非日常も悪くない
平凡な日常。平凡な高校生活。平凡な人間関係。あまた平凡と名のつく様々な事柄。
平凡さをことさら意識するようになったのは、ここ数週間のことだ。
いままで気にも留めなかったそれらを急に気にし始めたのは、俺が「非日常」に接することになったからに他ならない。
その「非日常」とは……それはもうしばらくすれば、わかる。
夕暮れ時、帰宅途中の人気のない川沿いの遊歩道を歩いていけば、おのずと目に入ってくる。
川幅はさして広くもなく、住宅街を縫うように流れていた。
それでも、吹き抜ける風は季節の色を濃くし、肌を刺すような寒さをはこんでくる。
堤防などという立派な護岸壁はない。目を向ければ、薄紅色に反射する水面をすぐそこにみることができた。
俺は歩く。次第に暗くなっていくその道を、寒風に煽られながら歩いていく。
ポツポツと、街灯がともり始めた。ライトアップなどという豪勢な景観は拝めないが、それでもそこそこ「美しい」と思える光の帯が、目の前に広がっていく。
俺はこの景色を見るのが好きだった。光が連なり、走っていくこの瞬間が好きだった。
ついこの間までは。
しかしそれも、数週間前から一変した。「非日常」が、始まったからだ。
それは今日も始まるだろう。おそらく。もうすぐ。
ぱちっ……ぱちぱちっ……
街灯がひとつ、不規則な明滅をはじめた。ちょうど俺が歩いている横の街灯だ。
俺は構わず、歩き続ける。やや早足になって歩いていく。
ぱちっ、ぱちっ……
すると、先回りするかのように、今度は少し先の街灯が明滅し始めた。
通り過ぎた街灯は何事もなかったかのように、普段通りに道を照らしている。
気にしないふりをして、俺は明滅を繰り返す街灯の横を通り過ぎる。
ぱちっぱちぱち……
小さな破裂音がやけに大きく木霊して、耳に届く。
そして再び、前方の街灯がチカチカとやりだすのだ……。
待ち伏せしているのか、それとも追いかけられているのか。
いずれにしてもこの状況、普通ではない。
しばらく歩き続けた俺は、川沿いの道を外れて横道へ入った。それが自宅へ戻る道順だったからだ。背後では、俺を見送るかのように、街灯がぱちぱちといいながら明滅を繰り返している。それ以外にとくに何か変化が起こるわけでもなかったが、それだけでも十分。
平凡な日常を壊すには、十分すぎる現象だった。
それからしばらくして、クラスの友人からこんな話しを聞いた。
「お前がいつも通っている川沿いの遊歩道さ、あそこの街灯、今度一斉に電灯を交換するらしいぜ」
そいつが何故突然そんなことを言い出したのか、知っているのかは、この際どうでもいい。
電灯の一斉交換と、いま俺の身に起きている点灯ストーカー?とは何かしらの関係があるのだろうか。興味はそちらのほうへ向いていた。
たしかに、あの場所に居並ぶ街灯は古く、外装も古めかしいものだった。照明も同じように、決して明るいとは言えない。機器のメンテ、保安上の理由からも電灯の交換が行われてもおかしくはなかった。
もしかして……これを機会に「非日常」から解放されるのだろうか?
そんな淡い一抹の期待も抱いたが、それも僅か数時間後の帰宅時には脆くも崩れ去った。
ぱちっ……ぱちっ……ぱちっ……
今日も待ち伏せていた、いや、追いかけてきた、のか。
毎日飽きずによく続くものだと、不安や恐怖に囚われるより、むしろあきれてしまう。
無視して歩く俺の横を、薄暗く明滅する光がついてくる。
ぱちっ、ぱっち……ぱちっ
何かを訴えかけるかのように。ときに大きく、またあるときは囁くように。
俺は歩を緩めることなく、住宅街の道へと反れた。
ばちっ!!!
ひときわ大きな破裂音が、耳に届いた。
俺がビクリとして振り返ると、そこにあった街灯の明かりは消えていた。
帰宅した俺を待っていたのは、甲高い姉貴の声だった。
年の瀬も迫り、家の大掃除を任されて苛立っているようだ。
ご苦労様、と、素通りを許してくれるはずもなく、案の定、俺は制服の襟首をつかまれて引き留められた。
「ちょっと、アンタも少しは手伝いなさいよ。なんだって私にばかり押し付けるかなー、こういうものは姉弟比、1:2が普通でしょうー」
初めて耳にする比率だった。しかもそれが普通だそうだ。
「とりあえず、アンタの部屋の押し入れにあったクリスマスツリー、あれなんとかしなさいよ。何十年前の代物よ。葉も幹も飾りもボロボロで、電灯すら点かないじゃない」
ああ、そうだ。そういえば、昔、欲しくて欲しくて仕方なくて。おもちゃ屋の前で何時間も粘って、無理して親に買ってもらったクリスマスツリー。そんなのも、あったっけ。しかしあれに関しては姉貴も共犯だ。駄々をこねたのは一緒だったろう。
俺はゆっくりとした足取りで、二階の自室へと向かった。
自室のドアをあけると、部屋の真ん中のガラステーブルのうえに、そのツリーはあった。
姉貴が言っていたより、ずっと古めかしく、汚れを纏い、もはや何かを祝う気すら失せてしまう。点灯してみようとツリーを手に取ったが電源コードは途中で切れている。
仮に点いたとしても、この汚れと装飾の剝げ落ちたツリー、傷んだ数々のオーナメントでは、見るのも気の毒になりそうな……気がする。思い出の中のツリーがキラキラと輝いているだけに、よけにいそう感じるのかもしれない。俺は、切れた電源コードに、少しだけ安堵していた。
「それ、いらないなら、今度のゴミ回収日に出しちゃうから。小さくまとめておいてー」
階下から姉貴の声がする。
思い出の品をよくもそんなふうに軽々と捨てるなどと言えるものだと思ったが、それに関しては俺も姉貴を責められない。僅かだが、同じことを考えたからだ。
美しい想い出は美しいまま、コンパクトに心の片隅にでも収納しておけばいい。
それにしても、姉貴もよくこのタイミングでこれを見つけ出したものだ。
俺は腰を下ろすと、壁に寄りかかってそのツリーを見つめた。
キラキラと輝く、子供のころの想い出が詰まった、オンボロのツリー。
プラスチック製の幹や葉の塗装は剥げ落ち、白いお髭のサンタさんは黒い無精ヒゲの不審者と化している。かつて、煌めきを放っていた星やリースといったオーナメントも、所々欠けて貧相に揺れていた。
もしこれで電飾が灯ったらと、俺はもう一度同じことを思った。
そう、もう一度。明かりが灯ったら、と──。
( まさかな。いくらなんでも……そんなこと、あるわけがない )
心の中で呟きながらも、すでに試さなければいられなくなっていた。
俺は立ち上がると、窓のカーテンを閉め、部屋のライトをすべて落とした。
部屋の中央が、ぼうっと。仄かに色づく。明かりが、温かみのある色味を帯びていく。
ツリーが灯った。
点くはずのない電飾が……電源コードが切れたままのツリーが、光に包まれたのだ。
「俺は……「非日常」をお持ち帰りしてしまったのか?」
俺のつまらない呟きをよそに、ツリーは弱々しくも暖かい光を瞬かせ始めた。
それは子供のころ、俺の心を惹きつけてやまなかった、幻想の瞬き。
ツリーは当時となんら変わることのない光を、いまも纏っている。
こんなに小さくて。簡素で。弱々しくて。古めかしくても。
輝きだけは、俺の中にある記憶と同じだった。
「ちょっと、出てくる」
姉貴にそう告げると、俺はツリーを剝き出しのままかかえて外へ飛び出した。
「ちょっと、なに、ツリーなんか持ち出して! 廃品の回収日はまだ先よー」
姉貴の声を聞き流して、俺は日の落ちた住宅街を小走りに走り抜けた。
「ほらよ、お仲間の所だ。おまえ、ここに来たかったんだろ?」
らしくもない。てんでらしくもないセリフを、俺ははいていた。
それでも不思議と、恥ずかしさはなかった。
そして、川沿いの遊歩道の真ん中で、ツリーを高々と掲げて見せた。
ツリーのてっぺんの先には、明かりの消えた街灯があった。
ぱちっ……ぱちっ……
街灯が明滅し始める。
それに応えるように、手にしたツリーもチカチカと小さな光を瞬かせた。
まるで、お互い。光でやり取りをしているかのように。
いや。ように、ではなく。きっとそうなのだろう。
「おまえも、いっちまうのか?」
なんとなく、この先の展開が読めた俺は、それでも聞いてみた。
チカチカ、チカチカ……
もちろん、何を言ってるかなんてわからない。けれど、応えてくれている。
それだけは、確かなようだった。
「いままで忘れていて、ごめんな。こんなことでもなければ、おまえの存在すら忘れたままだったよ」
そして……昔の記憶も。いつまでもいつまでも、時が過ぎるのを忘れて眺め続けた、あの頃の想い出も。
思い返すことも、なかったかもしれない。
手にしたツリーの光と、記憶の輝きが重なったその刹那。
ツリーが、それまで見たこともないようなカラフルな光を振りまいて、俺を包んだ。
あ り が と う
それはどちらのセリフだったのだろう。
どちらでも。どちらでもいいか。
ああ、そうだ、どっちだって構わない。
いま俺は、こんなにも素敵な光の中にいるのだから……。




