Episode15-1.帝国強襲
道もない道を走る。
落ち葉の積もった山の中腹。木漏れ日がまばらに差し込む昼下がり。
埋もれかけた岩を跳び越えて、少しでも早く走る。
また遠くで悲鳴が聞こえ、ひとつの生命核の反応が失われた。
身がすくむ。
あれは、誰の生命核だっただろうか。記憶を照らし合わせると、同期の顔が浮かぶ。
呼吸が荒くなる。
落ち着けユージーン、と自分に言い聞かせる。
この非常事態において、僕に出来ることはなんだ。少しでも被害を抑えないといけない。一人でも多く生き残らなければならない。
そのためには、まず会敵しないことが最優先だ。
出会えば殺される。敵は手練れだ。訓練のレベルじゃない、実戦の経験を積んできた正規の兵だ。各国の情勢を考えれば、おそらくは帝国守護聖騎士団。候補生の僕らが勝てる相手じゃない。
戦わないこと。それが上策。
そして、もうひとつやるべきことは――――
Episode15.帝国強襲
「バジル! 無事か!?」
「ユージーン、キミこそ! いやはや想像もしなかったよ。キミの顔を見て安心する日が来ようとはね……!」
こっちのセリフだよ、とバジルの皮肉に返答するが、心に余裕はなかった。
周囲で仲間と確信が持てる生命核と合流を図った。その相手がたまたまバジルだったというわけだ。
贅沢は言ってられない状況だし、敵と比べたら百倍マシだ。
「キミのチームメイトはどうした?」
息切れを落ち着かせながら、バジルが尋ねてくる。
あまり、思い出したくはない映像が脳裏を過った。
「一人の敵兵を倒せすのに、三人掛かりで……二人の犠牲が出た。僕が生き残ったのは、偶然としか言えない」
バジルも渋い顔をしながら「こちらも似たようなものだ」と言い、先を続けた。
「ボクが遠距離から魔術で援護する役割じゃなければ、ここに来たのはきっと別人だっただろうね」
どちらも、チーム唯一の生き残りだった。
バジルの話を聞いて、やはり戦うという選択肢はないと思い知らされた。
僕たち候補生が、この山に潜んでいる敵兵たちに勝てる見込みは少なすぎる。
結論は出た。
「バジル、僕らが出来ることはひとつしかない」
顔を上げる。
彼とこんな真剣な表情で見つめ合ったことが、過去にあっただろうか。
今は同じ王国魔術師団の候補生として、力を合わせる時だ。
「山の麓のベースキャンプで待機している、訓練同伴の第三魔術師団分隊に報告だ。麓から山中までの距離じゃ、誰もマナ探知出来っこない。きっとまだ、事情には気付いてない」
「ああ、ボクもそう思っていたよユージーン。大事なことは被害を最小限に食い止めること。候補生のボクらではなく、王国側も正規兵が介入する。非の打ち所のない、全く持って合理的な判断だとも――」
回りくどい言い方をしながら何度もうなずくバジル。
その声色が、がらりと変わった。
「――だが、麓への報告にはキミひとりで行け」
二人の間に、心を探り合うような沈黙が流れた。
彼の言葉を受けて、ボクはゆっくりと首を横に振った。
バジルと建設的な会話をしたことも初めてだが……最後の最後まで意見が一致したことも、初めてのことだろう。
「その口ぶりだと、気付いてるみたいだね」
「ああ、もちろんだとも! ここで会話をしている時間すら惜しい」
マナ探知。
記憶にある生命核は、ほとんど消えてしまった。
つまり、既に多くの生徒が敵兵に殺されたということだ。
それでも、まだ助けが間に合う範囲に残っている反応が、近くに二つ。
無視していくわけには、いかない事情がある。
北東と南西。奇しくもここからそれぞれ正反対の位置だ。
帝国強襲。殺される同期生たち。まだ助けられるかもしれない仲間。
息がつまるような重苦しい状況に耐えかねて、大きく空気を吐き出した。
「ふー……なんとも、のっぴきならない状況だね」
「何を言ってる。立ち止まっている暇はない。第三師団分隊への報告と、今まさに命の危機に瀕している同期への助太刀。どちらも最優先事項だろう! すぐに動かなければ……」
「うん……状況は一刻を争う」
感じられる二つの生命核は、どちらもいつも身近にあった親しい存在だ。
仲間の生命核の近くに敵兵の生命核。会敵まで幾ばくの猶予もない。
事態全体の収束のためにすべきことは理解している。それを差し置いてでも、自分だって殺されるかもしれないってわかってても、目の前にいるこの意地っ張りな同期は、「仲間を助けに行く」って言ってるんだ。
……ああ、やはり君は不器用ながらも、憎めないヤツだよバジル。
「わかった。わかったよバジル。君を止めることはしない……けれど、君も僕を止めるな」
僕だって気持ちは同じだ。
無謀で、愚かだけれど、決心をした。
「彼女たちをここで見殺しにはできない。だから僕らは麓への報告ではなく、無謀にも仲間を助けに行く」
「ふっ、いつもクールぶっていていけ好かない奴だと思っていたが、見直したぞユージーン! だが訂正させてもらおう。“無謀”は余計だと」
その顔には冷や汗が見える。
僕に強がってどうする。無理してるのが、バレバレだよバジル。
あまりにも無謀だと、理解はできているんだ。
だが、それでも僕とバジルの腹は決まった。
「しかし珍しいなユージーン。キミと意見が合うというのは」
「こんな状況だからね。大切なのは、僕らが引きずってる過去じゃない。ここを生き残った後の未来だ」
「……良いことを言うじゃないか」
彼に感心されるというのは、妙にこそばゆい。
同期を助けに行くこと意見は合致した。
しかしもうひとつ、無視できない難題が残っている。
それを、彼へと容赦なく突きつけた。
「そう、これは未来のための決断だ……だからバジル、君がどちらを助けに行くかは自分で決めろ」
その言葉に彼は黙って目を見開いた。
面食らった顔を見るに、その言葉の意味は正しく伝わったらしい。
だが敢えて、具体的な言葉にしておく。
「パティとカチュア。今にも敵兵に殺されるかもわからない二人のどちらを助けにいくか、君自身が選択するんだ」
息をするのも忘れたかのように、バジルは固まったまま。
「安心していい。君が選ばなかった方は、ちゃんと僕が助けにいくから」
「……癇に障る言い方だが、なにが言いたいユージーン。人の命を天秤にかけるような真似などしない。ただの役割分担に何を……」
違う。
これは意地悪でも倫理の問題でもなく、彼らにとって必要なことだ。
「目を背けるなよバジル。ここで君はパティかカチュアを選ぶべきだ。僕の選択に流されることなく、自分の意思で決断するべきだ」
バジルは悪態のひとつも言えずに言いよどむ。彼はそのまま歯ぎしりしながら、拳を強く握りしめた。
大切にしてきた妹のような存在か。
それとも好意を寄せている女性か。
「大事な人を、生半可な気持ちで助けになんて行くな」
その言葉で彼は自分の内の何かと戦うように、目を伏せた。
バジルとカチュアの間に何かがあったことは、同期の誰もが気付いていた。
いつも一緒にいた二人が、暗い顔で授業も食事も別々に過ごしていたら誰だってわかる。彼らの関係性を考えれば、バジルがカチュアを突き放したことやその理由も、易々と想像できた。
あれからのバジルは、正直見ていられなかった。
それはきっと、心で整理がつけられていなかったからだ。
自分がやったことは本当に正しかったのか。彼女が道を閉ざしたとき責任をとれるのだろうか。
あの時の自分の選択。そしてこれからの自分とカチュア。
何が正しいかわからず、がむしゃらに素振りをするその姿は――まるで、僕が隣で七年間ずっと見てきた、どっかの誰かさんによく似ていた。
ああいう手合いを見るのは、もう御免だ。
まだ取り返しがつく今なら、無鉄砲に剣を振り続けることはない。
セウロと違う点は、まだカチュアは取り戻せる場所にいること。
ここで選ばなかったら必ず、取り返しのつかない後悔を引きずることになるから。
遠くで戦闘の轟音が響く。
少しの間、微動だにせず顔を伏せていたバジルが、こちらを向いた。
言葉はなかった。
ただ僕の目をみて、一度だけ頷いた。
目を見れば会話をしなくても、決心がついたかどうかくらいはわかった。
トン、とバジルは拳を僕の胸に乗せるように、軽く叩いた。
短い呟き。
「礼を言う……そちらは任せたぞ」
それに僕も頷きだけを返す。
そうしてバジルは、わき目も振らずに南西の方向へと走って行った。
僕はそれを少しの間だけ見届けて、反対方向へと急いだ。
ああ、やっぱり礼なんてこそばゆい。バジルには似合わない。
次に会うことがあればまた……元気で憎らしい物言いが聞けるといいな。
◇◇◇◇◇
敵兵を避けて山道を進む。マナ探知で周囲の相手の動きがわかるということは、当然相手からもこちらの動きが筒抜けだ。
彼女のいる場所までの道のりに、会敵の可能性がある兵が一人。
しかし幸か不幸か……別の相手が兵に捕まって、僕自身は事無きを得た。
それが良かったかなんて、わからない。
歯を食いしばった。
もっと僕が強かったのなら、彼も助けることが出来ただろうか?
わからない。
僕には、目的地に向けて走り続けることしかできなかった。
彼女すら助けることができるかどうかわからない。
それでもバジルと僕は決心したのだから。
どれだけ無謀であろうとも、命を懸けてやるだけだ。
もうじき、目的地にたどり着く。あと100メートルかそこらか。
マナ探知で探ると、状況は悪化していた。
三つの生命核が、夜空に瞬く一等星のように明滅している。魔術行使の反応だ。
戦闘は既に始まっていた。
二人の敵兵らしき反応が彼女のすぐ傍にある。彼女は魔術を使って対抗し何とか持ちこたえているというところだ。
一刻も早く、と勇んで飛び出そうとした時だった。
「っ!」
急ブレーキをかける。
つま先近くの地面が少し砕けて、パラパラとその先へと落ちた。
15メートル下へと。
崖だ。
ああ、マナ探知の盲点……忘れていた。
マナ探知とはそもそも、自分と自分以外のマナの距離や属性を感覚的に捉える技術だ。
基本的に魔法・魔術の才能があれば、副次的にその感覚が備わっている。
マナが大きく近い距離にあるほど、強い反応。マナが小さく、遠い距離にあるほど弱い反応。
実戦では相手や仲間の魔術師の生命核を探知し、戦況を理解していくことになる。
各兵士を認知できる探知機として機能し、この技術無くしては魔術の飛び交う戦場では役に立たないと言われるほどだ。
その、難点がひとつ。
自分から他のアニマまでの直線的な距離を、感覚頼りでしか認識できない。
マナ探知にばかり気を取られて、地形との齟齬を起こす。
いわゆる、探知盲点だ。
距離だけを意識するあまり、実際に自分と相手の間にある物理的障害物、高低差、罠などを見落としてしまうこと。
僕は先ほど、目的地までの距離を100メートル先だと認識していたが、実際は85メートル先、15メートル下だった。
授業でやった初歩的な魔術地形戦の知識だ。実際の自然環境の中では、自分と相手の間に、何の障害もないことの方が少ない。視界の開けた平野以外では当たり前だ。
山地での実地訓練ではまず念頭に置くべきものだったのに……!
緊急事態のせいで、訓練のことなんか頭から抜けてしまっていた。訓練の知識や経験は、実戦のために積んできたんじゃないのか。
15メートル先と、15メートル真下ではまるで状況が違う。
残念だが、用意していた奇襲の策のいくつかは無駄になってしまった。
崖の下を覗き込む。
木々の開けた広場のような空間。そこにあったのは、人ひとりをすっぽりと覆った水の球形と、それに攻撃を加える二人の敵兵。装いを見るに、敵は帝国騎士だという予想は正しかったらしい。
やはり応戦中だ。
アレは水属性のみが操れる攻防一体の迎撃機構、『装威水繭』。
自分の周囲で展開する魔法としては水属性が最適だ。火や風や雷では物理に乏しく、土では柔軟性に欠ける。
水属性は多彩で応用が利く属性だ。
敵二人に対してよく持ちこたえている。しかし、装威水繭のマナ操作範囲は目で見える範囲を超えて自分の全周囲の球形。さらに加えて相手からの攻撃に対して破裂しないように、適切に水-活動、水-不動、水-変化と三種の詠唱のブレンドを調節し続けなければ維持できない。
あんな高度な魔術を長いこと続けて、もう彼女の精神は極限状態にあるだろう。感じる生命核も消耗して、か弱い。
「おい! 崖の上、仲間がいるぞ!」
この距離だ。もちろん、相手のマナ探知にだって引っかかる。
数は2対2の互角。魔術師としての実力は……こちらへ向かっているときから探知で気づいていた。完全に相手が格上だ。
それなら、優位に立つ方法は一つしかない。
目の前が崖だろうがなんだろうが、これ以上回り道をしている時間はなかった。
既に、バジルと話したときに腹は決めた。これくらいどうってことない。
2歩後退。
候補生の僕らでも、帝国の騎士兵に勝つ方法はある。
助走距離確保。
実力で勝負しても勝ち目はない。ならば、実力以外の術を武器にするしかない。
翔ける。
奇襲、奇策、なんだっていい。
“相手の想像を上回り続けること”。それが僕らの生き残る唯一の道だ。
崖から、飛び降りた。
「パティ!! 行くよ!!」
彼女もまた、マナ探知で僕に気付いて居るはず!
15メートルの落下。
息を止め、水の球形に飛び込んだ。
水の弾ける音に沈む。
直後、すべてがガラス越しに聞こえるような、心地よい音の閉塞。
敵の怒号も、攻撃魔術の荒々しい音も。全ては遠い地の出来事のような。
ここは、狭苦しい一人用の砦だ。
その真ん中で、パトリシア・シャントルイユと顔を見合わせる。
ノックもせずにお邪魔したことは、悪いと思ってる。
それでも、謝罪をする時間なんてない。
敵は装威水繭の外、すぐそこにいる。
詠唱が乱れて球の形が歪にねじれる。
当たり前だ、人が一人真上から飛び込んできたんだもの。しかも僕を弾かない様に調節もしてもらったはず。球形の維持なんてやってられない。
けれど、ちょうど良かった。
もう、ここに彼女を引きこもらせておく必要はないんだから。
水浸しの中心で、僕は彼女に口の形だけで合図した。
『は』
『ん』
『げ』
『き』
『だ』
パティは一瞬目を見開いた。けどすぐに覚悟を決めた表情で、力強く頷いてくれた。
詠唱が反転する。
安定を命じていた言霊が、乱れ狂えと声を荒げた。
「Kether-gimmel-Tiphereth!!」
秩序を失った水球が、更にパティの詠唱を受けて暴れるように派手に弾けた。
渦巻く乱流。
近くまで迫っていた敵兵は咄嗟に回避を試みるが、到底間に合わない。
栓を抜いた桶の中のように、渦を巻いて広がる水流に飲まれていく。
渦の中央の空白でその光景を眺めながら、僕とパティは地面に降り立った。
チャンスはここしかない。
手を離した水の乱流はやがて威力を失ってしまう。
彼女と言葉を交わすことなく、僕は着地と同時に地面を強く蹴った。
一目散に向かった先は、間近に流れ着いた片方の敵兵。
短い間とは言え、上下左右がわからなくなるほどの激流に呑まれたんだ。平衡感覚と呼吸は大荒れ。どれほど屈強な戦士だろうと、すぐには立ち上がることすらままならないはず。
「ごほっ……ごっ!?」
兜を持ち上げ、飲み込んだ水を吐き出す騎士。
疾駆。
抜刀。
構え。
躊躇も、容赦も、してる余裕はなかった。
敵がこちらに気づいて、槍の柄を地面につき、立ち上がろうとした瞬間。
持ち上げられていた兜と鎧の隙間。
そこへ、一閃。
口から漏れだす液体の色が、鮮やかな赤へと変わった。
直後、頸の傷から血液を噴き出して、ひとり目が倒れた。
「貴様ッ、よくもぉおおおお!!」
右手からもうひとり。
詠唱が聞こえた。創世機構の経路は火属性か。
剣に灯った炎が、一振りで蛇のようにしなり、襲い掛かってくる。
手段は選ばない。
今しがた首を絶って果てた死体の胸ぐらを掴む。
死体の背の鎧と、しなる火炎がぶつかって弾ける。
轟音。燃焼で歪む景色。
大した威力だ。まともに食らってはひとたまりもない。
「何ということを……貴様、セルゲイから手を放せ! 武人として恥と思わないのか!!」
仲間の死体を前に躊躇うかと思ったが、流石は帝国騎士だ。冷徹なのか任務に忠実なのか。
敵の詠唱に力が籠る。
火炎は消えることなく、何度もこちらを襲った。
防戦一方。この距離じゃジリ貧だ。
「悪いな、とは思ってますよ」
敵兵の死体を盾に、炎を弾きながら真正面へと突き進む。
恥だって? 説教ならあの世まで待ってくれないか。
今はそれどころじゃない。
格上相手に勝つには、想像を超えていくしか手はないんだ。だったら汚くても、無軌道でも、なんだって利用して、手段で上回るしかない。
頬に浴びた返り血。死体の頸から滴る出血で濡れる左手。
顧みてはいけない。
直視してはいけない。
今は残っている敵のことだけを考えろ。
どうやって虚を突き、殺すかだけを考えろ。
火炎が何度も死体をいたぶるのと同時に、だんだんと距離が縮んでいく。
だが、その熱はこちらの想像を上回っていた。死体を一つ挟んでいるのに、全身が焼けるように熱い。呼吸がままならない。
「汚い真似をしやがって、ガキのクセにィイイ!!!」
火炎の威力がさらに増した。
前進が止まる。足が前に出ない。
容赦ない威力だ。仲間の死体を完全に諦めたのだろう。火葬の手間も省けるか。
吸い込む熱気で喉が焼ける。死体を掴んでいる手が灼ける。水に濡れた兵装が沸騰しそうになる。全身が蒸され、ついには茹でられていく。
嫌な想像が思考に過った。
人間を100℃の湯で煮込み続けるとしたら、一体何秒間生きていられるだろうか?
「Tiphereth-samekh-Yesod!」
次の瞬間。
真横から、荒々しい水の塊が獅子の顎のような形を成し、食らいつくように火炎を襲った。
パティの詠唱だ。
ぶつかり合う魔術。心なしか、炎の蛇と水の獅子が食らい合うように見える。
魔術の実力は互角か。しかし、相性が良かった。
灼熱が遠のく。
足が進む。
今だ。
全身に力を込め、盾にしていた死体を相手目がけて放り投げる。
宙を舞う損壊した騎士の身体。
敵の行動は、3つにひとつだ。
後退か。左右への回避か。
姿勢を低く落とす。
死体の影から見えた足は、一歩左へと踏み出した。
この読み合い、僕らの勝ちだ。
途切れた視線。死体の死角。
出会い頭の一撃で決める。
死体の影から左方向に飛び出して、敵の騎士と目が合った瞬間――
――既に、相手の振りかぶった剣が、僕の頭上から降り注いでいた。
剣を構えるのは互いに右腕。
僕にとっての左と敵兵にとっての右は、同じ方角だとしても、持ち手の差――身体一つ分の優位――があった。
視界が途切れたのは相手も僕も同じ。
それを利用できたのは、僕だけじゃない。
敵兵は、自分にとって有利な方向を選んだんだ。
合理的だな、と腑に落ちる。
1vs1。経験値の差。兵士としての練度。
僕の負けだ。
回避不可能なタイミングで到来するその一撃を――予め防御に備えていた僕の剣が、難なく受け止めた。
たった身体ひとつ分なんて、始めから防御に構えていれば、問題なく対処できる。その程度の優位だ。
「……やっぱり、僕らの勝ちだね」
相手の動きに隙をつくる。
敵がひとりになった時点で、僕の仕事はそこまでで十分だった。
それを思い出させてくれたのは、さっきの援護魔術。
ぶつかり合った敵兵の剣から力が抜けた。
口の端の隙間から、悔しそうなうめき声が、血と共に溢れだす。
僕の背後から脇の下を抜けて、敵の腹部へと突き刺さる帯剣。
その刃を掴んで引き抜き、敵は恨めしそうに僕ら2人の方を見た。
そして敵兵は膝から崩れ落ち、前のめりに倒れた。
後ろへ振り返る。
そこには敵にトドメを刺したパティが立っていた。
この戦いは、僕らの勝利だ。
一気に力が抜ける。
その場にへたりこむパティ。
気づけば僕も、酷く息切れしていた。
火傷した指先がヒリヒリと痛む。
危機は去った。
あとはパティと山を下り第三師団分隊に助けを求める。
それだけだ。
僕らは勝った。生き残った。死なずに済んだ。
その事実を確かめて、拳を強く握った。
帯剣を鞘へを戻す。
「君が無事で良かった。パティ」
彼女は血のべったりと付着した切先を見つめていた。
目立った外傷はない。しかし疲弊は相当なものだと伺える。
パティがどれだけの時間一人で応戦していたのかは、わからない。
けれど装威水繭を展開し、帝国騎士二人を相手にしていただけでも驚異的だ。
マナの欠乏。精神の疲労。恐怖。
推し量ることすらできない。
「これでバジルとの約束も守れたことだし……持ちこたえてくれて、本当に良かった」
手を差し出す。
彼女はよく頑張った。
一刻も早く安全な場所へ、山の麓へ移動しなければ――
「――Tiphereth-amekh-Yesod!!」
突然のことだった。
パティの口から、力の籠った詠唱が吐き出される。
水-変化。
周囲のマナがうねる。
先程の装威水繭が解かれ地面に出来た水溜まりから、水が再び暴れだす。
捩じれる水の柱が、僕たち二人を囲むように四方から湧き上がった。
咄嗟に身構える。
――攻撃!? パティが? 僕へ!? いや、そんな理由もない。まさか敵に操られるようなことが……そんなことは高次の精霊でも呼び出さない限り不可能で……いや、パティは僕と協力して敵を倒したんだ。そんなことはでもそれすらも罠……!?
思考が高速で空回りする。的外れな考えが脳内でぶつかってはじける。
そんな僕を置いてけぼりにして、伸びた水の柱が、僕らの頭上に集まり、何かを形作る。
滝のような水の音。
まるで天蓋……いや、盾のような……
直後だった。
激しい雷鳴が嘶き、視界を挽き潰すような光量が暴力的に降り注いだ。
雷。
それが僕の頭上の水の盾にぶつかる。絶え間なく、水が弾ける音が続く。
もし盾が無かったとしたら?
答えは簡単だ。雷は僕を貫き、容赦なく全身を破壊し尽くしただろう。
落雷に見舞われて無事なわけがない。
視界に映る出来事があまりに突拍子が無さ過ぎて、全身が硬直したまま動かない。
水と雷がぶつかる音だけが周囲に響いて、見上げた盾が、突き破られていくのを、目を細めながら、ただただ事実としてうつろに、ああ、このままだと、あの雷は水を貫いて落ちてくるだろうなと、推測される簡単な未来が脳内で正しく処理されないまま。
まだ僕の思考は空回りしていた。これが“想像を超えられた”ということなのだろうかと敗北感、諦観すらあって指一本動かないまま呆然としていた僕の――
「――これで、貸し借りは無しだね。ユージーン」
僕の、身体が思いっきり突き飛ばされた。
思考の停滞は継続中。
ゆっくりと流れる僕の時間の中で。スローに映る僕の視界の中で。
さっきまで僕がいた場所と入れ替わったパティが。
どこか安心したような表情でこちらに笑いかけていて。
水の盾が砕けた、直後。
彼女の身体を――雷が貫いた。