の知識もなく、狭い天窓に切り取られた一部の星空しか見ることの出来ない。そんな私がこの星図たちを生み出せたのは、私に宿った、神の力の成せる業です」

 占星術。

「星の巡りはこの世の巡りを映す鏡のようなモノ。正しく読み取ることが出来れば、その力は“予知”そのものとも言われています」

 通説では星の流れはこの世全ての吉兆を示し、緻密な占星術はこの世全ての事象の流れ、理を読み解くことが出来るという。

 ティファの話を信じるとするならば、彼女は星の神託を受け取る巫女として神に選ばれたということらしい。

 通常なら到底信じられないことだが……残念ながら、信じるほかにない。この部屋から見えるのは、天窓に切り取られた狭い円だけだ。

 加えて、信じられないものが、目の前の星図には書き記されていた。

「三日後……八日後……三十一日後……十四日後…………明日」

 日付だ。

 そこに記されてあった日付はすべて、今日よりも先のもの。

 未来の星図だ。

 一人ででたらめをこれだけ書き連ねることに意味などない。

 そしてここで起きたすべてのことがあまりにも、真実味を帯びている。

 彼女を起点に起こるマナの風が、一瞬だけ激しくうねり、彼女へと収束する。

 床に散っていた幾重もの星図が舞い踊った。

 星図は再び床に散らばって沈黙し、部屋に静けさが通る。



「――そう遠くない未来に、全世界を巻き込む戦争が起こります」



 彼女の表情は、真剣そのものだった。

「私が星を詠んで一番初めに知ったことが、それでした。そして、その戦いに王国が勝つためには、私の星詠の力が必要不可欠です。……だからもう、私はあなたとは一緒に行けません」

 言葉を紡ぐ度、抑えきれなくなった感情が止め処なくて、小さな肩が震えていた。

「必要と、されているんです……生まれてこなきゃ良かったって、そう思われていた私が、そう思っていた自分が。お父様に、お母様に、お兄様に、『お前の力が必要だ』って、そう言って貰えたんです。だから、だから……私は……」

 そこで、ティファは膝から崩れ落ちてしまった。

 胸が、張り裂けそうなほど締め付けられている。力いっぱい指を食い込ませても、痛みは鳴りやまない。

 ……こんなことが、許されるのだろうか?



「おかしい、だろ……そんなのおかしい!!」



 声を荒げて叫んだ。

 彼女の両肩を掴む。

「ティファ!! お前はまだ、見たこともないんだろう?

 西のヴァレンツ連山に落ちる夕焼けも!

 南のフィフト湖を囲む雄大な自然も!

 東のシエラ平原に見渡す限りの地平線も!

 北の内海に浮かぶ大きな世界樹が、ほのかに淡く光る夜だって……!

 全部、ぜんぶ……見たことないんだろ!?

 外に出て、自由になりたいって、思わないのかよ……!?」

 いつの間にか俺も涙を堪えきれなくなる。

 こんなにも狭くるしい場所に閉じ込められてきた女の子が、このままで一生を終えてしまうなんてことが、許されるわけがない。

 血がなんだ。

 能力がなんだ。

 こんなにも切ない人生があってたまるか。

 人は自由であるべきだ。



 その言葉がそっくりそのまま、刃を返して自分へと突き刺さる。



 同じものに縛られている彼女を目の当たりにして、ようやく大切なことに気付いた。

 ようやく、自分が自分自身を縛り付けていることに気付いた。

 王家の望まれなかった姫君と、四大貴族の無能息子。

 無能ゆえに家へ縛られる俺と、有能ゆえに家に縛られる彼女。

 俺たちは、似た者同士だった。

 けれど、誰にも求められることなく、誰を求めることも出来ず、ただひたすらにここで生かされるだけだった彼女の絶望に比べたら、俺が受けた仕打ちなんてものは、何てことはない。自由を選べなかった彼女に比べたら、自由を選ばなかった俺なんてただの大馬鹿者に過ぎない。

 涙を溢しながら、彼女は言った。

「――外に、出たいです」

 顔を上げる。

「私だって、自由になりたい! あなたと一緒にここから逃げ出したい! でも、でもだって! 私がやらないと……私が授かることの出来たこの星詠チカラで、王国を守らないと……あなたが綺麗だって教えてくれた風景が失われてしまうかもしれない! あなたが感じて、私に気付かせてくれた自由だって無くなってしまうかもしれない!

 私のわがままでそれを、あなたの宝物を、奪ってしまうことの方が、耐えられません――私はずっと、あなたと、あなたの言葉だけを、頼りに生きていたんですから……!」

 彼女の瞳は、真っすぐに俺を見据えていた。

 この澄み切った蒼色の先に、確固たる想いがあった。

 こんな鳥籠の中でどうやって身に着けたのか、想像も出来ない強かさがあった。

 見つめ合う。

 逸らさずに受け止める。

 彼女はもう曲げない。それがわかってしまった。

 ため息をひとつ吐いた。もう残された手段はこれしかない。

 彼女を救う手は、ひとつしかない。

 もう一度、その瞳に映る決意を見た。


 それを忘れないように、自分の瞳に焼き付ける。



「おい! もう一人の候補生はまだ見つからないのか! 早く見つけ出して王宮から摘み出せ!!」



 微かに、屋外から声が聞こえた。

「前と同じだな……大事なところで邪魔が入る。まったく……」

 ならば、こっちも同じようになぞるだけ。

 ここに留まっていれば見つかってしまうのは時間の問題だろう。

 その前に、せめてひとつだけやらなければいけないことがある。

「ティファ」

 手を伸ばす。

「……いけません、セウロ。私は貴方を――」

 その言葉を遮るようにして、手のひらを閉じた。

 握った拳。中指にはめたのは、指輪。

 モルゼントゥール王家の紋が入った、七年前から肌身離さず持っていたこの指輪。

指輪これ……まだ、預かっておくから」

「……え?」

「“契り”は継続! だからお前もまだ、まだもう少しだけ、待っていてくれないか?」

「そんなっ、無理です! いつだろうと、私が戦争を放棄してここから出るということは、王国を敵に回すことにも等しいもので! そ、それに私はもう守ると決めて……!」

「ティファの事情と気持ちは、よぉくわかった」

「なら……!」

「なら!! 俺ら二人の邪魔をするその面倒事を、片づけちまえばどうだ?」

 拳を突き出して、先端の指輪を見せつける。

「その戦争、俺が終わらせる」

 彼女が差し出した指輪と、紋章を突き合わせる。

 久しく見たスペード家の家紋。

 そこに、もう未練はない。

「俺、魔術師団の候補生になったんだ。今すぐにとはいかないけど、死ぬほど努力する。兵士として力をつけて、出世して、師団長クラスに上り詰めて、王国を、お前を守るために戦って、そして俺が戦争を終わらせる。全部終わって世界がずっと、お前が星を詠まなくてもいいくらい、平和になったら――」

 心が、驚くほどに澄んでいた。

 オレが家を潰したんだと、オレが責任を持って取り戻さないといけないんだ、と。

 今まで長い間心を苛んでいた焦燥は、どこかへ消えてしまっていた。

 それはきっと、自分が心からやりたいことを、見つけられたからだと思う。



「――そのときまた、迎えにくるから」



 ティファニアは言葉を失って、ただ俺を見つめていた。

 その頬に触れて、涙をぬぐう。

「また遅くなっちゃうかもしれないけど……待っててくれるか?」

 頬に触れた手に、ティファも手を重ねた。

 彼女の指先が、軽く指輪に触れる。

「そんなの、ずるいですよセウロ……ここで待つしかない私には、貴方を止める手立てなんてないじゃないですか……」

 彼女の両手が優しく俺の手を包んだ。

 そして口元に添えて、中指の指輪にそっと、触れるだけのキスをした。

「待っています、ずっと、ずっと……いつか本当に、あなたを拒まなくてはならない理由がなくなってしまうまで……ずっと」

 雨の上がった笑顔は、やっぱり飛び切り美しかった。






 城内を走る。

 息を切らせながら、七年前から今までのことを思い出していた。

 ずっと、すべてを失ったとばかり思っていた。

 父が亡くなって、才能のない俺のせいで、将来を無くした家は没落して、大切なものすべてを失くしたと。

 帰ればそこにあった暖かさも

 楽しいと思っていた遊びも

 美しいと思っていた風景も

 当たり前に夢見ていた将来も

 すべて、なにもかも失ったと


 そう思っていたのに。


 俺にはまだ、大切な約束が残っていて、 

 それをずっと、忘れずに信じてくれていた人がいて――


 何もかもを失ったと感じたあのときから、何一つ変わってやしないのに。

 結局これからやることだって変わらないっていうのに。

 心にひとつ、何かを取り戻した気がした。


 家の復興なんてそもそも、俺にできるわけがない。俺にできないから、家は没落したんだ。

 でも、今はそうも言ってられない。才能がなくたって、やるしかない。

 最後に取り戻した、たった一つの約束だけは、何があっても守らなきゃならないから。


 力が要る。


 すべてを覆せるくらいに、大きな力が要る。

 執着するために、じゃない。

 復讐染みた目的じゃない。

 自傷し続ける茨の道でもない。

 

 大切な約束を守るため。

 惚れたひとの未来のために。




「ハァ……ハァ……」

 息が限界だ。ティファに別れを告げて、あの部屋を後にして、それからずっと走りっぱなしだ。

 思考しながら走ると、いつもより呼吸が苦しい。

 兵士の声と足音、鎧の音を避けてがむしゃらに走ってきた。昔の曖昧な記憶はもう当てにならない。

 この宮殿から脱出するには、せめて自分の今の位置を把握しないと。

 長い廊下を抜ける。

 足を止めた。

 そこは、静かだった。

 ざわめきや喧騒も、王宮に響く歌声や演奏も、何もかも聞こえない。

 宮殿の中にあって、もっとも静かな場所だった。

 いや、単なる静けさではなく、品格のある空気がそこには漂っていた。

 聞こえるのは自分の息遣いだけ。それすらもうるさくって、控えなければならないと思ってしまう。

 自然と、呼吸を整え姿勢を正す。

 半円に並んだ鮮やかなステンドグラスを通して、部屋に差し込む日の光が広間を明るく照らしていた。

 並ぶステンドグラスの数は十三。少し大きめの一枚を中央に、半円状に6枚ずつが左右に開く造り。

 一目見てすぐに200年前の伝承を思い出した。

 始祖と、十二使徒がモチーフになっている。

 広間の中央まで歩く。


 そこから部屋の奥へと、向き直った。

 王座。

 ステンドグラスを背に、広間を見渡す高さにある、豪奢な座椅子。

 三千万人を超える人口と、シエラ大陸中央部を統べるモルゼン・トゥール王国。その、国王のみが座ることを許される場所。

 この王座の間に入ることすら、並大抵の人間には許されることはないはずだ。



「――王座に、興味があるのですか?」



 背後から声がした。

 そこいたのは、純白のローブで着飾った、痩躯の青年。

 近衛兵の身体つきではない。帯剣すらぶら下げていないところを見ると、王宮の関係者か、王族の関係者のどちらかだろう。凛とした佇まいと身に着けたものから気品が感じられるため、後者だろうか。

 自然体で、無害そうに笑いかけてくる様子を見るに、少なくとも、俺を捕らえようとする意志はないらしい。

「いや……そんなものは、どうだっていいよ」

 素っ気なく答えると、何を思ったか男は楽しげに笑った。

 ローブを揺らしながら近づいてくる。

「ふむ……王の持つ権力より、何か価値のある探し物でも?」

 権力なんてものがいくらあっても、もう遅い。覚悟を決めてしまった彼女を説得することはできない。

 だから、やっぱり俺に必要なのは、もっとシンプルなものだ。

「たった一つ、約束を守るだけの力が欲しい。今は、それ以外に何もいらないってだけだ」

 戦いに勝利する。

 この時代に、俺がそれを願うことが、どれほど困難であろうと。

「それは奇遇ですね。私も同じです」

 男は、今度は柔和に笑った。

「私は王座よりももっと高いところにある――あれを見に来たのです」


 剣。


「これから時代は大きく動きます。そんなときにこそ、あの剣を抜くものがきっと現れるではないかと思いましてね」

 男の眼差しは、王座の上に設置された岩に突き刺さる剣へと向けられていた。ステンドグラスを通して差した日光が、七色を帯びてその剣を目掛けて交差する。

 幻想的な光景に、目を奪われた。

 視線を隣へと移す。きっと男も見惚れているのだと思ったのだが、その瞳が見据えるものは、もっとどこか遠く――栄光を手にした過去か、それとも絢爛と喧騒に荒れる未来か――きっとここではないどこかだと感じた。

「あの剣の担い手を待つことが、私に遺された“約束”なんです」

 そう言って彼は、無意識に右手の指輪に触れたように見えた。

 その剣は異常だった。

 刃から、鍔、柄に至るまでその全てが眩い純銀。受ける陽光が幾重にも虹を紡いで内包されてゆくような、幻想的な佇まい。

 名のある剣だろうに、装飾は一つもありはしない。ただ機能だけを突き詰め、それゆえに一層瀟洒で煌びやかな一振り。


 その輝きが、俺の瞳に飛び込んだ。


 太陽を見上げるような光量が、両目を満たす。

 けれど不思議と、眼を閉じる必要は感じなかった。

「なあ、アンタ」

 ぶっきらぼうに呼びかける。

「ええ、なんでしょう」

 運がいい、と漠然と思った。

 こんな近くに、お誂え向きなモノがあるなんて。

「アレ、なんて呼ばれてるんだっけ」

 問いかけるのと同時に、歩き出す。

 王座へと、そしてその奥へと続く階段に、足をかける。

「“英雄を待つ剣”、ですよ」

 王座よりそれが高いところにあるのは、国王よりも重要視されているということの表れだ。

 切り出された岩に深々と突き刺さったそれを目の前にする。

 依然として、そいつは俺の瞳に光を注ぎ続けた。

 まるで、呼びかけるかのように・・・・・・・・・・

「それは刀匠でもあった使徒と始祖が二人掛かりで打った最後の一振り。この剣の真の担い手になったものは、世界を変えるほどの偉業を成し遂げるとなるだろうと言い伝えられたものです。真の英雄足り得るものでなければ引き抜けず、真の英雄成り得ぬものには、刃を翻す」

 この国で一番、もしかすると、この世界で一番の“力”を手にするには、これしかない。

 陽光を辿り、目の前にあった巨大なステンドグラスを仰ぎ見た。

 世界樹を背に両手を広げた始祖が描かれている一枚。


 ――抜いてみろ。


 虹の陽だまりからもう一度、ギラリと剣がひかりを撥ねた。

 柄を、掴む。

「いいんですか」

 男がこちらを見上げた。

「それには人々が待ちわびた、“英雄”という名の願いが込められている。あなたはその希望に足る人物ですか?」

 確かめるように、男は問いかけた。

 けれど、俺にはそんなこと、どうだってよかった。

 だから、一笑に付して、こう言ってやるんだ。

「本当に英雄になれるかどうか決めるのは、この剣でも、アンタでも、始祖でも、他の誰でもない――引っこ抜いた、そいつ次第だろ?」


 金属の鳴く音がした。


 全身全霊の、力を込めた――その手の中に、あの、世界樹の淡い輝きを詰め込んだような光を放つ、澄んだ銀色の刃があった。









――かくして、一人の少年は、英雄への道を歩き出しました。

――彼は自らの欲望による目標ではなく、ただ一つの約束のために、命をかけることを選択したのです。

――厳しくも険しいその道を、まずは、一歩。

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