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赦し屋とひこじろう  作者: 刃下
第一章「赦し屋とひこじろう」
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第五話「便り」

「そうね。確かに名地君の言う通り、『ついにやってやった』と読めなくもないわね」


四姫先輩は俺の携帯電話、P-409を手にして、言う。持ち主よりも遥かに手慣れた操作で、別角度から取られた写真を呼び出しては、ああでもないこうでもないと首を捻った。

金曜日の放課後。例に及ばず、ここはランチの香り残る食堂の片隅。すでに券売機の電源が落とされているため、物言うのは俺と目の前に座っている先輩。そして、低い地響きのような音を出し続ける冷水機くらいのものだ。今日も今日とて、赦し屋絶賛営業中。


「右の文は・・・・うーん、漢字かしら?画数が多いからそうだと思うんだけど、こんなに字体を崩されたんじゃ解読は難しそう」

「その後ろの、『やってくる』は、ギリギリで読めるんですけどね。何がやって来るんでしょう」

「やってくる・・・・、サーカスとか?」


顎に人差し指を当てながら、頭の上をクエスチョンマークで埋める先輩。その様子は実に愛らしく、聡明で、難しい設問もすらすら解いてしまう彼女がなかなか見せない姿だった。俺は自分の方が年下であるにも関わらず、守ってあげたい衝動に駆られてしまう。

だが、慌ててかぶりを振った。いかん、いかん。

先輩といえば、毎週のように赦し屋に顔を出してくれる。マメなのか、それとも暇なのか。あるいは一応責任のようなものを感じてくれているのか。とにかく俺としては、先輩が来てくれるから続けているみたいな部分もあったりする訳で。週に一度の、この平凡を絵に描いたような時間が心地よいという事実を偽るつもりはない。

しかし、しかし。

先輩がこういう態度を、特別に俺の前だけで見せているのかと言えば、そうでもなかったりする。

お蔭で勘違いしてしまう純粋無垢な男が、年に何人か現れる。それはもう、夏に見かけるゴキブリと同じ数くらい。いや、彼らをゴキブリと例えるのはいささか酷過ぎるな。では、出先で流されずに放置されたウンコに出くわす数と同じだ。偶にあるだろ?トイレットペーパーとか一緒にぶち込まれてさ。

とはいえこれは先輩の弁だが、「私は一度も告白を受けた事がない」との事。前に述べた話とはずいぶん矛盾しているようだが、真実はこうだ。

(勘違い男複数人の証言)告白しようとしたら、その寸前で現実に引きずり戻された。

つまり先輩はそういう微妙な空気になると、さらっと男たちの幻想を打ち砕くような事を言うのだそうだ。ある時はそれとなく当人とは真逆のタイプのアイドルをカッコイイと言ってみたり、またある時は気まぐれに、『恋愛なんて馬鹿らしいよね』と吹いてみたり。きっと毒気に当てられた気分になるのだろう。男からしてみれば、なんじゃそりゃである。

そのため先輩は、これまで一度も告白されたためしがないと度々嘆いている。そりゃそうだよ。その機会を、最新鋭の車についたブレーキセンサーばりに、自らで未然に防いでいるんだから。


「一連の事件が新手の宣伝方法だとしたら、随分なお騒がせ者というか。でも俺絶対にそのサーカス見に行きますよ」

「あ、私も行く。サーカスって、象とか虎とか、あと蛇女とかもいるんでしょ?」


最後のはどうなんだと思いながら、俺は引き攣った笑顔を見せた。サーカスっていうより見世物小屋?先輩の場合、脳に知識を詰め込み過ぎたせいで、常識が少しずつ抜け落ちているのかもしれない。


「ねえ、名地君。メールに出てきた、すばしっこい人。顔は見てないの?」

「はい、顔までは。辺り一面、真っ暗だったんで」

「そっか。じゃあ、男性か女性かも分からないんだね?」

「残念ながら」俺は渋い顔で、頷く。


元々夜目が効く方ではないから、懐中電灯の一つも持参すべきだったと後で悔やんだ。実際ポケットには、未だ先輩の手から返却されていない携帯電話が入っていたのだけれど、それを開いてカメラを起動しているような暇はなかった。

そもそもで言えば、俺はこの件を少しだけ舐めていたのかもしれない。地図上に展開されたヒントと少しの謎解きで得た情報に少なからず自信を持ちながら、どうせ何も起きやしないだろうと高を括っていた。咄嗟に犯人らしき人物を追いかけたのだって、あわよくば犯人を捕まえて、先輩にチヤホヤされたらなという卑しい願望が働いたに過ぎない。

だけど、もし。あの時俺の傍にヒコがいてくれたら、結果はまた違っていただろう。


「顔は見えなかったにしろ、ほら、他にも男女を区別する部分はあるでしょ?髪とか、胸とか」

「そいつフード被ってたんで、髪はちょっと。胸で判断は・・・」そう言うと俺は先輩の方、穏やかに隆起した胸をじっと眺める。

「名地くん?」

「はいっ?!」見事に声が裏返った。背筋をぴんと張り、顎を引く。

「何か言いたい事がありそうね?」


般若のような剣幕を見せる先輩に、俺は当然何も言えるはずがなかった。



路地裏を激走して以来、落書きの被害はそこでぷっつりと途切れた。その後、何か目新しい事件、それに繋がっていそうな犯罪が街で起きたかと言えば、まるでそんな事はない。

先輩によれば、ネットでも地図上の逆五芒星に気づいた人間が多数現れたらしい。その小さな発見によって、一時は議論の炎が激しく燃え上がったそうだが、熱しやすければ冷めやすくもあるのがネットの住民だ。続報のないその話題にはすっかり飽きてしまったご様子で、すでに次のおもちゃを探し回っている。


「ドラマとかでよくある、犯人は必ず事件現場に戻って来るってやつ。あれ本当だったのね」

「みたいですね。まあ、現場って言っても裏手ですけど」

「昔飼ってた柴犬のジョンも、庭の柵を飛び越えて逃げ出したんだけど、次の日ちゃんと戻ってきたわ」

「ジョンは一体どんな事件を起こして、何の犯人なんですか」俺は先輩の的外れの発言に突っ込む。

「そういえばジョンはよく庭に骨を埋めていたわね。しいて言えば、死体遺棄事件の犯人かしら?」


俺は先輩のジョークにきちんと冷ややかな笑いを送った後で、表に置いた赦し屋の看板(四姫先輩特製)を回収しに行く。時間も良い頃合いだと、店じまいを始めた。

今日のお客様は二人。一人は目の前にいる四姫先輩。もう一人は、二年生の針塚先輩だ。その針塚先輩は、どうやら赦し屋が何たるかをあまり理解せずに訪れた節があり、開口一番「家の鍵を落としてしまい困っている。探し出すか、新しいのに変えて欲しい」と無理難題を押し付けてきた。俺はしぶしぶ謝りをいれた後で、懇切丁寧に便利屋との違いを説明をした。「じゃあ」と、ようやく全てを理解したような顔で彼女が言ってのけたのが、「最近まで自分に懐いていたはずのペットを妹に奪われてしまったのでどうにかして欲しい」だった。直前の十数分に及んだ説明は何だったのかと俺は頭を抱え、それならばと「妹さんの彼氏でも奪ってみたらどうですか」と助言した。その後で「もしそれが成功したら、また来てください。その時には役に立てる事もあるかもしれません」と付け加え、彼女を送り出したのだった。


椅子をひっくり返して机にあげて、鞄を担ぐ。同じようにした先輩が、俺に訊ねた。


「ねえ、名地君の身の回りで何か変な事は起きてない?」

「変な事・・・ですか?」

「そう。例えば、部屋に居ても視線を感じるだとか、学校の帰り道、付け回されてる気配があるとか」

「全然ないっすね」俺は即答する。わりと鈍感な方ではあるが、さりとて人の視線くらいは気がつくはずだ。


しかし先輩は、よほど俺の言葉に信頼が持てないのか、答えを聞いた後でも、うんうんと唸り声を上げた。


「何か引っかかりますか?」

「もしも私が犯人だったら、自分の正体に近づいた者を放ってはおかないと思うの。それこそ家までつけて行って・・・」

「先輩、怖い事言わないでくださいよ」

「だってー。相手はナイフまで持ち出したんでしょ?」


その言葉を受けて頭の中にはあの夜の、あの場面が鮮明に蘇る。腰砕けの状態で倒れる俺に、月光をギラリと反射させる牙を手にした顔の見えぬ相手が走り寄る。命の危険に瀕すると目の前の光景がスローモーションに見える、なんて事をよく耳にするけど、全くそんな事はなかった。真っ直ぐ最短距離で襲い来るナイフを、教師が黒板の上を滑らかに走らせるチョークと同じように、ただ呆然と見守っていた。


「ええ。でも結局は何もせずに逃げていきましたけど」

「そうよね。うーん」先輩はまた一人で悩み始める。



窓の戸締りを確認した後、食堂を出て鍵を閉める。空にはうっすら雲がかかり始め、肌に張り付くような水分を多く含んだ風が、もうすぐ一雨来ることを告げていた。


「そう言う先輩は、何か変わった事ないですか?」

「ないわね。そりゃあもう憎たらしいくらい同じ毎日の繰り返し」先輩は心底うんざりした顔で言う。

「何かあったらすぐに言って下さい。絶対に俺が守ってみせますから」

「守るって、何から守るのよ。ほんと適当な事ばっかり言って。・・・もう」すると先輩は口を大きく開け、その前で手を叩いた。「あっ、そういえば」

「心当たりでも?」

「そういえばね、『月刊 今日から君も吸血鬼ハンター』7月号の」


急に目の色を変えて、ノリノリで話し始めた先輩の口元を慌てて手で押さえた。それでも先輩は負けじとモゴモゴ喋るもんだから、手のひらがくすぐったくて仕方ない。それにも我慢して、俺は言う。「またそういう雑誌ですか。先輩、好きですよね、オカルトとか、まじないとか」


「ぷはーっ。いいじゃない。私が好きで買ってるんだから文句言わないで。でね、7月号の付録だった『ドラキュラ退治セット、ナンバー9 銀の十字架』がなくなっていたの」

「えっと・・・ナンバー何ですって?」

「ナインよ、ナイン。ナンバー9 銀の十字架が、部屋の一角に作ったドラキュラ退治コーナーから消えてたのよ。せっかくナンバー1から全部揃えたのに」


とても残念そうに言う先輩だが、その十字架の価値がよく分からない俺からしてみれば、それほど落ち込むようなことなのか判断に困る。確かに、長い月日をかけてコンプリートしたのにという点においては、同じコレクターとして(こっちは全裸オンリーのエロ本だが)、その無念を理解できなくもない。しかもあの手のシリーズ物雑誌は最初こそ特別価格で安いくせに、後は馬鹿みたいな値段がついている事が多い。お金も相当費やした事だろう。・・・というか、何だ?ドラキュラ退治セットって。先輩は密かに何をしようとしているんだ。ドラキュラを倒したいのか?それに部屋の一角にあるドラキュラ退治コーナーって普通に言ってたけど、一般人の部屋にそんなコーナーはないし、俺も未来永劫そんなコーナーを作る予定はないぞ。


「どうせ寝ぼけたまま移動させて、ベッドと壁のすきまとかに落としてるんじゃないですか?先輩おっちょこちょいだから」

「おっちょこちょい?どこがよ、失礼ね」

「どこがって」

「言ってみなさいよ。私のどの辺がおっちょこちょいなの?」先輩は三つ編みにした自慢のおさげ髪を、肩と肩にかけた鞄の持ち手に挟んだ状態で、訊ねてくる。


正直に教えてあげるべきか、それともからかってあげるべきか迷っていると、隣を歩く先輩のお腹が可愛らしい音を立てた。ゴマアザラシが餌を貰えずに拗ねてしまったような音と言えば、とても可愛らしく聞こえるだろうか。先輩は年相応の女の子らしく恥じらうでもなく、疲れきった中年オヤジのようなため息をつく。「お弁当を食べ損ねたわ」


「またですか?そういえば先週も同じ事を言ってませんでしたっけ」曖昧になりつつある記憶を反芻し、どうにか引っ張り出してきて訊ねる。

「だって先生まで私に何でもかんでも押し付けようとするのよ?迷惑しちゃうわ。委員長なんて引き受けなきゃよかった。損な役回りよ」

「なんか大変そうですねえ」

「その言い方、完璧に他人事ね」先輩は一段と深いため息をつく。「あーあ。ほんと不条理よ。こんな世界だったら、誰か面白おかしな物に造り変えてくれないかしら」


そう言って思い切り蹴とばした石ころが、二度三度アスファルトを跳ねた後で草むらへと消えた。ルールは本人にしか分からないけど、先輩は「うしっ」と、胸の前でガッツポーズを作る。


「そうだ、先輩。今日の豪華弁当の中身は何だったんですか?」

「また言ってる。うちの弁当はそんなに豪華じゃありません。普通だって」

「いや、普通じゃないですって。じゃあ聞きますけど、先輩の周りにすき焼きとチラシ寿司が一緒に入った弁当箱を持ってきてる人がいますか?」

「うそ、どうして今日のお弁当箱の中身知ってるの?」

「そりゃ勘ですよ。っていうか冗談ですよ。マジでそんなもん弁当として持って来てんすか?すき焼きの汁がご飯に混ざりませんか?・・・・・まあ、この際それはいいとして。とにかく、他にいないでしょ?」

「うん、いない」

「ほら~、やっぱり」


俺は、どうだ見た事かと言わんばかりに言い寄る。しかし先輩はそれでも納得がいかないのか、口をへの字に曲げて、いじけた。「うちなんか、そうでもないと思うけどなあ」


「我が家なんて、久しぶりに弁当だと思ったら餃子と炒飯ですよ?もう食い飽きたっつーの」

「いいじゃない、中華。美味しそう」

「そりゃ先輩は毎日毎日食ってないから、そんな事が言えるんですよ。くっそ、思い出したらムカついてきた。親父め・・・」

「こら、親御さんを悪く言う事じゃないでしょ。そこは感謝よ、感謝」


先輩は俺の事を軽く叱った後で、ふと思い出したように付け加えた。「あ、そうそう。私ね、週末に電車で田舎に行くの。もうすぐ祖母の命日だからお墓参りに行くんだ」


「へえ、そうっすか。あっ、もしかして俺についてきて欲しいんですか?」

「何それ、意味わかんない~」先輩は急にスキップを始めると、横断歩道を軽やかに渡った。「違うの、私がいない間に無茶な事しないでねって言いたいの」


そして歩道の向こう側に辿り着いた先輩が、勢いよく振り返ろうとして悲鳴をあげる。「痛っ!髪の毛が鞄に挟まってたっ!!」





夕暮れ写真商店街。五年前に当時の町内会長によって命名された、とある通りの名前だ。

一般に大型量販店が街の小規模店舗を脅かしているという話を聞くようになったのは、ここ一、二年のことだが、五年も前からすでに同じ理由で危機に瀕していたのが、何を隠そうこの夕暮れ写真商店街だ。

通りの三つ向こうの筋にできたスーパーにお客の多くを奪われ、悩みに悩みぬいた末に苦肉の策として実行に移された、通りへの命名。名前をつける事で、通りに面するお店同士に仲間意識を植え付け、一致団結するための作戦であった。

最初のうちは、名前にちなんで夕暮れに染まる街並みを撮った写真を店先に張り出してみたり、それに合わせた彩の商品を売り出してみたりと、どのお店にも工夫や熱意があった。その結果、地域の中ではそれなりに反響があったものの、当然手間やコストは普段のそれよりもたくさんかかるので、そう長続きするはずがなく、ついでに言うと『夕暮れ写真商店街』という名前もカメラ好きの町内会長の鶴の一声で決まったために、本人を除いて誰一人として愛着が沸かず、結局作戦は空振りに終わった。

そして今年、その三つ向こうの筋にできたスーパーですら太刀打ちできない巨大グループ会社の支店が進出してきた事で、夕暮れ写真商店街でもついに移転、廃業するお店が急増。おかげでシャッターが降りたままのお店が増えた事は、通りの名前に対する長いスパンをかけた皮肉のように思えた。


この時間になると、通りを抜けて駅まで近道する人や、知る人ぞ知る惣菜屋で家までの空腹を補う学生で、通りはそこそこ賑わいを見せる。ちらほら飲食店の前に列も出来ている。当たり前の事だが、元より力のあるお店は、どんな状況であろうと生き残るのだ。

俺は、とある建物の前で足を止めた。住所でいったら、自宅がある場所で間違いない。つまり俺にとってみれば帰宅でいいはず。けれど店先に暖簾が出て、看板に火が灯れば、それはもう自宅ではない。店なのだ。という事で、どういう事で。俺は帰宅するのではなく、自分の家に来店するのである。

横開きの扉をガラガラと音を立てながら開けると、即座に彦次郎の気持ちいいくらいに元気な声が飛んできた。


「いらっしゃいませー」


布きんでカウンターを拭き終え、顔を上げたところでようやくそれが客ではなく、俺である事に気がついた。「あっ、おかえり。どうした、濡れてるけど」


「ただいま。外は雨だ。ちょっとだけ降られた」

「そうか。そういえば、天気予報で午後から天気が崩れるって言ってたな。明後日まではずっとこんな不安定な天気らしいぞ」


店の入り口で突っ立ったまま、目線を合わせずに会話を続ける男二人。それを店内唯一のお客様である眼鏡をかけた男性が不審がるような目でジロジロと観察する。

俺はその視線に気がつくと、自分のそれを重ねて、キッと睨み返した。それが客に対する店側の適切な態度かと問われれば、確実に否。バイトであれば即刻クビである。しかし気弱そうな男性はクレームの一つも言わず、慌てて目の前に置かれたどんぶりとの格闘を再開した。汗が垂れても、眼鏡が曇っても、ひたすらに麺をすすり続ける。

実を言うとヒコを置き去りにして出かけたあの日以来、どうにも俺たちの間にぎくしゃくした空気が立ち込めている。今だって興味のない天気の話をどうにか広げられないかと頭の中をフル回転させている始末。ヒコはヒコで俺の返事を待つ間、異常なまでの瞬きを繰り返し、嘘くさい作り笑顔を浮かべる。これでもお互い『普通』を装っているつもりなのだ。


「おい、束矢。てめえ店の方から帰ってくんなって、いつも言ってんだろ」


姿は見えないが、店の奥で作業をしているであろう親父の声が聞こえてくる。いつもであれば鬱陶しい事この上ない皺がれた声も、現在においては天使の歌声にも似て聞こえた。 


「お、親父、勘定」とうとう丼の中の麺を全てすすり終えた客が席を立つ。

「あいよ。次郎、頼むわ」

「分かりました」


てきぱきとした動きでレジ打ちを始める彦次郎。俺はそれを横目に、そそくさと店舗から居住スペースへと移動しようとする。


「束矢、お前宛に手紙が来てたぞ」店の奥からのっそりと現れた親父が、エプロンで雑に手を拭いてから封筒を渡してきた。

「俺に?」


受け取った封筒を手に眺める。真っ白で簡素、飾り気のないどこにでも売っていそうな封筒。だが受け取った瞬間、俺は些細な違和感を感じた。目を細め、その違和感の正体を探る。

なるほど、そういう事か。その封筒はあまりに真っ白すぎるのである。表に書かれているのは宛名、要するに俺の名前だけで、ひっくり返して裏を見てみても差出人を記すような文字はない。その上、切手、消印の類もなし。

つまりこの封筒は郵便局を通らず、差出人が直接家のポストに入れて行った訳だ。


「ラブレターか?」封筒から中身を取り出そうとすると、ニヤついた顔の親父が覗き込んでくる。

「ちげーよ、いいから見んな」

「んだよ、ケチケチすんなって。そうかー、お前もそんな歳かー」

「うるせえ。親父はそれが言いたいだけだろ」

「分かるか?ガキの成長過程を眺める上で、このセリフだけは外せねえからな。だから、ほら。早く開けて、中身を見せなさい」


親父は意味不明な持論を並べた後で、続けてこう言った。「そうだ、来週からお前のクラスに転校生が来るから」


「は?転校生?どうして?」

「どうしてって、理由が必要か?来るもんは来るんだよ、台風や渡り鳥と一緒でな」

「そっちじゃねえよ。どうして親父がそんな事を知ってるんだって事だよ」

「聞いたからだ。お前の学校の理事長から」

「理事長?あぁ」納得した俺が、軽く頷く。「なるほど、理事長ねぇ」



部屋に戻った俺は、床に鞄を放り投げると早速封筒を開けた。念のためハサミを入れる前に封筒を上下に振ってみた。間違ってもカミソリなんて入っちゃいないだろうけど・・・まあ、一応ね。

封筒の中からは、同じように簡素でどこにでもあるような便箋が一枚出てきた。折りたたまれたそれを慎重に開き、内容に目を通す。


「どうした休憩か?」木材の軋む音がしたので、俺はそちらの方へ声をかける。階段を上ってきたのは他でもない、同じ部屋の住人である彦次郎だった。

「ああ、そうなんだ。親父さんがどこか大事な所に電話するとかでな。タイミングよく客が途切れたから30分店を閉めるんだと」

「そんなのアリかよ。相変わらず自由だねぇ」


俺は履いていた靴下をその辺に脱ぎ捨て、開け放たれた窓の枠に腰掛ける。嗅ぎなれた中華スープの香りに混じって、今となっては懐かしさすら覚える煙草の煙を感じた。


「開店前に親父さんの事を先生と呼ぶ人が来ていたぞ」

「らしいな。最近は、とんとご無沙汰だったが」

「誰なんだ?あの人。それに先生って」


そう訊ねるヒコだったが、謎のおっさんの正体よりも俺の手の中にある手紙の方に興味津々の様子。そちらにばかりちらちらと視線を送る。


「気になるか?」俺は手紙を顔の高さまで持ってくる。

「いや、全然」

「嘘つけ」

「・・・気にして欲しいんだろ。顔にそう書いてあるぞ」



拗ねた小学生のような物言いをする彦次郎。頬を朱に染め、不自然に目を逸らす。俺はそれがなんだかおかしくって、吹き出してしまった。痛い所を突かれれば、すぐ顔に出る。まさにドが付くほどの正直者のヒコらしいリアクションだ。「仕方ねえなあ。分かった、分かった。いいだろう、見せてやるぜ」


「え。本当に?」途端に目を輝かせた彦次郎が、手紙に目を落としてすぐ、何とも言えない表情を作る。「何だこれ」 

「見ての通りだよ」

「土曜日 深夜26時 岩都駅の一番ホーム・・・こういう事柄に不学で申し訳ないんだが、恋文とは大抵こういった書き方なのか?」

「は?恋文?・・・・・・くっくっくっ。あっはっはっは。また親父に騙されたな?だから違うって」


俺は腹を抱えて笑った。床を転がり回り、足をバタバタさせる。棚に置いてあった二足歩行ロボの模型が振動で倒れ、スノードームの中で季節外れの雪が舞い上がった。


「お、おい。そんなに笑わなくてもいいだろ」

「すまん、すまん。まあでも?案外この場所に行ったら綺麗な女の子が立っていて、告白してくるって事もあるかもしれない」しかし俺は言ったそばから、その言葉を打ち消した。「それにしちゃ時間が妙だがな」 


「これ何?」


すると霧の如く突如現れた紗夜ちゃんが、便箋を手に首を傾げた。ぎょっとする暇もなく、俺は「あっ!」と大声をあげる。知らぬ間に俺の手の内にあった封筒ごと、手紙がそっくり紗夜ちゃんの手の中に瞬間移動していたからだ。


「また勝手に入り込んでいたな」彦次郎が中途半端に開いた(ふすま)を振り返りながら言った。

「ねえ、お兄ちゃんこれ何?何のお手紙?白ヤギさん?」

「俺の話を聞け。部屋に入るなら入るで、一声断ってからだな」

「サヤ、感じ悪い方のお兄ちゃんには聞いてませーん。べー」


顔をくしゃくしゃにして、小さなベロを出す紗夜ちゃん。これには日頃紳士道を貫くヒコも堪えたのか、みるみるうちに顔が上気し、微かに全身が震え始める。


「束矢よ。流石に俺も腹が立ったぞ・・・」


そう言うと、予告もなしに彦次郎が紗夜ちゃんを追いかけ回し始めた。過去に我がクラスメートが王子様とまで語った彼は、今現在鼻息を荒げながら女子小学生の後を追走していらっしゃる。この様子を彼女に見せたらどうなるだろうか。それでもなお、『ずるい、私も追いかけられたい』とうっとりした顔で零すのだろうか。


「きゃー、こわーい!助けてー、お兄ちゃん!」

「待て、コラッ」

「いやーん、お兄ちゃんパンツ見ないで~!」


彦次郎は届きそうで届かない沙夜ちゃんの背中に手を伸ばしながら、紗夜ちゃんはミニスカートの奥にあるウサギパンツを見せびらかしながら、二人そろって俺の周りをくるくると走り回る。先ほど俺が爆笑した際に巻き上げたホコリを、彼らが一生懸命にかき混ぜてくれている。その渦の中央で、まるで洗濯機で揉み洗いされるTシャツのような気分になりながら、俺はこの嵐が過ぎ去るのを待った。

どちらも人間とは思えない体力で動き続けていたのだが、最終的に小回りが利く紗夜ちゃんに軍配が上がった。絨毯に足を取られた彦次郎は、床にキスをするような格好で顔面を擦りつけ、終いにはぴくりとも動かなくなった。


「また来るね、お兄ちゃん。感じ悪い方のお兄ちゃんもまた遊ぼうね」


そう言い残し、紗夜ちゃんは余裕しゃくしゃくで帰って行った。恐るべし小学生。あのヒコに体力勝負で肩を並べるとは。江戸時代ならいざ知らず、現代においては十分に子供の範囲内である高校生でありながら、歳は取りたくないものだと言わざるを得ない。

俺はおもむろに本棚に近づくと、大量の漫画に埋もれる状態で所在なげに佇む国語辞書を手に取った。パラパラとめくっていき、『小槌』という言葉が載ったページを開く。挟んであった紙を取り出し、左手に持った手紙と見比べた。


「ちくしょー、逃げ足の速い奴だ。次に見かけたらただじゃおかないぞ」床に這いつくばったまま、しばらく動かなかった彦次郎が顔を摩りながら起き上がった。

「お前らって、もしかしなくても仲いいよな?」

「まさか。冗談よしてくれ。束矢もああいう時は黙って見てないで、助けてくれよ」

「悪いが、俺を当てにするな。壁の後ろで自分の身を守るのに精いっぱいなんだ」

「は?壁?」


彦次郎は眉をひそめた。だが、また訳の分からない事を言っているなという顔をしただけで、それ以上は追求してこない。その後で首の骨を数度、コキッコキッと軽快に鳴らし、店のエプロンを叩いてホコリを払い落とす。俺の手にある二枚の紙のうち片方を見つめて、言った。「確かそれは親父さんに売っていたのではなかったか?」

「ああ、あれな。あれは俺が真似て書いた偽物だよ」

「何だと!?しかしだな、束矢。親父さんあんなに喜んでたんだぞ?お金だって追加で払って」

「いいのいいの。きちんと真似たから本物と何も変わらねえって。それにああ見えて親父は金持ちだからな。この店続けてるのだって、半分以上趣味みたいなもんだし」

「そうかもしれんがな・・・。いや、仮にそうだったとしてもだな。身内に偽物を売りつけるってのはどうなんだ?」


慌てた様子の彦次郎。それをなだめるように、俺は穏やかな口調で答えた。


「何言ってんだよ。俺のくちびるだって、そう捨てたもんじゃないぞ?」


彦次郎は一瞬だけ躊躇(ちゅうちょ)した後で、豪快に吹き出した。初めて見るような爽快な笑みを浮かべて言う。「かもしれないな」

あの夜この部屋で俺が吐いたセリフは、ちょうど同じこの場所でヒコの口からも飛び出した。しかしあの時とは、言葉の重みも、その性質だってまるで違った。

先ほどまで充満していたはずの気まずい雰囲気はどこへやら。男二人が顔を突き合わせて笑い合う。今回はさほど長居をしなかった沙夜ちゃんは、もしかすると俺とヒコの間に築かれた壁をいつもの感じで軽く乗り越えて、壊していったのかもしれない。ふと、そんな事を思った。



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未成年委員会による日本の壊し方(連載)も同時に書いてます

暇だったらそっちも読んでみてください

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