Episode8-2.殲滅戦
◇◇◇◇◇
罠と伏兵の存在。これからわかることは、敵が如何に悪逆非道かということばかりではない。
軍事作戦としての規模だ。
村ひとつをまるまる囮に使った奇襲作戦……ではない。
我々の想像以上に大規模で、徹底的な作戦である。
東の森への逃亡は予見されていたのだ。
村から南北は尾根があり、そして西はヴァレンツ連山そのものへ入り込むことになる。どちらも軽くは抜けられぬ山林だ。あの村は私たちを東へ誘導するのに最適だったと言える。
そして森に仕掛けられた罠と、罠に掛かった兵を仕留める探知伏兵。
私だけがたまたま伏兵に出くわしたなんてことはあるまい。
ならば……森に入った私の部下は……第二魔術師団の団員たちは……。
目を閉じ、周囲への探知を集中する。
探知可能な範囲は一様ではない。体調や周囲の自然の状況、そもそも探知対象の生命核の大きさによっても変化する。
周囲を同心円状に広がるように探る。
そこには、恐ろしい様相が広がっていた。
声も届かない遠くでひとつ、またひとつと失われていく命。
弱りつつある生命核がある。
暗闇の敵へ、がむしゃらに魔術で応戦する反応がある。
それもやがて静かになった。
可能な限り探知を広げたところに、隊を組んで移動する部下たちの反応があった。安堵しかけたが……人数が、少ない。
3人で一組の隊だった。彼らの心情や様子までは、この距離では測ることが出来ない。
万全なのか、負傷しているのかも定かではない。
私が知り得たのは、最大でも周囲3km圏内だ。
消えた反応を数えている暇はない。
残っている反応を数えて安堵する必要はない。
我々は軍人だ。
任務が想定より困難であろうと、途中で引き返すことは出来ない。
今は森を抜け、合流するという目的に集中するだけだ。
……だというのに、私は立ち竦んでいた。
指揮をした責任が心を蝕むように重くのしかかる。
胃を縛られ、針を次々と埋められていくようだ。
もしも、私が少しでも伏兵や罠を減らすことができれば、任務の達成率はあがるだろうか。
この森で命を落とす兵士は減るだろうか。
まんまと敵の掌で踊らされてしまった私の命令で、殺される兵士を救えるだろうか。
東を目指す。
その命令に、私自身が反することはできない。
踵を返せばいずれ来る追っ手と鉢合わせるだろう。
だが、少しでも探知を集中させて、周囲の伏兵を暴き、罠を破壊してゆこう。
せめてこれくらいの罪滅ぼしはしなければ、気持ちが持ちそうになかった。
駆ける。
足元で落ち葉が鳴る。
樹の根を跳び越える。
思考がめぐる。
マナを探る。
極小の灯を掴む。
剣を振るう。
絶叫と共に少し離れたところで、仲間の生命核が消失する。
鎧を纏い、ナイフを防ぐ。
罠を破壊する。
また少年の首を刎ねる。
遠くで魔術の炎が上がる。
駆けつける。
毒の傷は、数えきれない。
最期の言葉を聴く。
暗闇。
月明りが明滅する。
ああ、気が狂いそうになる。
足場の悪い獣道を走る。
我武者羅に突き進む。
ふと背後に気配を感じる。
振り向きざまに剣を振るう。
だがそこにあったのは、真っ二つに斬られ、ひらひらと月明りに舞う木の葉だった。
「はぁ……はぁ、はぁ……はぁ…………!」
そこでようやく、自分の荒い息が聴こえた。
無理も、ないか。
クレイモアを地面に突き刺し、身体を預ける。
一寸先も闇に覆われた夜の森で、見えない伏兵と罠を潰しながら、仲間の悲鳴を聴き、命が尽きたことを探知で思い知らされる。
看取ることができたのは一人だけだ。あとは既に……。
それが、幾度となく繰り返されて……正気を保てというのが、無理な話だ。
普段は意にも介しない鎧が、ひどく重く感じられる。全身から噴き出した汗が、鎧の中を満たしている。
太い柄を掴む両手が震える。
消えた生命核の数は、とてもじゃないが正視できなかった。
夜風が木の葉を揺らして、さざめきがしんと溶けた。
もう私の仲間は誰一人生き残ってはいないかも知れない。
この異国の夜の森でただ一人なのかもしれない。
非道な作戦に翻弄されて、このまま、ひとりで死にゆくのかもしれない。
ああ、私の仲間は、共に過ごした第二師団は、もう誰もいない――――
――遥か。
後方からある生命核が、迫ってくることを感じた。
風。
いつも隣で感じていたその生命核の感覚は、一言で言うと春の風に近い。
雪解けと芽吹きを伝える春の風。
ようやく暖かさを帯びてきた日差しの下で浴びるような、穏やかで、心の安らぐ快い風。
恐怖や疲労が濯がれるようなひと吹き。
あの人に違いない。
消耗しているのか、いつもと比べると精彩を欠いていたものの、間違いない。
「マイルズ、団長……!!」
一目散に駆けた。
生きている。ああ、確かに生きている。私の仲間はまだ、生きている!
足取りが軽くなる。
団長を迎えに、西へと道を引き返す。
自分が下した命令はすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。副師団長失格だ。
しかしその生命核しか目に入らないほどに、マイルズ団長の春風は暖かく、全身を優しく包むように吹いて――
――再び、私の足を何かが捉えた。
右足を突然鷲掴みにされたような感覚。
虎鋏と呼ばれる罠だ。
中央を踏むと同時に、両脇に控えていたサメの牙のような仕掛けが脛当てへと食い付く。
痛みはない。王国製の屈強な鎧は、この程度の刃は通さない。けれど右足に余計な装飾が増えた。
心の中で叱責する。他の生命核に気取られて、マナ探知を怠った。同じミスを繰り返すとは何たる失態か。
罠があるということは……!
周囲を見回す。
案の定、控えていた探知伏兵が姿を現す。
次の瞬間。
私の眼前には迫りくる一矢があった。
乱れの無い一閃。
私の視線をなぞる様に、鎧兜の隙間を通ってそれは私の眼球へと到達すると直感する。
ただ何かが目前にある。迫りつつある。触れれば命にかかわる。
それだけの認識。
それが私の体を全力で回避へと動かした。
仰け反った全身が、バランスを崩す。
罠に噛みつかれた右足を残して、仰向きに地面へ倒れた。
回避を最優先にした身体は派手に大地へと叩かれるが、視線だけは外さない。
睨みつけた影は予想通り小さく幼い。子供の探知伏兵だ。けれどその動きは洗練されていた。
影は藪を跳び越えてこちらへと素早く駆ける。
同時に手にしていた縦弓を素早く背に掛け、腰からナイフを抜き取り構える。
私の足を掴む罠は金属製だ。地面に伏した体勢から破壊は難しい。
同じくこの体勢からクレイモアは振れない。
倒れている私へ、再び目線に空いた隙間を狙って、逆手に持ったナイフの刺突が勢いよく迫る。
「Yesod-tav-Malkuth!」
森に似つかわしくない鈍い音。
マナ武装を纏った籠手が、ナイフの切っ先を受け止めた。
互いの込めた力が、行き先を失って腕を震わせる。
その先にある顔は、恐ろしいほどに無感情だった。
少年兵。幼い顔は少女に見えた。その形だけなら愛らしい造りにただ、冷えた肉が張り付いている。
殊更不気味に思えた。
悲哀や憐憫よりも先に、闘志や義務感よりも先に、そのとき私の心を満たしたのは“恐ろしさ”だった。
年端もいかぬ少女が、こんな眼をして人を殺すことに専念している。
その事実に気圧された。
もう一度、鈍い金属音が鳴る。
ナイフと籠手が弾ける。
体重差は歴然だ。腕や足さえ掴んでしまえば制圧は容易いだろう。
だと言うのに、簡単に距離を取られてしまう。
罠に掛かっているとはいえ、いつまでも寝転がっているわけにはいかない。
素早く身体を起こすが、既に敵影は十数歩先へ。
少女の装備が弓へと入れ替わる。
装填。
構えた矢じりから粘性のある何かが垂れ落ちる。先ほどは確認できなかったが、これも毒矢だろう。
弓音。瞳を射抜く軌道。
幾ら正確な射撃の腕があったとしても、鎧を纏った私には通用しない。
無色透明なマナ武装が、無情に矢を弾く。
少女は一度だけ驚いた素振りを見せたが、次の瞬間にはまた矢を番え、弓を構えていた。
連射。それも目線や鎧の継ぎ目を狙った正確無比な一矢の連続。
矢と硬質化したマナの鎧がぶつかる音だけが、延々と止むことなく。
顔色一つ変えずに、少女は敵と戦っていた。
もう、見ていられなかった。
背に担いだクレイモアを抜く。その勢いのままの一振りで、足元の虎鋏を砕いた。
装填の合間、一瞬の隙。
自由になった右足を、地面に穴をあけるつもりで踏み込む。
一気に距離を詰めた。
少女は躊躇いなく弓を手放し、腰から取り出したナイフを構える。
それを、クレイモアの切り上げが瞬時に破砕した。
更に上段から、あとはこの大剣を振り下ろすだけで、彼女は世界樹へ還れる。
絶体絶命のはずだ。
しかし、少女は顔色一つ変えず、手際良く肩にかけた矢筒のベルトを解く。
直後。私の視界は闇に覆われた。
何が起こったのか、思考が停止する。しかしその闇がドロリと液体めいて迫りくることから、それが少女の矢筒に溜めてあった毒だと判別できた。
少女の状況判断と臨機応変な対応は称賛に価する。
だが、結果は変わらない。
マナ武装は物理をも干渉する強固な鎧。マナを圧縮した無属性無色透明の被膜。もはや物質に近いものだ。ナイフも、矢も、毒だって通すことはない。
頭上に構えたクレイモアを強く握り直す。
痛みが伝わるよりも早く、肉を切り、骨を断つ。それが私に出来るせめてもの手向けだ。
「――安らかに還るといい」
迫る毒の膜ごと、少女の首を刃が両断した。
視界を闇色の毒が覆い、その向こうで紅色のなみだ雨が降る。
地面に2つ、肉の落ちる音がした。
クレイモアを振って血を払い、背の鞘へと戻す。
見下ろした先には、私が裂いた少女の亡骸があった。
その瞳は最期を迎えた後ですら、冷たく私を見つめていた。
どうしてだろうか、それから目を背けることは憚られた。
マナ武装を解き、毒に塗れた鎧兜を脱ぐ。
片膝を折って彼女の顔に触れた。
殺すことしかできない。
彼女だって、彼らだって、被害者だというのに。
そんな心の底に横たわった虚しさを払拭したくて、少女のまぶたに触れて、瞳を塞いだ――そのときだった。
首元に、ナイフの刃が添えられたのは。
背後に生命核があった。
それはひと吹きで消えてしまいそうな、一際か細い命の灯だった。
探知伏兵。
全ての意識を掻い潜る異分子。
今か今かと、隙を伺っていたのか。完全に無防備になったところを狙われた。
どんな小さな傷だろうと、首に毒を貰えば、致命的だ。
下手に暴れることも、背後への対処も出来ない。
生唾を嚥下する。
柄にもなく、諦めという言葉が脳裏に浮かんだ。
それを反芻する暇もなく。
ナイフを持つ手に、力が籠められるのを感じた。
「Cochma-vav-Chesed」
そよ風が肌を掠め、返す風が、私の背後を通る。狙いを絞った青嵐が吹き抜けた。
春の嵐が背後の伏兵を打ち抜く。
木の葉を騒がせる春一番。
簡単に宙に浮いたか細い身体が、樹の幹へと叩き付けられた。
地に倒れ伏し、微動だにしなくなった影の反対側。
「危なかったね……無事かい? エウスタキオ副団長」
森の暗闇を抜けて月明りが照らす場所へ、マイルズ団長は現れた。
◇◇◇◇◇
夜の帳の最中。休憩を兼ねて、我々は木の根に腰を下ろしていた。
今日二度目となる状況報告を済ませて、私は団長へと頭を下げた。
「すみません……私の指示が不適切でした。挙句の果てに、団長にまで手を煩わせてしまい……」
その様子があまりに悲愴に見えたからだろうか。団長は穏やかな調子で語った。
「そう悲観するものじゃないよ。あの状況では僕でも同じ指示を出したさ」
マイルズ団長の生命核は、普段とは比べ物にならないほど弱い。
加えて、怪我も目立った。特に腹部にある大きな火傷の跡を見ると、とても継戦は勧められる様子じゃない。
視線に気づいて、団長は気恥ずかしそうに、力無く笑った。
「空中戦で1対3はやっぱり無謀だったね。常に足場の確保を自力でやってるうちに、実力差を詰められた。相打ち覚悟で突っ込まれて、良いのを一撃貰ってしまったよ」
誤魔化しているが、消耗は激しい。
「でも村人は無事だった。それを最後に確認して、僕も森へ入った。それだけは安心していいよ」
「……ええ、それは何よりです」
軍人でも、魔法使いでもない一般市民は、我々にとって庇護対象だ。彼らを守ることは、魔術師の持てる義務に他ならない。
親子の顔が思い浮かぶ。
その言葉を聞いて、少しは救われた思いだった。
「ガラードもちゃんと働いたようですね。昔からアイツはやる気のない素振りですが、人一倍優しい男で、誰かを守ることに関してはいつも真剣だった……最後に確認したということは……別々に森に入ったのですか?」
「……ああ、彼は立派に殿を務めたよ。あの後ヴァレンツ連山方面、西から敵の本隊が来たんだ。それを村へ入れまいと、奮闘していた」
やはり、敵の部隊はまだいた。しかも村を人質に取る形とはまた質の悪い。
状況を想像して、そして、団長の言い方にやや不自然な部分があることに気付いた。
「団長……その、ガラードは……どうなったんですか?」
団長は、顔を伏せたまま、首を横に振った。
「殿の務めだけはいつも一流だった。実に、仲間想いの彼らしい最期だったよ」
その言葉で全てを悟った。
我々は軍人だ。だから、覚悟は出来ていた。彼がいたのは部隊構成の中でも最も重要で、最も危険な最後方だ。
誰よりも仲間を大切にしていた彼にしか務めることのできない役割だった。
彼のために、数秒だけ目を閉じて祈った。
ガラードの世界樹への帰路が、どうか安らかでありますように。
同じように、団長も口を閉ざしていた。
目を見開いた。
彼の努力を、無駄には出来ない。
「殿を突破されたということは、後方に敵が迫っているということですね?」
「通常ならそう考えるべきだ……けれど、君からの報告を聴くに、ここは罠と伏兵だらけだ。敵はおそらく夜明けまでは森へ入ってこないだろうね」
確かにこの状況では罠と伏兵は無差別に人を襲う。
しかし敵は我々を追いつめるべく姿を現したはずだ。このまま東へ抜けられては困るのではないだろうか。
「僕が森へ入ったとき、背後の敵は広く展開し、森を囲むような陣形を取っていた。あの様子だと、平原側……森を抜けた東側も包囲されていると見ていい」
「なっ!? では、我々に逃げ道はないと?」
「ああ。村と森を利用したこの作戦は、周到に用意された掃討作戦だ。奴ら、第二魔術師団を一人残らず殺す気だよ」
唖然とした。
ただの軍事演習に赴いたはずが、話が大きく違う。
もちろん他国へ行くのだから、気は引き締めてきた。だが、演習中の駆け引きや小競り合い以上のことが起こるとは夢にも思っていない。
「夜の間は罠と伏兵。平原へ抜けた兵が居れば待ち伏せしていた部隊が叩く。朝まで待って包囲網を縮めていけば、この暗い森で疲弊した兵を狩り尽くすのは、簡単だろうね。既に早く森を抜けた兵は、会敵している頃だろう」
なんてことだろうか。
殲滅――部隊の十割喪失。
その言葉が脳裏を過り、絶望に苛まれる。
「これだけの作戦……やはり、我々が演習に出立した時にはもう、敵の掌の上だったのですね……」
「ああ。僕らの行動を把握した上で計画されている……合同演習を受け入れたベルケンド公国なら容易いだろうね。でも、彼らじゃない」
「なぜですか? 公国が我々をまんまと陥れたのでは?」
「メリットが無いからさ。少なくとも、公国が公国として存続しようとするならばね」
ベルケンド公国は五十年前に帝国から独立した国だ。彼らは帝国の支配から免れることを望んでいた。だから、王国の力を借りてまで独立という形にこだわったのだ。
もし王国の後ろ盾を失えば、帝国に容易く支配されてしまうだろう。
「公国が帝国の手を取るとは考えづらい。それでも王国と敵対する理由はひとつだ。あまりに性急だけど……公国は既に、帝国の手に落ちていたと考えるのが妥当だ」
“北西に不穏の気あり”。
あれは兵糧や開戦準備の動きではなかったらしい。
既に戦争は始まっていた。そして、我々の隣人は侵略されてしまっていたのだ。
つまり敵は、イーフェル・シディア帝国、守護聖騎士団だと推察された。
「それを確認するためにも、僕は本来の任務通り首都へ行かないとね」
聞き捨てならない言葉だった。
「そんな、正気ですか!?」
本来の任務なんてとっくに破綻している。従う必要はないはずだ。
「第二師団は壊滅状態です! それに、マイルズ団長だって、決して軽くはない怪我を……」
もし公国首都へ辿りついたところでそこは敵国……そもそも、この森を生きて抜けることすら困難な状況だと言うのに……。
「僕は団長だ。与えられた任務を遂行する。自分の命や名誉なんてものは二の次だよ。第一、これだけの被害を受けて、手ぶらで帰るなんて出来やしないさ」
……この人はそういう人だった。困難だろうがなんだろうが、誰もが目を背けてしまうような最善の目標を軽々と口にし、そしてそれを実現してしまう人だ。
この人の背中を見て、ずっと私は、私たち第二師団は戦ってきた。
「だから、僕は生き残っている兵を集めて森を抜けるよ。包囲網が狭まる前に行かないと、敵の密度が大きくなると手間だ」
マイルズ団長の瞳は、既に先を見据えていた。
この人についていけばまだ、もしかしたら、希望が見えるのかもしれない。
そう思わせられた。
「わかりました……わかりましたよ! 私は生き残っている兵の中では一番戦えるはずです。何なら負傷している団長よりも、確かな戦力です。首都まで、改めてお供いたします。マイルズ団長」
彼の手を握り、力強く宣言した。副団長として、これが私の最後の務めになるかもしれない。
それくらいの覚悟を持って、私は告げたのだ。
彼は安堵したように表情を崩して、そして、
「――それは、ダメだよヴァネッサ」
と優しくほほ笑んだ。
言葉の意味が、全くわからなかった。
命をもかけた宣言を否定されるだなんて、想定もしていない。
「僕は王国魔術師団団長として、責任を果たしに行く。だから君には、副団長としての責任を果たしてもらわないと」
彼は私の手を離し、普段通り命令を下すような調子で言った。
「君は王国へ戻り、事の顛末を伝えるんだ。すぐにジラルド総帥に手を打ってもらわないと。森を割る谷底に、この時期なら川が流れている。急流だけど、それを伝って脱出するんだ。港町に着けば、王国への船便が」
「何故ですか!!?」
その言葉を、遮る様に叫んだ。
「私には団長を最後まで支える義務があります! そんな役目は、私ではなく他の……他の、兵士に……」
口にしながら、それが不可能だと気づいた。
その命令を受けることが出来るのは、ここには、私しかいないのだ。
周囲にマナ探知を巡らせる。
ぽつんと、二人の生命核だけが揺らめいていた。
……これでは、団長が集めると言った生き残りの兵士すら……もう……。
「こんな大役を任せられるのは、君しかいない。君の魔術なら、敵を退けて必ず王国まで行けるはずだよ」
「……なおさら、です。マイルズ師団長の行動は無謀に過ぎます! ひとりで、たったひとりで敵の包囲を突破し、公国首都までたどり着けるわけがない……お願いですから、せめて私を連れて行ってください……!」
縋りつくように嘆願した。
普段の彼からは考えられないほどに弱った生命核。
腹を抉った大火傷。
「副団長の責任と言いましたね? 私にとって副団長の責任とは、マイルズ団長の補佐をすることです! 第二魔術師団と命運を共にし、最後まで兵士として戦うことです!!」
私の心からの訴えだった。
候補生学校を卒業し、配属されてからずっと、私は第二師団と共にあった。
マイルズ団長の背中を見て戦ってきた。
「お願いします……私を、連れて行ってください……」
涙を流しながら、絞り出すように願った。
ぽん、と頭に手が乗る。
「……やっぱり。君ならそう言うと思っていたよ、ヴァネッサ」
顔を挙げると、そこには全てを悟ったような微笑みがあった。
私がついていくと心に決めた、私の団長。
「本当に、あのときとそっくりだ……だから、君の気持ちも痛いほどにわかるよ。でもね、こればかりは譲れないんだ」
彼は、右手を挙げて、その中指と薬指から指輪を抜き取った。
「“指輪の契り”を、知っているね?」
私は「はい」と小さく返事をした。
実際にやったことはない。
それはモルゼントゥール王国に伝わる、古い儀式。約束のおまじないだ。
「指輪の交換は相手との約束の成就を祈るもの。そして――指輪の譲渡は、持ち主の願いの成就を託すものだ」
渡された指輪は二つ。手のひらに、まるで小さな命のように大事に受け取った。
「ひとつは僕の。ブラウン家のものだ。もう何年も碌な功績が無い、弱小貴族だけど、大切にしてくれると嬉しい」
黒地に控えめな装飾が映える、品の良い意匠の指輪を見つめながら大きく頷いた。弱小だなんて、団長まで上り詰めておいてどの口が言うのだろうか。だがこの人が言うと不思議と嫌味がない。
「そしてもうひとつは――元四大貴族、スペード家の指輪だよ」
七年前。南部ポルカ地方の開拓。第二魔術師団が壊滅したあの事件。
当時入団したての団員だった私と、副団長だったマイルズ・ブラウン。
そして我々を率いていたのはチェスター・スペード師団長。
「『次の第二師団はお前に任せた』そう言って、チェスター団長は、僕にこの指輪を託した」
私の掌に、風を思わせる美しい曲線で描かれた、シンプルな意匠の指輪が置かれた。
「こんなにも由緒ある貴重な指輪を貰っておきながら、僕はその願いを果たせなかった……けれど、今回はそれに僕の分までもう一つ上乗せだ。これだけあれば、きっと叶うだろう」
月明りを浴びて、見事な指輪がふたつ、私の掌の上で輝く。
「第二師団は君に任せたよ、ヴァネッサ・エウスタキオ・シルヴェストリ」
ふたつの指輪にはこれ以上に無いほどに重く、強く、尊い願いが込められていた。
次代の師団長へと、託されていく指輪。
こんなものを渡されてしまっては、それに従う以外に何も出来るはずがない。
次を託された私が、今、命をなげうつことなんてできやしない。
強く、握りしめた。
「……わた、し、だって……私だって、ここでみんなと共に戦いたいです!
一緒に戦い、たとえ一緒に死んでくれと言われたって二つ返事でついていきます!
それだけの覚悟をしてきた。いつだって、そのつもりで戦ってきたのです!!
だというのに……この無念を胸に、仲間を見殺しにしてひとりだけ逃げ帰って、そしてこれから一人で生きていけと言うのですね……。
いいでしょう、従います。他でもない貴方からの最後の命令です。
……ですが忘れません。
私はこの悔しさを一生抱えて、全部抱えて、一から作り上げた新しい第二師団と共に生きていきます……!」
決別だった。
これまで、私の居場所だったところからの。
私が尊敬した人からへの。
頬をつたう涙が止まらない。けれど、拭ってしまったら負けたような気がして。
霞む視界の先で、満足気に笑って、彼は「ありがとう」と呟いた。
その後、彼は生き残りを探して合流するために、森の奥深くへ。
私は森を割る谷を目指した。
谷底に流れる川を下って、森を抜け外海へ。
困難かもしれないが、必ずやり遂げなければならない。
籠手を外し、両手の中指にそれぞれ指輪を嵌めた。
両手の拳を握って、その存在を確かめる。
背後をマナ探知することは、もうしなかった。
◇◇◇◇◇
「痛ててて……はぁ、ようやく行ってくれたよ」
「いつも言い出したら聞かないからなぁ、あの子は」
「でも良かった。殲滅は免れた。たった一人でも、逃がすことが出来た」
「あの子が、ヴァネッサがいれば第二師団は大丈夫」
「今なら貴方の気持ちがわかりますよ、チェスター団長」
「……そろ……そろ、動かないと、夜明けまで出血で持ちそうにないな」
「せめて」
「せめてこんなことをしでかした奴の」
「面くらい拝んで」
「一矢報いてやらないと」
「セシルに、デイビットに、ユリアに、ローエンに、ガラードに……」
「……先に逝った彼らに、申し訳が立たないからなぁ」
「待ってろ……待ってろよ」
「手土産を持ったら、」
「俺もそっちに、」
「いく、」
「から――」
「――――頼むよ。もう少しだけ、戦わせてくれ」
◇◇◇◇◇
【報告】
王国第二魔術師団本隊、合同演習派遣部隊、全滅。
出発から2日後、定期連絡が途絶える。
翌日、到着予定時刻を超過。目的地であるベルケンド首都ウィンバーバラからの連絡も皆無。
同時にベルケンド側から一切の国交が途切れる。
さらに2日後、副師団長ヴァネッサ・エウスタキオ・シルヴェストリが帰還。
ベルケンド国境、ヴァレンツ連山麓で襲撃を受け、一夜のうちに派遣師団員が壊滅との報告。
当人は衰弱と疲弊のため、王国医務所へ緊急収容。
翌日、イーフェル・シディア帝国より、ベルケンド公国の侵略完了が布告。
領土の併合と、公国政府機関の停止を通達される。
同時に、帝国側からシルヴェストリ副師団長を除く、第二魔術師団派遣部隊499名全員死亡の報を受ける。
帝国に即時開戦の意欲はなく、これから同じ大陸に住まう者同士の、不可侵協定を所望。
期限となる一週間後、モルゼントゥール国王クロドメール・フィル・モルゼントゥールは、この協定に調印した。