プッチンプリン -日常に潜む惨劇-
──ふと気が付くと、僕の視界に広がる景色は一面真っ赤に染まった液体で埋め尽くされていた。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ──
身体が鉛のように重く、ぴくりとも動かない。鈍い痛みが頭から全身に広がり、その存在を訴え掛ける。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ──
心の奥底から湧いてくる激しい怒りと諦観は、絶えず主張を繰り返し、尚も尽きることはない。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ──
きっと、既に手遅れなのだろう。
思考がまともに働かず、雑念ばかりが押し寄せては、泡のように消えてゆく。益体のない考えが、絶えず脳裏をよぎる。
一体、どうしてこうなったのだろうか。
走馬灯のように、あの時の忌まわしい出来事が鮮明に思い出され、僕は尽きることのない激情に打ち拉がれていた。
ある日のことである。
寝室の窓から、こちらへの殺気を微塵も隠そうとしない陽射しに当てられて、僕は目を覚ました。……否、目を覚ませざるを得なかったという方が、幾分か適切だろう。僕は寝起きの良い方ではない。
意識の覚醒が始まってもなお、僕を誘惑せんとその存在を訴える眠気に、堕落してしまいたいちっぽけな心を抑え、僕は身体を起こした。
まどろみからの奮起は、やはりそうそう上手くいかないものである。もう一度、布団に入ってしまいたいという思いが首をもたげて来る。
「あ、確か今日って……」
僕はあることを思い出した。
先日から、かねてより楽しみにしていた朝の情報番組があるのだ。
その情報番組は別段面白いものではなかったが、番組内の天気予報の様子に、僕は何故かひどく目を引かれたので、最近それを鑑賞するのが日課となっている。
やや顔の整った女性アナウンサーが、不思議な民族舞踊を踊りながら来週の天気を予報し、終いに気の遠くなるような子守唄を、神妙な面持ちで歌うという、何やら世紀末を疑う大層奇妙な光景だったが、僕はそれを初めて目にした時、何かが琴線に触れたのを覚えている。
おもむろに部屋を見渡し、掛け時計に目をやる。
南無阿弥陀仏。時計の時針は有ろう事か、十一の数字を指していた。
幸い、今日は休日なので会社や学校に遅刻するなどといった心配は一切無い。
しかし、僕がかねてより楽しみにしていた情報番組は、八時半終了なのだ。一分遅刻といった次元の話ではない。既に二時間以上も経過している。
このままでは僕は正気を保てない。……何時かきっと民族舞踊に目覚める。
ただならぬ危機感に襲われた僕は、何とか気を紛らわせる方法に考えを張り巡らせた。
ちっぽけな頭を捻りに捻る。
──嗚呼、神様よ。貴方は何と慈悲深い御方だ。
僕は、プッチンプリンを昨日買っていたことを思い出した。今この瞬間に感じた希望は、世界平和の前兆だったのかも知れない。澄み渡った気持ちだった。
僕は軽快な足取りでキッチンへ向かう。或いは、世界平和への糸口も、プッチンプリンにあるのかも知れない。
キッチンへと辿り着いた僕は、逸る気持ちを抑え、恐る恐る冷蔵庫を開いた。しかし──
そこに、プッチンプリンの姿は無かった。
これはもしかすると、神の試練というものかも知れない。
こんなにも腸が煮えくり返ったのは生まれて初めてだ。スキャットマンだってきっと怒っていることだろう。
僕の生きる希望を喰った輩は、今も何処かでのうのうと生きているのだ。到底許せることではない。血祭りに上げてやる。
そう思い立って勢い良く振り返り──
「お前冷蔵庫の前で何してんの?」
「わあぁ!!」
突然、目の前に現れた人物に、僕は驚きを禁じ得ず、思わず叫び声を上げる。
そこには、腕を後ろに回し、堂々とした立ち姿に、怪訝そうな表情をその顔に貼り付けた男性がいた。
「驚かすなよ、心臓に悪い」
彼は僕の従兄弟であり、居候の「戸真斗好男」だ。少々風変わりな人で、長時間を共にすると途轍もない疲労を感じる人物である。
「ついに民族舞踊に目覚めたのか。お前、昔から変なヤツだと思ってはいたが……」
「違うよ。僕が昨日買っておいたプッチンプリンが見当たらなくて……」
「……!」
怪訝そうな表情は、一転して、強張ったかのように見えた。
「戸真斗?」
「……ああ、そうなのか、それは大変だなぁ。いやぁホント災難だよ! 一体誰がそんな卑怯なことをやったんだい!」
此奴は幾分か人を煽る才能に恵まれているようだ。
「あ、いや、うん別に、そんなに食べたかった訳じゃないし……」
「そうかそうか。それは良かった。ほら、困った時はお互い様だろ? そんな暗い顔すんなって」
「……?」
「そういう時は元気が一番! 皆さん元気ですか! 元気があればなんでも出来る!」
やはり、彼は何処かがおかしいに違いない。
「ごめん。ちょっと何言ってんのかよく分からない。別に、プロレスとか観ないし」
「ああ、そ、そうだね、うん……」
依然として彼は威風堂々といった様子で立ち構えているが、その舌滑りは幾分かぎこちないようだった。
「いや、僕も何か、ごめん。うん、ごめん」
しかし何故か、何故だか居心地の悪さを感じて、僕は違和感を覚えた。何かが引っかかったかのように、僕の胸中で何かが主張をしている。
束の間の沈黙。
「……ねぇ、あの──」
「ちょっとさ、冷蔵庫から俺のトマトジュース取ってくれない? ほら、お前の方が近いし」
額に汗を二三滴浮かべ、少し強張った表情で彼は言い切った。
「……ああ、この奥のヤツ?」
冷蔵庫の奥を探ってみると、ようやく右手にペットボトルらしき感触を得たので、僕は彼に尋ねてみた。
「そうそう。誰にも取られないように、奥の方に隠して置いたんだ。俺ってやっぱ天才だよな」
「……はい、これ」
そう言って僕は彼にペットボトルを渡そうとした。
しかし、彼は依然として腕を後ろに回したまま、一向にこちらへと手を伸ばさない。
「戸真斗? 取らないの?」
徐々に、息を呑むことさえ憚られるような緊迫感が、そこに形成されていった。
「……あぁ、悪いけど、そっちのテーブルに置いてくんない? い、いま腕が筋肉痛でさ、はは」
──再び訪れる、束の間の沈黙。
漠然とした予想が、確固たる確信へと変わる。
僕は静かに呟いた。
「もしかして、だけどさ。……僕のプリン、その後ろで組んでる手に持ってるの?」
「……え? いや……べべ別に、そ、そんなことしてねぇよ!」
「だったらその後ろに持ってるもの見せてよ!」
「いや、それとこれとは話がち、違うだろ! そそれに、おぉ、俺が見たときにはちゃんとあったし! お前もしかして俺のこと疑ってんの!? 意味分かんねえんだけど!!」
「語るに落ちる」という言葉がこんなにも相応しい場面に、僕は出逢ったことがない。
そう思える程に、彼の薄ら寒い言動は全てを物語っていた。或いは、世界が戦争の業火に包まれていたのならば、未来は違っていたのかも知れない。
「戸真斗……お前がそんなことをするやつだったとは思いもしなかったよ!」
僕は、激情の余り、左手を彼の胸倉に伸ばした。
そして再び、静かに問いかける。
「お前が……僕のプリンを盗ったんだろ」
静かに、時は過ぎる。
二人の言葉を待つように、淡々と過ぎていく。
やがて、戸真斗は口を開いた。
「良かったね! 大正解だよ!」
彼は、咄嗟に僕の左腕を振り解き、自身の拳を振り上げた。放物線を描くその拳は、見事に僕の顎を捉えていき──。
真っ赤に染まった液体が、辺り一面に飛び散った。