第六話「ホーム」
岩都駅の一番ホーム。
街の中央に位置する岩都駅において、西へ行きたいのであればここで到着する電車を待てばいい。朝は通勤や通学で、人が溢れかえる。それは大都市のそれに比べれば何てことない数かもしれないが、この片田舎の何処にこれだけの人が隠れていたのかと、そういう意味で、目を見張るだけの人数が立って電車を待っている。逆に街の東へ行きたいのであれば、二番ホームで電車の到着を待つべきだ。それは一番ホームから正面に見える、跨線橋を挟んだ向かい側のホーム。夕方になれば、一転してこちらの方が賑わいを見せるのは必然。朝に出かけて行った人たちが伝書鳩の帰巣本能が如く勤勉さで、会社や学校から戻って来るからだ。
ならば駅にホームは一つきりにして、朝と夜で使い分ければいいのではないかという議論が巻き起こるのかと言えば、まるでそんな事はない。当たり前だ。そんな0か、100かみたいな話が日常生活に当てはまるはずがない。朝であっても東に用事がある人だっているだろうし、夕方に西方向へ帰っていく人もいるだろう。あるいは、ホームの三脚一セットになった椅子のド真ん中に座り、反対側のホームに停まったぎゅうぎゅう詰めの満員電車を眺めるのが最高の気晴らしであり、唯一の愉楽だと感じる変態がいたって、全然おかしくはない。頑張っている人を嘲笑うかのように、さも自分が与えた試練であるかのように。
ときに、もしもそんな奴の手にこの世界、我々の日常が落ちてしまったらどうなるのだろうか。神様気取りの勘違い野郎。しかしどういう訳か、そいつは本物の神と肩を並べるだけの力を持ち、気分次第では地球なんて容易に滅ぼすことが可能だったら。
きっと恐怖や悲しみに世界が飲み込まれる?恐怖や悲しみも、一周回れば面白おかしくなっちゃうのかな?それとも・・・?
「本当に来るのか?」
現在、土曜日の25時50分。つまり日曜日がやって来て、一時間五十分が経ったところだ。駅のホーム、および構内は水を打ったように静まり返り、電気は避難誘導灯以外の全てが消えてしまっている。駅を舞台にした怪談話というのはあまり聞いた事がないが、なんせ持ってきた懐中電灯の電源が入れられないために、そこそこムードが出てしまっている。というのも、先ほど唯一の光源である俺の持った懐中電灯に、見た事もないくらい巨大な蛾が突進してきた。それで慌てて電源をOFFにした次第。女子供みたく悲鳴は上げなかったが、あれには内心かなり肝を冷やした。
「来るだろうよ」俺は短く返事を返す。
「どうだか」彦次郎は短く疑問を呈する。
夜だからか、それとも材質が悪いのか。一番ホームにある三脚一セットになった青い椅子は、先ほどから俺のケツの温度を随分と奪ってくれている。ジーパン越しにじわじわと侵食し、今や穴にまでその手を伸ばそうとしているのだから侮れない。俺は何度もケツを振り、足を組み替えた。太ももの筋肉をパンパンに張るか、そうする以外に抵抗する術がないからだ。それなのに、隣に座る彦次郎といえばそんな仕草はおくびにも出さず、指に挟んだ手紙を不審げにじっと眺めている。
「手紙で思いを伝えようとする奥ゆかしい子だからな。もしかすると急に恥ずかしくなって、どこかに隠れているのかもしれん。よし、ヒコ。俺はあっちの方を探してくるから、ヒコはこの辺りをくまなく探せ」
「思い?時間と場所しか書かれていないこの手紙のどこにそんな思いが詰まっているんだ?」彦次郎は持っている紙をぷらぷらと雑に振った。
「こら、ぞんざいに扱うでない。それは大事な大事な恋文であるぞ」
「あー、はいはい。うるさいなあ」
呆れたように首を振る彦次郎。親父に騙され、その失敗を俺が抱腹絶倒したばっかりに、まだ怒りの火種がくすぶっているらしい。いつもであればこの程度の冷やかし、『なんか言ってるなぁ』くらいの涼しい顔で流すのに、この件に関しては何度いじっても、毎度不機嫌な態度をとる。もちろん悪いのは最初に勘違いをさせた親父なのだが、滅多に見られないヒコの照れ隠しがツボに入り、何度も蜂の巣をつついてしまう俺も相当に底意地が悪い悪人である。
「時間が来れば、何か起きるだろうか」
「そりゃあ、何かあるだろう。そもそも手紙が親父の悪戯じゃなけりゃ、な」
「・・・その可能性があるのか?」
「ああ、あるね。この世界に絶対っての存在しない。猿だって木から落ちるし、飛行機だって空から落ちる。そのうち月だって落ちてくるさ。だからそんな可能性だってある、絶対に」
そう言い切った俺に、彦次郎はめんどくさそうな顔を向けた。心の中でついたため息が、すぐ耳元で聞こえてくる気がする。
「なあ、束矢。・・・・・・どうしてまた誘ってくれたんだ?」
「は?」
「いや、怒らないでくれ。また誘って貰えたのは心から嬉しいんだ、本当に。でも俺は前に一度酷い断り方をした。それこそ、また誘って貰う資格なんてないくらいに。なのにどうして、と考えてしまうんだ」
「酷い断り方?何だそれ。覚えてないな」
「言ったろう?俺はお前みたいにはなれないって」
「あー、クソッ。ガタガタうるせえ。もういいんだよ」俺は彦次郎の方を振り返り、手を伸ばした。
一瞬、彦次郎はその伸びてくる手に怯え、体がびくんと跳ねた。恐らく殴られると思ったのだろう。だが、手はゆっくりと口の方へ動いた。俺はそのままアイアンクローのような感じで、彦次郎のほっぺたをぎゅっと絞り上げる。
出来上がった実にマヌケなひょっとこ面を、本人である彦次郎は見る事ができない。俺は必死に笑いをこらえようとしたのだが、幾分喋りづらそうに「何だよ?」と聞いてくるので、堰を切ったように噴き出してしまった。「うわ、汚い!唾が飛んだぞ!」
「すまん、すまん。しかし傑作だったぞ。あの顔は写真に撮って飾っておくだけの価値がある」
「おい、やめろよ。ったく、人が真面目に話をしているのに・・・」
「真面目・・・か。俺さ、決めたんだ。ヒコがあの小さな店に籠るつもりなら、必ず俺がお前を外に連れて行く。店の手伝いが自分のやるべき事だって?そんな訳ねえじゃんか。頭の悪い俺にだって分かるよ。それなのに店から出ようとしない。手伝い、手伝いって別の何かを探すつもりもない。じゃあ見つかるもんも見つからねえって。だったらさ、ヒコが探さねえって言うんなら、俺が探してやる。それにお前を引き込んでやる。断ったって無駄だぜ。手足をふん縛ってでも連れて行くんだからな」
彦次郎は、俺の提案に対し終始呆然としていた。何がなんだかよく分かず、ただただ気迫に押されている様子。耳から入ってきた言葉を必死に脳みそで噛み砕き、今後自分が置かれるかもしれない立場に思いを巡らせる。難しい顔をしたまま、一度だけ鼻をすすった。
遠くで踏切の音が聞こえた。短いカーブを曲がり終えた二つの丸い光が段々とホームへ近づいてくる。光に照らされた彦次郎の顔が、次の瞬間真っ白く染まった。続いて、ゴーっという大量の水が流れ込んでくるような音が、椅子に座り呆ける俺たちを襲う。風で前髪がめくり上がり、空間から声が奪われる。
「それにあの日のヒコは彦次郎らしくなかった。いつもの堂々とした雰囲気はないし、俺を丸め込むだけの正しさも感じられない。あのヒコがだぞ?正しさだけが取り柄の彦次郎様が、だぞ?」
「・・・またそれかよ」
「あの日のヒコは俺の知ってる、俺の家族である彦次郎じゃなかった。だから何を言われたかなんて、一々覚えてねえ。それだけだ」
彦次郎は椅子に腰かけたまま、まるで釣り糸を手繰り寄せるみたいに両足を抱え、体操座りのような姿勢をとる。膝の上に顎を乗せ、ブツブツと何かを繰り返し呟いた。
少しして、おもむろに髪を掻き毟りった彦次郎。何もかもが吹っ切れたようなさっぱりした顔をして、言う。
「フッ、珍しくカッコイイ事を言うじゃないか・・・束矢」
「何を今さら。俺はいつだってカッコイイぞ」
「そうか?たかだか蛾を見ただけで悲鳴を上げたのは、どこの誰だったかな?」彦次郎は眩しい物でも見るみたいに、目を細めながら笑う。
そうこうするうちに、手紙に記されていた約束の時刻がやって来た。というよりも、すでに若干過ぎてしまっている。現在日曜日の2時6分。辺りにこれといった変化はなく、時折駅前の道路を通る自動車のヘッドライトを数える以外にすることはない。2時15分になっても何もなければ、諦めてそのまま帰路につくつもりだった。
するとどこからともなく、靴音が鳴り響いた。コツンコツンとまるで行進曲を演奏する太鼓のような軽やかなリズム。ホームへと延びる階段を下りてくる足音だ。
俺は彦次郎と視線を合わせると、椅子から立ち上がった。ようやく謎の低温を誇るこの椅子ともおさらば。懐中電灯の電源に親指を添えた。頼むから飛んできてくれるな、蛾よ。
「お待たせしたかしら?」声の主は、屋根でこちらから顔が覗けないギリギリのところで、階段を降りる足を止めた。
6分の遅刻だと言うのに、ずいぶんと落ち着いた声だった。非常識な時間に呼びつけたのだから、せめて約束の時間くらいは守れよという言葉をぐっと飲み込む。万が一にも、俺の言葉や態度で階段の君を怖がらせてしまっては大変だ。出会い頭の印象こそが、その後の展開、および友好関係を大きく左右させると言って過言ではない。
あと少し、あと一段。そうすれば、このご時世に直筆の手紙なんぞで連絡を取ってきた、いじらしい淑女のお顔が確認できるのに。勝手に女性と決めてかかっているが、どうやら俺の早とちりではなさそうだ。懐中電灯の光をつま先から下半身、そして上半身へと当てる。そのシルエットを見て、先に声を出したのは彦次郎だった。
「おい、あの服の柄って」
「ヒコも気づいたか。そうだ、あれはうちの制服だ」
暗闇の中、スカートから生えた二本の細くしなやかな足がスポットライトに照らされたみたいに浮かび上がた。男子と同じで上下共に紺色をベースとした色使い、胸のポケットに校章のワッペンが縫い付けられている。ブレザーの中央に二つあるボタンを律儀に両方とも留め、ネクタイは首元まできちんと締まっていた。まるで学校案内用のパンフレットに載っている写真みたいだ。制服の着崩しが常態化した日常を送る俺からすれば、それは違和感の塊でしかない。まるでその現場を知らない人間が見よう見まねで着用してみたような、今日初めて我が校の制服に袖を通したような感じがして仕方がない。
「あら、お友達も一緒なのね」
「駄目だったかな?招待状には一人で来て下さい、なんて書いてなかったけど」
「いいえ、いいのよ。だって、その方が助かるんですもの」
俺は階段の方を睨みつけながら、その冷静さ訝しむ。まさか俺がヒコを伴ってくる事を予想していたのか・・・?むしろ、それこそが狙いだったかのような言い方が、どうにも引っかかる。
「それにしても意外だったな。まさか『フード野郎』がうちの学校の生徒だったなんて。驚きすぎて開いた口が塞がらねえよ」
「そう?あまりそうは聞こえないけど」
「いやいや、これでも十分驚いてんだって。少なくとも去年のクリスマスにサンタは架空の人物だって教わった時よりも驚いたぞ。あれもなかなかだったけどな」
「ふふ、何よそれ。あなた、冗談が上手ね」
「実は冗談よりも下ネタの方が得意なんだぜ?」
すると、心配そうな声で彦次郎が背後から名前を呼んだ。「おい、束矢」。俺はそれを手で制した。
「あれだけの脚力なら、運動部じゃ部のエースだろ?で、あんたは一体何部に入ってるんだ?テニス部か?バレー部、バスケ部?陸上部って線が濃厚だが、俺の知る限り女子の陸上部が大会で表彰されたなんて話は聞いた事がない。はてさて、あんた一体何の部の部員だい?」
先ほどまで俺の軽口に何でも返してきた奴の口が、ぴたりと動きを止めた。
「答えられないか。・・・・いや、悪かったな。勝手に運動部に入ってるなんて決めつけて。そうだよ、運動が出来るからって、運動部に入らなきゃいけない校則なんてないもんな。俺だって非公認の赦し屋なんてやってるし。だから今のは全部忘れてくれ。それはさておき、あんたには聞きたい事が山ほどある。例えば駅のシャッターをどうやって開けておいたのか、とかな。柵を乗り越える手間が省けたのはいいが、防犯上、夜中も開けっ放しってのはあり得ない。ピッキングか?それとも駅員を脅したか?どちらにせよ、普通はできる事じゃない。とにかくだ、いい加減その正体を現して貰おうか」
いつぞやの路地裏を思い起こさせるお預け状態を打開するため、俺は階段の方に近づき、光を当てようとする。だが、彼女には未だに顔を見られては困る何かしらの理由があるらしい。懐中電灯が向く瞬間、素早い動きで階段の残りの段を飛び降り、今度は柱の陰に姿を隠した。
「そうだ、その動きだよ」俺は笑みを浮かべ、二度三度頷く。後ろに立っていた彦次郎から手紙を引き取ると、丁寧に広げながら言った。
「思い出すなぁ。あの日、俺は殺されるんだと思ったよ。見ず知らずのあんたにね。人間ってのは、もしも死の淵に立たされたら、どうにかして生き残ろうとするもんさ。色々考えて、とにかく周りの情報を集めて。俺の傍を駆け抜けていく時に匂った、あんたの香り。きっと鼻がいつもより敏感になってたんだろうな。あんたが立ち去った後も、ずっと俺の鼻の奥に残ってたよ。あれは確かに他の場所で一度嗅いだことのある匂いだった。そう、あれはショッピングモールのクジ引き会場。その壇上で嗅いだ、あの匂いだった。実を言うとな、俺の特技は『一度嗅いだ女の子の匂いは絶対に忘れない事』なんだよ!」
「・・・自信満々に言ってるが、ただの変態趣味だな」
「うるさいぞ、ヒコ。大事な所で茶々を入れんじゃない!」
「その台詞を、お前が俺に言うのか・・・」
「それにこれ、この招待状。手書きはやめとくべきだったな」ポケットからもう一枚の紙、キスマークの入った当たりクジを取り出す。「筆跡がまるで同じだ」
俺の独壇場と化した一番ホームは、今まで並べた根拠を元に証明の最終地点へと向けて一気に速度を上げる。二重にロックされた錠前を一つずつ解除していき、ようやく正解という名の扉が開いたような感覚。脳内にアドレナリンが溢れ、自分に酔いしれているという言葉がぴったりだ。聞こえもしない拍手喝采が頭のうちで轟く。俺は満を持して、推理を〆に入った。
「そりゃあ、部活を聞かれても答えられないはずだ。同じ学校の生徒でなければ、そもそも高校生ですらないんだからな。うちの制服を着て登場するとは流石に予想外だったが、奇策も無駄に終わったな。どうして俺に近づいた。顔を見られたと勘違いしたか?通報されるとでも思ったか?その辺り、きっちりと話して貰うぞ。アイドル、平嗄」
俺の導き出した答えを前に、辺りが一段と静かになったように感じた。背中越しにヒコが息を飲むのが分かる。俺だけでなく、ヒコも一緒に緊張している。
しばらく静寂に包まれた後、ふとした拍子に柱の後ろに隠れた平嗄の影が震え始めた。・・・もしや泣いてる?おいおい、冗談だろ。俺はぎょっとして、若干たじろいでしまった。だが、実際にはそうではなかった。そうではなく、というより全然違った。柱の向こうからは、実に陽気で、かつ大胆な笑い声が聞こえてきた。・・・つまりは羞恥心など最初から持ち合わせていないような、大爆笑が聞こえてきたのである。
「あっはっはっは。すごいわ、名推理ね!もしかして将来は探偵にでもなるのかしら?」
「おい、お前。何がそんなに可笑しい」
「何がって、ねえ。そりゃあ、何もかもよ」
そう言うと、柱の後ろからぬるりと人影がはみ出してくる。「残念ね。匂いは思い出せても、声は思い出せなかったのかしら?」
「まさか・・・」懐中電灯を持った俺の腕が振るえる。光に照らされた奴の顔が、陽炎のようにゆらゆらと揺れた。
「どうしたんだ、束矢」
「・・・・そんな。せ、先輩?」
目の前に立っていたのは、紛れもなく笹条四姫先輩、その人だった。ふちの細い真っ赤な眼鏡、肩から下がったおさげ髪、挨拶する時に手のひらを見せるように上げる仕草。全ての要素が、彼女は四姫先輩であると告げていた。
「ハロー、束矢君」
「ど、どうして先輩がここに」動揺のあまり呂律が回らない。脳の回路がプスプスと音を立てて煙を吐き出している。
「あらあら、今度こそ『驚きすぎて開いた口が塞がらない』みたいね?」
「嘘だ・・・。たしか先輩は街を離れているはずじゃ」
「ええ、あなたの言う通り。笹条四姫は祖父の家に行って、今頃布団の中でぐっすり眠っているはずだわ。心配しないで頂戴、きちんとそうなっているから」
「は?そう、なっている?」
俺は目を丸くし、先輩の言葉をオウムのように繰り返した。
先輩の言っている言葉の意味が全く分からない。これは俺のせいなのだろうか?俺が驚きすぎて、混乱し過ぎているから理解が追いついていないだけなのだろうか?視点が慌ただしく点々と場所を移動する。先輩が飛び降りてきた階段、先輩が隠れていた柱、先輩の制服、先輩の顔、先輩の・・・・。
悠然と近寄ってきた先輩は、氷漬けにされてしまったような俺から指先で手紙を抜き取ると言った。
「この手紙は私が出したものよ。でも書いたのは私じゃないの」
ネジの壊れたブリキ人形が如く、ピタリと動きを止めた俺。そのまま呼吸さえも止まってしまいそうだ。手で首を絞められた訳でもないのに、喉の奥がきゅっと閉まり苦しい。唾液の一滴ですら、通るのがやっとだ。
「あらあら、大丈夫?なんだか顔が真っ青よ?」
「フード野郎が・・・先輩?いや、まさか。だって、あの匂いは。一体どうなっているんだ!?」
周りの事なんてそっちのけで考えても、答えは出ない。いくら考えても考えても、眼前に広がるアンサーに繋がらない。その様子を眺めながら、先輩がつまらなそうに言った。
「ふーん。話し相手にもなってくれないんだ。別にいいけど」
おでこにじわりと汗が滲む。はたしてさっきまでこんなに暑かっただろうか。熱帯夜でもあるまいし。極寒の三脚一セットの椅子の冷たさを、もうすっかり思い出せないでいた。
先輩は隣に立つと、呆然とする俺の肩に手を置いた。耳元で囁く。「もう、お休みなさいな」
その声は天使の歌声のように優しく、神様のお告げにも似た安心感を纏っていた。そうか、もう休んでいいんだ。この滅茶苦茶な有様や、右も左も上も下も分からなくなった俺、何もかも放り出して休んでいいんだ。これ以上に有り難い事はない。そうだ、目が覚めたら先輩にメールを出そう。こんな不思議な夢を見たんだと、先輩もそこに登場した事を報告しよう。よし、決まり。それでは、お先に失礼して。おやすみなさい。
目蓋を閉じかけた時、何かに背中をドンと突き飛ばされた。俺は受け身なんて取る暇もなく、無様に駅のホームを転がる。幸い線路上には落ちなかったものの、一歩間違えばホームから線路まで1メートルの高さを真っ逆さまだ。
「あっぶねーなー、何しやがる!」
「すまない、束矢。だが、何かおかしい。とてつもなく嫌な感じがする」
「ヒコ!お前か、押したの!」そう言って振り返った俺の目に、にわかに信じがたい光景が飛び込んできた。彦次郎に背中を押されなければ俺が立っていたはずの地面に、大きく半球形の穴が開いていた。まるで隕石がぶつかってできたクレーターのよう。しかしそのえぐれ方があまりにも綺麗なので、最初からこういうデザインでしたよと言われれば、そのまま信じてしまいそうである。
「な、なんだよこれ・・・」俺は穴から遠ざかるように、後ろへと這いずる。
「あら、残念」先輩はこともなげに言った。「相変わらず感がいいのね」
「せ、先輩?」
声を振り絞る俺。だが、先輩の目にはもう俺の姿は入っていないようだった。じっと彦次郎の方を見つめる。睨みつけるのではなく、それは親が子に向けるような慈愛に満ちた視線。何なんだよ、本当に何なんだよ!?とうとうパニック状態に陥った俺を置き去りにして、彦次郎が冷静沈着に訊ねた。
「あんた、本当に束矢の知り合いか」
「うふふ、そうよ。そこに芋虫みたいに転がる束矢君の先輩。それが私よ」
問答が終わり、またも視線を交わす先輩と彦次郎。バチバチと音は聞こえないまでも、その間には敵意と慈しみが交錯していた。
次に口を開いたのは先輩の方だった。
「その様子だとまた失敗したようね。あなた、昔の記憶がないんでしょ?自分のすべきことが思い出せていないみたい」
「ぬうっ!?な、何故その事を。まさか束矢から・・・」
「ふふ、驚いちゃって。知らぬは己ばかりなりってね」愉快げに笑う先輩は、ついに手まで叩いて喜び始める。
彦次郎の警戒メーターの針が振り切れたのが、傍から見ている俺にも分かった。急速に周りの空気が入れ替わり、肌の表面をピリピリと静電気のような物が伝う。過去に二度、同じような空気に遭遇した事がある。詳しい説明は省くとして、その時は俺やヒコの身に何かしらの危険が及んだ時だった。であれば、今回もそれほどの事態だという事なのだろうか。
当然俺はヒコの秘密を、特に記憶に関して、先輩はおろか親父以外の誰にも喋った事はない。そもそも二人は今日が初対面のはず。ヒコの方はまさしくそういった対応なのだが、先輩の方はというと、あの訳知りな表情だ。
戦闘態勢に入った彦次郎を、慌てて俺が諌める。「やめろ、ヒコ。これは何かの間違いだ」
「束矢、目を覚ませ。こいつはお前の知る先輩じゃない。そもそも人かどうかだって怪しい。こんな気配の人間、今まで出会った事がないぞ」
「は?何言ってんだ、お前。だって何処からどう見たって四姫先輩そのものじゃ」
そう言って、俺は先輩の顔を指さす。月の光を除けば唯一の光である懐中電灯は、先ほど背中を押された時にどこかへ転がって行ったらしい。どうにか暗闇に慣れてきた目を凝らしながら、俺は言葉を失った。
その時、俺は初めて知った。闇の中でもはっきりと存在を主張する黒色が、この世界にはあるということを。ほの暗い夜の帳なんかでは隠す事のできない、本物の暗黒という色を。
先輩の眼球から、ついさっきまであったはずの白色が消え、全体が真っ黒に染まっている。まるで出来の悪い宇宙人マスクみたいだ。その目がじっと俺の方を見て、逃さない。
「うふふ、なぁに?束矢君」
「う、うわあ・・・!」
「落ち着け、分かっただろ。あれは違う。本物の彼女を知ってるお前が騙されるくらいそっくりだけど、似ている別の何かだ」
「別の何か、なんて失礼しちゃう。私が本物の笹条四姫よ。ほんのすこーしだけ別人も混ざってるけど。偽物は祖父の家に行ってる方」
狼狽する俺を、さらに深く狂乱の底へと突き落とそうとするような落ち着いた声。もう本当に訳が分からなくなって、ほとんど自暴自棄のような感じで叫んだ。
「ああ、もう!頭の中が、こんがらがって最悪だよ!すぐにでもゲロ吐きそうだ!とにかくあれだ、誰がなんて言おうとあんたは四姫先輩じゃない。待ち合わせに深夜を選んだのも、顔がよく見えないようにするためだったんだろ?」
「・・・お、おい、束矢。平気か?とりあえず一度深呼吸をしてから」
「それにな、先輩は俺の事を『束矢君』なんて呼ばねえんだよ。本当は『名地君』だ。まだそこまで関係が進んでねえんだよ、まだな!覚えとけ!」
それを聞いた先輩(偽物)は首を傾げる。「そうなの?日記には束矢君って書いてたのに、おかしいなあ」
「なに!?・・・・・・へへっ。なんにせよ、だ。先輩のフリをするなんて許せない。目的は何だ。そもそも誰なんだ、あんた」
当初よりの疑問。俺の的外れな推理だとか、急な先輩激似の偽物登場だとかで色々と紆余曲折はあったものの、俺は一体どんな奴の悪巧みなり陰謀なりに巻き込まれたのかという原点にようやく戻って来れた。
そう訊ねられた先輩は、またも大笑い。歯茎なんかガッツリと見せちゃって、ある意味で人を捨てちゃってる感が滲み出ている。
「あーあー、もう疲れちゃった、この喋り方。真似ると意識も混濁するし、ログも引っ張られる。知識や慣習の理解だけは助かるんだけどね。でも、やめやめ。主導権を完全に渡して貰おうか」
先輩の声が不気味に低く、そして腹の底に溜まった水を震わせるような力の籠ったものに変わる。到底、そこら辺の女学生が発する事のできるような声には聞こえない。まるで地表に噴き出した溶岩がぐつぐつと煮えたぎるような、それでいて全てを焼き尽くす業火の激しさを含んだ音。不意に先輩の首がかくんと折れ、頭が下を向いた。自身の足元をじっと見つめたまま、左右のおさげ髪が振り子のように一定の速さで揺れる。
次の瞬間、先輩の体がぶわっと宙に浮きあがった。吹き飛ばされたという感じではなく、ワンテンポの助走を挟み、自らの意思で飛び上がったようである。先輩の背中に、透明で巨大な鷲の翼が見えた気がした。それを力強く羽ばたかせ、空中を漂う先輩の体が月の隣に並ぶ。
「我が名は、Maura Lilla Zara (マウラ リール ザラ)。故あって別の次元から干渉させてもらっている。こちらの世界で我のようなモノを何と呼ぶかは知らぬが、あちらでは『魔王』と呼ばれていた」
「この世界を我に捧げよ」
よければ感想をお願いします
未成年委員会による日本の壊し方(連載)も同時に書いてます
暇だったらそっちも読んでみてください