第八話「叫び」
突如として吹いた生ぬるい風が、伸びた襟足を微かに揺らした。
俺が抱きかかえる彦次郎は、こんな最悪な状況下にあっても穏やかに呼吸を繰り返し、その都度ゆっくりと体が上下に動く。それにつられるかのように、まるで一心同体にでもなったかのように、胸騒ぎで心がはちきれそうになっている俺の体も一緒になって上下に動いた。
「ククク・・・、今のお主の心模様を四文字で表現して見せようか。混乱、絶望、あるいは、そうじゃの。これが一番しっくり来るやもしれん。・・・お手上げ。どうじゃ、正解じゃろ?」
マウラは、一人でクイズを楽しむように目を輝かせ、すぐに「まぁ、実際には手も足も、自分の意思では動かせんがの」と追いかけるように言った。線路に敷き詰められた砂利の上に跪く俺たちを見下ろして、嘲笑う。
マウラの読み通り、というより誰が予想したって、この現場を見れば皆口を揃えて同じことを言っただろう。俺は首根っこを掴まれたような状態で、もしも犬であれば仰向けにひっくり返って、これでもかとお腹を撫でさせていたところだ。絶対服従の証。そもそも服従を示したところで、見逃してくれるとは限らないというのに。
しかし人間とは不思議なもので、追いつめられれば追いつめられるほど、自分勝手な淡い期待に縋り付いてしまうようにできているのだ。まさに今の俺がそうであるように。
「ちくしょー、しっかりしてくれよ、ヒコ!」
淡い期待に縋り付いた後は、様子のおかしい彦次郎に縋り付く。つくづくどうしようもないなと、心の中の冷静な自分が苦笑いを浮かべていた。しかし何かに縋り付いていなければ、今にも精神が崩れてしまいそうなのだから、他に選択肢はない。今ならば藁だって掴むし、神にだって祈ってやろう。例えるならば圧政に苦しむ民が、死の淵で神に救いを求めるように。例えるならば絶対的なピンチには必ずヒーローが助けに来てくれると信じるように。
けれど絶対的なピンチに登場するのが、ヒーローだけとは限らない。
泣きっ面に蜂とはよく言ったもので、悪い場面に、さも追い打ちをかけるような悪い出来事が起きるのはままある事。全然珍しくもなければ、むしろ有りがちと言っていい。
前方から光の玉が二つ近づいてくる。最初はビー玉くらいの大きさだった光が、今やサッカーボールくらいの大きさになっただろうか。
俺たちがいるのは、普段電車が行き来する線路の上。もう分かっただろう?そりゃあ、近づいてくるもん何て、言わずもがな一つしかない。
貨物列車。いくつものコンテナを背中に連ねたそれが、俺たち目がけて走ってきているのだ。
過去に、『遠くから聞こえる列車の走る音が好きだ』と言った覚えがあるが、前言撤回する。今はマウラのおかしな呪文のおかげで周りの音が奪われているけれど、もしもこのますます大きくなる光の玉に、段々とボリュームが上がっていく音まで加わっていたならば、俺は正気を保っていられた自信がない。こんなもん即失神だ、失神。
とはいえ、正気を保っていたところで基本的に俺たちには出来る事がないわけで。列車を避けようにも、首から下は神経が切断されているみたいに俺の意思が全く反映されないし。マウラに対して悪あがきしようにも、奴が俺たちに何をしているのかさっぱり分からないときたもんだ。
このままではマウラが手を汚すまでもなく、俺たち二人は見事にお陀仏。明日には集団自殺か、良くて事故死として処理されている事だろう。
「おいおいおい、向こうから電車が来てるのが見えるだろ?何とかしてくれ!」
今や明らかな敵となったマウラであろうとも、縋れるものなら縋り付く。しかしそれは全くの逆効果だったようで、「怖いか?怖いのじゃな?」と、ここぞとばかりにマウラは嬉しそうな顔をした。
「俺が死んだら先輩はきっと悲しむぞ。いいのか、それで。お前はマウラであり、先輩でもあるんだろうが!」
「ここにきてようやく我の言を飲み込んだか。そうじゃ、我はマウラであり、笹条四姫じゃ。じゃが、・・・・本当に笹条四姫はお主が死んで悲しむかの?」
「悲しむよ、悲しむに決まってるだろ!そう・・・・・・に決まってる!」
「若干の気になる間があったようじゃが。ふむ、よいじゃろう。であれば」
マウラは俺の顔をじっくりと観察しながら、言った。「笹条四姫には、お主の事は忘れてもらうしかないの」
ザクリと、マウラの言葉が胸に刺さった気がした。
今夜、奴にされた事を枚挙してみればキリがない。体の自由を奪われ、ヒコをおかしくされ、あまつさえ今は殺されかかっている。それなのに、どれとも違う種類の苦しみが俺を襲った。どれよりも激しい痛みが伴った。
先輩が、俺の事を忘れる?
言いようのない虚脱感に加え、目の前が一気に暗くなる。
「おお、これか。これだったのじゃな?」マウラは今日一番の笑顔を見せて、言った。「これこそがお主の弱点であったか」
一層、目を輝かせるマウラ。その間も列車はどんどんと近づいてくる。
「泣き叫んで助けを呼んでみたらどうじゃ?もっとも幕の外から内側に音が届かぬように、お主の声がどこかに届くことなどありえんがの」
絶望に絶望を丹念に塗り重ねて行く。過剰制圧。オーバーキル。死体蹴り。
しかしすでに俺の心は、そんなのはどうでもよくなっていた。
「もういいだろ」
「ん?何じゃ?」
「なあ、もういいだろ」
「ククク・・・ハハハハ、何じゃそれは。命乞いのつもりか?」
けたたましい笑い声を上げるマウラは、軽くその場でジャンプしてみせた。やはり目に見えない翼が背中に生えているのか、激しい砂塵を巻き上げた後で、するすると体が空へと昇っていく。
「何をブツブツ言うておる。そのような小さき声では笹条四姫には届かんぞ。お主がこの世で残す最後の言葉がの」
そうする内に、列車はもはや肉眼でもその巨大な車体が確認できるまで近づいていた。マウラが張ったと思われる幕、その結界のような部分に列車は見事正面から突っ込んだように見えたが、双方に影響らしい影響はまるでなし。そこには何も存在しないかのようにあっさりとすり抜けて、駅のホームを通り過ぎて行った。
列車が走り去った後で、マウラはゆっくりと地上へ足をつけた。
「まこと今宵は楽しい夜であった」
思わず本音が零れたマウラは、丹精込めて作った陶器でも眺めるように、それまで束矢と彦次郎がいた場所の地面をまじまじと見る。しかし、その様子のおかしさに気がつき、すぐさま顔色を変えた。血飛沫が、魔王が愛してやまない命の残滓がどこにも見当たらない。
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「もういいだろ」
声が聞こえた。だが、それが誰の声だか分からない。
「もういいだろ、ヒコ。いつまでそうしてるつもりだ」
声は俺に話しかけていた。だが、ヒコとは誰の事だか分からない。
「悪いが俺は死ねない。先輩をあんな状態のままほっとくわけにはいかない」
声には強い決意を感じた。その決意は、暖かくて眩しかった。
「だから力を貸してくれ」
「汝、ガラハが犯した罪は、全てこの名地束矢が許します。消せない後悔と残る責任は、俺が一緒に背負ってやるよ」
誰の声だか分からなかったのは、俺が目を閉じていただけだった。
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「なるほど。確かにお主の声が届く相手、一人だけおったのぉ。幕の内側から内側に声が届くは当たり前じゃ」
一見するとマウラが語りかける相手は駅のホーム、単なるアスファルトに対してそうしているように見えた。が、違う。そうではなくて、マウラは線路上に落下した際の避難スペースにどうにか体をねじ込んだ俺と彦次郎に話しかけていた。
「そうか、そうか。お主か。お主であれば、我の支配を突破できたのも頷ける」マウラの声に今までのような余裕は感じられない。「なあ、ガラハよ」
親しみのこもった風な呼び方だが、その顔はまるで笑っていなかった。怒りをどうにか飲み下したような苦々しい顔。俺と彦次郎はその穴倉のような場所から抜け出し、マウラの前に並んだ。「助かったぜ、ヒコ」
「礼はいい。そもそも俺は全然助かった気がしていないからな」
「俺だってそうだよ。だいたい列車の次は魔王が相手って、どんなハチャメチャRPGだ」
電車を避ける際にぶつけた膝を摩りながら、闇夜に浮かぶマウラの方を見た。
「で、これからどうする?えっと・・・ガラハ?」
「よしてくれ。今まで通りヒコでいい。記憶を無くす前の俺が何であれ、今の俺は彦次郎だ」
「・・・分かったよ、ヒコ。で、なんかいい作戦あるか?」
俺は前を向いたまま、訊ねる。正気に戻ったばかりのヒコの顔を確認したいところだが、そうはしなかった。それは、とどめを刺す事に失敗したマウラが、次にどんな手を仕掛けてくるのか見逃さないためだ。
しかし俺の予想に反し、マウラは次なる攻撃を加えることはなく、ぐずぐずと会話する俺たちを一瞥した後、また宙へと浮かび上がった。枕木の周りに敷き詰められた砂利や石が簡単に吹き飛ばされる。
「少し試してみたいことがある。束矢は時間を稼いでくれるか」
「オッケー、了解」
何をするつもりかは聞かなかった。ヒコにアイディアがあり、俺のすべきことが決まっている。だったらもう何も聞く必要はない。やれることを全力でやる。駄目だったら次を考えよう。それでいいじゃないか。
俺は左手の握りこぶしを右手で包み込むようにして、ポキポキと指の骨を鳴らす。マウラだか、先輩だか、魔王だか知らねえが、もう延々頭の中だけで考えるのはやめだ。ヒコらしくないヒコを否定した俺が、俺らしくなくなってどうする。とにかく今は当たって砕けろ、結果は後から付いてくる!
威勢よく肩を回しながら、一歩、二歩と足を前に出した。
「かかってきやがれ!」
・・・・と、いつもの癖で恰好はつけてみたものの、さてどうするか。時間を稼げというのは、つまりマウラの気を反らしてくれってことだよな?しかしそれは中々の難問だぞ。だって、さっきからあいつ、ヒコの方しか見てねえもん。
さらに言えば、当のマウラは海を泳ぐくらげみたいに現在も空中を漂っている。手も足も出なさ加減で言えば、体の動かせなかった先ほどと大差ない。
仕方がないので、俺はとりあえずズボンのポケットに手を突っ込んだ。生憎俺のポケットは四次元ではないが、もしかしたらこの状況を打破できるような、スーパーなアイテムが入っているかもしれない。その可能性は0じゃない。
「んなわけねえか」
入っていたのはコインが一枚。そうだ、たしかこれはヒコとショッピングモールに行った日、抽選会の邪魔になるからって荷物を一旦ロッカーに預けた時の、あの戻って来た百円玉じゃないか。
俺はその百円玉を手のひらに乗せて、しげしげと眺める。おお、こんなポケットの奥底で、洗濯機の激流に耐えて、よく頑張ったもんだ。
奇妙な感動すら覚えつつ、俺は躊躇なくその選ばれし百円玉をマウラ目がけて投げつけた。
(うお、やべえ!顔面コース!?)
先輩瓜二つの顔に向けて、一直線に進む百円玉。流石に焦った俺は声を出そうとしたのだが、マウラはまるでそこに百円玉が飛んでくることを知っていたかのような手の動きで、親指ほどの大きさの百円玉をキャッチしてみせた。ちらりと俺の方に目をやると、そのままの流れで、正真正銘本物の百円玉を二つに折り曲げる。
「すっげ・・・、じゃなくて、おい!何折り曲げちゃってくれてんだよ。この国にはなあ、硬貨を曲げたり変形させちゃいけないって法律があんの、知らねえのか?」
「知らんな。じゃが、この国には硬貨を人の顔目がけて投げてよいという法律があるのか?」
「ぐぬぬ・・・・、ってお前人じゃなくて魔王だろ。この場合は、うおっ!?」
反論の途中で、足元に飛んできた二つ折りの百円玉。それが敷き詰められた砂利を吹き飛ばし、地面に小さなクレーターを作る。
「なんつー馬鹿力だよ。なあ、ヒコ。あとどれくらい時間を稼げば、ってうぉっ!?」
何だろう、さっきから俺、驚きすぎ。
振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、手をごうごうと燃やす彦次郎の姿だった。額に汗をかき険しい顔をしたまま、頷いて言う。
「もう大丈夫だ、束矢。ありがとう」
「大丈夫って。いやいやいやいやいや、ヒコ腕燃えてんぞ。大丈夫じゃねえだろ」
「いや、正確には腕は燃えていない。ほら」
そう言って差し出されたヒコの手。よくよく観察してみれば、炎は手のひらに接するギリギリのところで、見えない壁のような物で遮られており、ヒコの言う通り燃えてはいないようだった。
「いやいやいやいやいや、そういう問題じゃなくてさ。熱くないのか?」
「ああ、全く」
「嘘だろ?」イマイチ信じられない俺は、慎重に手を近づけてみた。「めちゃくちゃ熱いじゃないか!」
「そうか?俺は感じないんだがなぁ」
彦次郎はそう言って、逆の手を炎の中に入れて見せる。炎には投入された手を避けるように、ぽっかりと中央に穴が開いてしまった。
「・・・で、それをどうする気なんだ?」
訊ねたこっちがびっくりするくらい素早く、むしろ被せ気味に彦次郎は答えた。
「こうする気だ」
もっと言えば、答える前に彦次郎は動き始めていた。野球の投球フォームみたいに振りかぶった彦次郎は、ついさっき俺がしたみたいに、その炎を宙舞うマウラ目がけて投げつけた。目にも止まらぬ速さで飛ぶ炎は、夜空を横切る流れ星の様で、まさしくヒコの狙い通り、マウラの体にぶつかって爆発した。
「ちょ、何してんだヒコ!やりすぎだ。あれは先輩でもあるんだぞ」
慌てた俺が彦次郎に詰め寄る。だが、その先の問答は燃え盛る火柱の中から姿を現したマウラによって遮られた。「大事ない。この程度の攻撃、眠っておっても防げるわ」
「ほっ、よかった。四姫先輩、生きてた」
「心配せずとも、大事な依代をそう簡単に失うわけなかろう」
その言葉からにじみ出る自信の通り、マウラの体には傷らしい傷はなく、変わらず我が校のブレザーをたなびかせながら空を泳いでいる。先輩が無事だったのは安心したが、あれだけの炎を浴びておいて服すら燃えていないとは。やっぱり奴は普通じゃない。そう言わざるを得ない。
「駄目だ、これじゃ足りない」
「足りない?何が足りないんだ?」後ろでボソボソと喋る彦次郎に、俺は叫んだ。
「棒状の物、・・・あと火だ。とてつもなく大きな火」
「さっきの火じゃ駄目なのか?」
「あれは元々俺が作った火だ。俺のエネルギーを、ザハールを通して火に変換しただけ。けどあんなちっぽけな火じゃ奴に痛手は負わせられない。だから必要なんだ。自然界の摂理に則った火、それもとてつもなく強い火が」
「って言ったってよ、そんなもんある訳ねえだろ」
辺りを見回してみるが、火を噴きそうな物なんて見つかるはずがない。明かりならばあるが、駅の非常灯は火じゃなくて電気だし。あと光ってる物といえば空に浮かぶ月くらいのものか。
「そうだ、いい考えが浮かんだぞ!」彦次郎は突然大声を出すと、足元に落ちていた石を二つ手に取って俺に渡してきた。
「何だこれ」
「火だ。束矢、火を頼む」
「は?・・・これで火を起こせってか?」
俺は驚いた。というより唖然とした。これがクラスメイトとの会話の中であれば『石器時代か!』と鋭いツッコミを入れている場面。しかし、なんせそれを言ってきたのがあの彦次郎。実直、まじめ、堅物。絶対にボケじゃない事は確かだった。
「冗談じゃない、無理だ」
「無理ではないはずだ。テレビでやっているのを見た事がある」
「馬鹿野郎。テレビに出ていたのがどんなアウトドアマニアか知らねえが、こっちはド素人だぞ」
「じゃあ別の何かを用意してくれ」
「何かって何だよ!?」
「火に代わるエネルギーだ。とてつもなく強い、何か」
そう答えた途端、彦次郎の目の色が変わった。「束矢、危ない!」
前に立つ俺の体もろとも地面に倒れ込むと、先刻まで俺達が立っていた場所に、火柱が立ち上った。なんと彦次郎がマウラに向けて投げつけた炎の塊、あれによく似た代物をマウラがこちらに向けて、まるで丸めた鼻くそでも飛ばすみたいに放ってきていた。
彦次郎はすぐさま立ち上がると、倒れたまま身動きがとれなくなった俺を置いて、地面を蹴った。二個、三個とマウラの放った炎の塊を巧みに避けていく。どうやらマウラの狙いは彦次郎らしい。俺の事なんて、眼中にも入っていない様子。
今度は回避先を読むように飛ばされた塊を難なく避ける彦次郎。外れた塊が地面にぶつかる度、闇の中に炎の墓標が生み出される。
「俺が奴の攻撃を引きつけておくから、束矢は何か手を考えてくれ」
次は自分が奴の気を引く番だとばかりに、彦次郎はそう宣言した。たちまち俺から距離を取ると、軽いフットワークで敷き詰められた砂利の上を飛び跳ねる。
「そうは言われたってな」
そのとてつもなく強い何かって奴をヒコがどう扱うつもりなのかさえ、俺は聞かされていないのだ。考えようにも、ヒントが少なすぎるだろ。まさかさっきみたいに手のひらに乗せて投げつけるのか?だいたい魔王だなんだと脳が麻痺していなければ、ヒコの行動だって立派に異常の範疇だ。地震や雷を呪いだ何だと騒ぐような時代じゃあるまいし、それなのに仕掛けの『し』の字すら見えてこないとは一体どういう事だ。これがマウラのいう呪文、魔法という奴なのか?
いや、待て。今は集中だ。集中しろ、名地束矢。こうしている間も、ヒコはマウラの攻撃に晒されているんだ。早く何か考えろ。すぐに何か思いつけ、俺のポンコツ脳ミソ。
「すまん、束矢。もう持ちそうにない」
「早くねえか!?」
そう叫んだ俺は、しかし彦次郎の弱音の意味をすぐに悟った。彦次郎が逃げ回っていたのは、ホームとホームの間、およそ8メートルほど。二両の電車がすれ違う分だけの距離しかない。そこに地面とぶつかった後は火柱が残る炎の塊を投げ込まれれば、逃げ道が底をつくのは誰の目にも明らか。陣を増やせない陣取りゲームのように、結局はジリ貧になってしまう。
「何かいいアイディアは思いついたか?」
「無理言うな。駄目だ、降参だよ」
首を振る俺。その時偶然、足元に見失っていたはずの懐中電灯を発見した。どうやら投げ出された後、ホームからここに転がり落ちたらしい。それを拾い上げようとして、俺は膝を曲げた。
一瞬、背中に痛みを感じた。しかし、それは痛みではなく激しい熱の暑さだとすぐに気づくことになる。
「ほぅ、やるではないか。今のは遊ぶ気ではなく、当てる気で投げたんじゃがな」
マウラにそう言われ、振り返った俺は仰天した。
背後10メートルほどの場所に、自分の背の高さよりも大きな火柱が立ち上っていた。
「すごいな、束矢。今のは俺ですら反応出来なかったのに」
「・・・・・・ふんっ。あの程度の炎に当たるはずないだろ。あんなのはな、せいぜいメラなんだよ。RPGの世界じゃ、1レベルでも覚えられる下位魔法だ」
俺は鼻息を荒げたまま、懐中電灯をヒコに手渡した。深い意味はないが、靴紐を結ぶフリをして再度屈みこむと、手で股間の辺りを触る。
・・・実際は完璧、強がりだった。足はガクガクと震え、ズボンまで染み出さなかったのが、唯一の救いだろう。
「『めら』?なんじゃ、『めら』とは」
「知りたきゃ自分で調べやがれ」
「つれないのぉ。じゃあ、せめてその『めら』という魔法の最高位魔法の名前だけでも教えては貰えぬか?」
「何でそんな事が知りたいんだよ。・・・まぁ、いいけど。メラの最高位魔法はな、メラゾーマだ」
「ほぉ。『めらぞーにゃ』。では、こいつはその『めらじょーにゃ』に届いておるかの?」
そう言ったマウラの足元が急に明るくなり、輝きを帯び始める。空中に魔法陣のようなものが浮かび上がったかと思えば、その模様がどす黒い赤色に染まった。それはどこからどう見ても、血の色だった。
模様に見覚えがあった。俺は慌てて頭の中身をひっくり返して、記憶という記憶を洗いなおす。そうだ、あれは映画館の壁に描かれた模様にそっくりじゃないか。
だが、驚くのはそれだけではない。ヒコと二人で苦戦を強いられてきた、あの火の塊。それがおもちゃ同然に思えるほど、言うなれば『地球上の皆、オラに力を分けてくれ』的な、巨大な火の玉がマウラの掲げる手の上に乗っかっていた。
それをこちらに向けて放つ気マンマンなマウラ。「ほれ、行くぞ」
俺はそこでぴんときた。
「あれは」ヒコの方を振り返り、マウラの方に指を伸ばす。「あの火じゃ駄目なのか?」
「駄目だ。あの火は構造が複雑すぎて俺には扱えない」
「んだよそれ。意味分かんねえ。少しは俺にも分かるように説明してくれ!」
しかし、あんなのを本当に投げられようものなら、俺たちどころか、この町ごと地球上から消え去りそうだ。明日のテレビや新聞は、こぞってこう書き立てるだろう。『一つの街が消滅、隕石か』。それはそれで眉唾もいいところだが、『魔王の魔法によって街が消滅した』よりかは十分にマシと言える。
何処からともなく消防車のサイレンの音が響いた。まだ距離があるからなのか、それほど大きくはない。けれど、段々とこちらに近づいてきているのだけは分かる。
そりゃそうか。マウラの摩訶不思議な力によって、幕の外に爆発音が漏れていないとはいえ、あれだけガンガン燃やしてりゃ誰かしら異変に気付くわな。
「・・・ん?そういえば、どうして幕の外の音が聞こえるんだ?」
目を細めながら、幕の方を見やる。けれど、先ほどまではっきりと判別出来ていた幕の外と中との境界線、それがいつの間にやら、どこにも見当たらなくなっていた。
どうやらとっくに呪文は解かれていたらしい。
よくよく思い返してみれば、こうやって俺たちが自由に動けている時点で、もう一つの魔法、体の自由を奪う呪文は解かれていることになる。
「なあ、ヒコ。奴はどうしてもう一度俺たちにさっきと同じ魔法を使わないんだろう」
「さあな。恐らくもう一度使ったところで、俺がまた解いてしまうと思っているんじゃないか?」
彦次郎は振り返らず、マウラの方を見据えたまま言った。
たしかにヒコのいう事にも一理ある。だがヒコが魔法に対抗できたとしても、同じ事を俺は出来ない。であるならば、二人の気を逸らすくらいには役立つだろうし、むしろ俺という足手まといを使ってヒコの行動を制限できるなら上々な作戦だとも思えるんだけど・・・。
「束矢、来るぞ」
その声にはっとする。思考の川から、現実へと無理やり引き戻された。
「さらばじゃ、勇者よ」
そう言って、マウラはメラメラと燃える炎の巨大な塊を振りかぶった。
・・・・・・しかし、寸での所で投球は中断された。首だけをぐるりと回し、あらぬ方向をキッと睨みつける。
「小賢しい、何奴じゃ」
相変わらず聞こえてくる救急車のサイレンの音。だがその規則的な音を掻い潜るようにして、風に乗った歌声が深夜の駅のホームへと伝わって来た。この曲はまさか・・・。
「ラグドール・・・?」
俺もマウラと同じ位置に視線を向ける。
あからさまに苛立った顔で、舌打ちをするマウラ。すると瞬く間に空を黒い雲が覆いはじめ、月を隠した。ゴロゴロと、今にも雷を落としそうな気配がある。
「依代による行使とはいえ、我の支配を上回るじゃと?無礼者が、誰の断りを得て横やりをいれておる」
「そういえば、天気予報だと週末の天気はずっと曇りか雨だった」彦次郎が口に手をやり、眉をひそめる。「こんなに綺麗に月が見えるはずないんだ」
「ちぃ、邪魔しよって。急がねば、いつリンクが途切れるやもしれん」
怒りが最高潮に達したマウラは、仕切り直しとばかりに顔の向きを戻し、構える。
「まずいぞ、束矢。今度こそ本当に・・・って、どうした?大丈夫か?」
彦次郎が手を伸ばした。伸ばした先は、無警戒につかつかとマウラに歩み寄る俺だ。
「行くな!それ以上近づいては危険だ」
「ヒコ。さっき言ってたとてつもなく強い力だけどな、もしかしたら用意してやれるかもしれねえ」
「む、本当か?」
「ああ」
何も危険を冒してまで、無意味にマウラに近づいて行ったわけではない。俺の中に宿る第六感、時たま何かの拍子に目覚める未来予知のような感覚が、ここにアレが来ると囁いたのだ。前にこの感覚を味わったのは、ショッピングモールでのクジ引き大会。あの時だって俺の想像した通りの結果が待っていた。
頭上を見上げた。月が望めた頃の晴天は見る影もなく、今はどんよりとした黒雲が波打っている。俺はその雲のある一点を見つめながら、手に持ったコイン。マウラに折り曲げられ、Uの字に変形した百円玉を空に向かって全力で投げた。
「落ちろおおおおお!」
その叫び声は、一瞬にしてかき消された。雲から百円玉に伸びた一本の光の筋。その筋に飲み込まれるようにして、百円玉は視界から姿を消した。消したのは百円玉だけではない。景色のほとんどが白に染まり、目を開けていられなかった。
目を固く閉じたまま、俺は衝撃波で吹き飛ばされた。駅のホームで背中を強打し、激しく咳き込む。どうやら雷はその後行き場をなくし、駅の屋根についていた避雷針に吸い込まれていったらしい。
「すごいな、束矢。どうして落雷を予測できたんだ?」
「ヒコか?そこにいるのか?そいつは後だ。それよりどうなんだ、今のでよかったのか?」
俺は必死にヒコの姿を探す。出来る事はやった。だから次はヒコの番だ。勢いよく目蓋を上げ、声のする方を向いた。
そこにいたのは懐中電灯を手にした彦次郎。その懐中電灯の先には不可思議に伸びた真っ白い刀身がついていて、その周りをバチバチと電気が纏わりついている。
「ああ、十分だ。後は任せろ」
よければ感想をお願いします
未成年委員会による日本の壊し方(連載)も同時に書いてます
暇だったらそっちも読んでみてください