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赦し屋とひこじろう  作者: 刃下
第一章「赦し屋とひこじろう」
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第四話「夜のとばり」

夜のとばりという言葉は、テレビや映画、ちょっと澄ました小説なんかでよく目にする。ある時ふと、「とばり」という単語を国語辞書で引いてみた。

とばり・・・室内に垂れ下げて、隔てにする布。たれぎぬ。

つまり日が暮れて真っ暗になった風景を、闇のたれぎぬに覆われた状態として例えたのだ。そう言われると不思議な物で、毎日当たり前に訪れる夜暗にも違った印象が芽生えてくる。

もしも、とてつもなく大きな存在、仮に神様と呼ばれる奴がいたとして、夜が来るたんびに地球の上に黒くて大きな布をかぶせてしまうとする。では、そいつは一体何故そんな事をするのだろうか。他の奴に見つかって盗まれないように隠す?ゴミやホコリがついてしまわないように保護する?あるいは。あるいは、とばりの下で巻き起こる何か見たくないものを見てしまわないように?




「なんであんな大見得、斬っちゃったかなあ」


俺は自転車のハンドルに両手を置いたまま、うな垂れる。一生懸命に足を動かして、ペダルを激しく回転させてみても、チェーンが空回る音がするだけで、一向に前には進まない。そのうちバランス感覚では補えなくなった重力に押され、自転車もろとも傾き始める。俺はバランスを失う寸前のところで、地面に足をついた。

先輩の手前、あんなかっこつけた発言をしてしまった無責任な自分が恨めしい。


「またか、またなのか束矢」隣にたたずむ彦次郎が愚痴る。「よくもまた俺を巻き込んでくれたな」

「そう言うなよ、相棒」

「やめろ。何度も言うが、俺はただお前に泣きつかれて付いてきただけ。勝手に共犯みたくしてくれるな」

「照れちゃって」

「なっ、違う!それは全然違うぞ!」彦次郎は慌てた風に、声を荒げた。


周囲は薄暗い。ほとんどのお店がシャッターを閉め、目に入る光と言えば通りの奥にあるコンビニの照明か、自動販売機の薄ぼんやりとした明かり。あいにく空は雲に覆われていて、月が昇っているのか昇っていないのかも定かではない。

朝の早い親父が寝静まった後の自宅兼店舗を抜け出すのは簡単だった。最初であり一番の難関である、踏む度にギシギシと木の軋む音がうるさい階段。それを抜き足差し足で降り、二人分の靴を取ってきた。もちろん俺と、彦次郎の物だ。そして自室の窓を開け、靴を履いて屋根に出る。屋根から、ちょうどいい高さにある隣の家の塀に移り、そのまま家の横ばいを伝う壁の上を歩いて行って、道路に飛び降りた。なんてことない行程。きっと小学生にだってこなせる。


「それにしても実に手慣れた動きだったが、もしや前からこうして抜け出したりしてたのか?」

「ん?ああ、何度かな」


そう言って、俺はわずかに笑みを浮かべた。

実はこの手を使って一人黙って家を抜け出した回数は、『何度か』程度ではなかった。十、二十、いや、もっとだ。少し前までは月に一度あるかないかだったのが、最近ではその頻度が増えている。俺にとって、週末における一種の習慣みたいになりつつあった。

そうとは知らず、しかし自分の寝ている傍でそんな事が起きているとは思ってもみなかったのか、馬鹿なというような顔をする彦次郎。


「お前は一度眠ってしまうとちょっとやそっとじゃ起きないからな」


歩行者用の信号が赤から青に変わる前に、信号機自体の電気が落とされた。車両用の信号が点滅を始める。ここに突っ立って、一つも通らない車のために待っていた時間は何だったのかという文句、それに赤信号でも構わず渡ろうとした俺の首根っこを掴んで制止したヒコへの文句の両方を飲み込んで、また自転車を漕ぎ始めた。

少し行くと目の前にはひどく急勾配で、長い坂が待ち受けていた。

デブ転がり坂。地元の子供たちは、この坂の事をそう呼ぶらしい。デブは走って下るよりも、転がって下った方が早く坂の入り口に辿り着けるからだそうだ。・・・真偽のほどはともかくとして、それくらい急な坂だ。

近くの小学校では年に一度あるマラソンのコースに必ずこの坂が組み込まれている。なんともむごい。先生たちは鬼か、魔王か。普段運動らしい運動をせず、小学生よりも体力がない事を自負する俺は、太刀打ちしようなどとは鼻から考えず、自転車を降りて押す事にした。


「手伝うか?」隣を歩く彦次郎が訊ねる。先ほどまで自転車に乗る俺に合わせてジョグをしていたのだが、少しも息が上がった様子はない。

「いや、いい。頑張る」

「よし、頑張れ」彦次郎は何故か嬉しそうに口元を緩めた。



ふくらはぎ、太もも。それに俺の自慢である上腕二頭筋に、いい感じに乳酸が溜まってきたところで、彦次郎が訊ねた。


「俺たちは一体何処に向かっているんだ?」

「何だよ、ヒコ。さっきの俺の話、聞いてなかったのか?」

「話って・・・。魔法陣がどうとかって、あの話か?」

「ああ、そうだ。俺たちは今、次にそれが起きるかもしれない場所に向かってんの」


言葉に力のこもる俺を、彦次郎が訝しむように見る。納得したようなしてないような、ひどく中途半端な首の角度をしたまま、なおも訊ねた。


「まだ起きてもいないのに、次の現場が分かるって言うのか?」

「すごいだろ?まぁ、実際予想でしかないんだけど、ある程度の自信はあるよ」

「それはすごい」彦次郎は素直に感心して、一度大きく頷いた。


坂を登り始めてから、初めて車とすれ違った。坂の頂上からやって来たその車は、ヘッドライトが眩しいと思ったのは一瞬で、あっという間に坂を下っていく。赤いブレーキランプがどんどん小さくなって、坂を下り終わるとすぐに見えなくなってしまった。角を曲がったのかもしれない。あの車は連れでもなければ、置き去りを食らったのでもない。それなのに少しだけ侘しい気持ちになるのはなぜだろう。


「ちなみにヒコはどう思うよ?」

「どう?」

「だから、この事件だよ」

「事件って。これは事件なのか?誰かが誘拐されてもいなければ、誰かが襲われてもいない。動物の血『かも』しれない液体で、壁にイラストが描かれていただけだろう?ただの悪戯さ」

「ほぉー、えらく現実主義だねえ。予想通りだけど」

「仮にこれが事件だとして、だ。だからって俺に特別な反応を求められても困る。他のでたらめな噂話を聞いた時と一緒だ。そういう事もあるかもしれないな、くらいにしか思わないぞ、俺は」


彦次郎は坂のてっぺんを見据えながら答えた。

それを聞いた俺は、ヒコの横顔を眺める。実にヒコらしい考え方だと思った。だがそれ以上に、どうしてこんなにキツイ坂を汗一つ流さず、飄々と登って行けるのか、そちらばかりが気になってしまう。


「被害者がいないからって、事件じゃないとは言い切れないだろう?」

「・・・なるほど、そうだな。壁を汚された映画館は困っているかもしれない。だとすれば、それは立派な事件だ」彦次郎は腕組みしながら言う。

「だろ?」

「ならば俺などに意見を求めず、警察に意見を求めるべきだ。彼らは市民の味方なのだろう?」


半笑いの彦次郎は、一歩踏み出す度に湯気が立ち上る俺の頭に手を置いた。

その昔、初めてお使いをヒコに頼んだ際、俺は「困った事があったら警察を頼りなさい。彼らは市民の味方だから」と言って送り出した。ガキじゃねえんだから、これくらいできるだろうと軽く考えていたのが大きな間違いだった。三十分後、ヒコは二人の警察官を引き連れて帰ってきた。

「君ね、字が汚すぎて読めないよ」

警官の手には俺が渡した買い物リストが握られていた。店の前には野次馬の垣根。店内は親父の容赦ないツッコミによる爆笑の嵐。あの時ばかりは、まじで家出してやろうと思った。顔から火が出るなんて生易しいもんじゃない。顔面焼野原だ。


「ちっ、警察がこんな噂話に一々手を貸してくれるかよ。こんなオカルトチックなさ」

「だったら自分でどうにかするしかないな」彦次郎は責め立てるように言う。「どうしてもと依頼されたらしいが、怪しいもんだ。どうせ格好つけたいがばっかりに、自分から安請け合いしてきたんだろ」


・・・・・・返す言葉が見つからなかった。俺は黙って曇り空を見上げ、そこら辺に図星という星が浮かんでないか、必死に探し始めた。




坂を登り切ったところで、地面に倒れ込む。登り切ったからって、そこに俺を待つ大応援団がいるはずもなく、自転車の部品がアスファルトとぶつかる音が虚しく響き渡った。


「束矢、ここが目的地か?一見すると何もないようにも見えるが・・・・」

「んや、まだ」

「まだなのか?!」彦次郎はかなり素っ頓狂な声をあげた。


息を整えた後で、俺は自転車を歩道に放り捨てたまま道路の真ん中を横切った。車が来ていないかの確認もせずに、ゾンビのようにゆったりとした歩調で、歩道とは逆側にある転落防止用のガードレールに近づく。


「こっちに来てみろよ」


そのガードレールに腰掛けながら、彦次郎を呼ぶ。彦次郎は少しの逡巡を挟み、右左もう一度右とお手本のような確認をした後で、駆け寄ってきた。

ここは坂の頂上。視界を邪魔するような障害物はなく、見下ろすように街を一望できる。冷たい風がよく吹き抜けるため、花火大会ともなると大混雑するのだが、今は俺と彦次郎しかいなかった。


「どうだ、すごいだろ。あれ全部が人の住む家なんだぞ」

「ああ、建物が豆粒みたいだ」


見下ろす街並みの向かって右側は住宅が多く集まった地域。他には幼稚園や図書館、診療所がこの辺りにある。流石に深夜という事もあって、電気のついている建物は少ない。住人同様に、家自体も休息しているみたいだ。逆に左側の奥には、翌朝まで営業しているような居酒屋や露店が集まった地域がある。俗に言う飲み屋街だ。田舎と言えど、一応それらしい場所は存在する。あの地域に限っては、夜と朝が逆転していて、眠りにつくのはもう少し先だ。


「もしかして、ここにはよく来るのか?」彦次郎が訊ねる。

「・・・なんで?」

「いや、なんとなくだ」

俺はどう答えようか迷った挙句、本当の事を答えた。「時々な」

「そうか」


彦次郎は前を向いたまま、数度頷いた。

今ヒコは何を考えているんだろう。あの明暗を眺めながら。

俺はよくここでボーっとしながら、こんな事を考える。あちら側では一家、両隣、ご近所、皆が眠っているのに、あちら側では飲めや歌えの宴が開かれている。人間とはなんと自由な生き物か。

役目を忘れ、漫然と学校に通っているような男がいるかと思えば、店の手伝いこそが生き甲斐であるかのようにしゃかりきに働く男がいる。人間とはなんと不自由な生き物か。



「ヒコ」

「・・・・」

「彦次郎」

「・・・・」

「おい」そこでようやく彦次郎は、はっとする。

「ああ、すまん。俺の事か」


小さく頭を下げ、二度ほど自分のほっぺたを優しく叩いた。


「他にいないだろ」そう言って、俺はクスっと笑う。

「それもそうだな」

「慣れないか?」

「・・・・いまいち、まだ自分の事のように思えない。悪いな」

「気にすんなって。『彦次郎』は、俺が勝手につけただけだからな。お前にはきっと別の、お前らしい名前があるんだよ」


俺は見下ろした街のとある一角を指さして言う。「あの駅だよ」


ちょうどここから見える街の中央辺り。元は雑居ビルや倉庫がずらり並んでいた。どうして街中に倉庫?と思うかもしれないが、あったものはあったのだから仕方ない。ある時そこいら一帯の管理者が変わり、ビルや倉庫は一斉に建て壊され、その後釜に駅が建てられた。ショッピングモールに行く際利用した、あの駅だ。ちょうどその場所で、俺は倒れている彦次郎を見つけた。その時はまだ工事のための幕がかけられたままだったっけ。


「倒れたヒコを引き起こして、『おい、大丈夫か?お前、名前は?』って聞いたんだ」

「そうだったか」

「そしたらお前さ、『ひ、ひ、ひ』って、ひしか喋らねえの。そんで、そのまま気を失っちまって」


あの日の事は、今でも昨日の事のようによく覚えている。停電で辺りが真っ暗な中、ホームに倒れている彦次郎を見つけられたのは本当に偶然以外の何物でもなかった。どうして工事中の駅構内に一般人の俺がいたのかについては、まあ、事情が色々とあったのだ。とりあえず野暮は言いっこなしの方向で頼む。


「それでつけた名前が『彦次郎』はどうなんだろう」当の本人はもの言いたげに、首を傾げた。

「何だ、俺が付けた名前に文句があるのか?じゃあ自分で他にいい名前をあげてみろよ」


彦次郎は少しだけ考えた後で、言った。


「んー、そう言われると彦次郎を超えるような名前は思い当たらないな」

「そうだろう、そうだろう」

「ふむ、・・・なんだか悪くない気がしてきた」

「悪くない?違うね。最高だろ?」

「・・・・・・ああ、最高だ。彦次郎」彦次郎は自分の名前を噛みしめるように呼ぶ。



「あ、もうこんな時間だ」


俺は走って横倒しになった自転車の元へ戻ると、カゴから携帯ラジオを取って戻ってきた。はじめベルトにラジオを結んで持っていこうとしたのだが、ズボンがずり下がるやら、うっとうしいやらで諦めて自転車のカゴにぶち込んだんだった。手に持ったラジオのアンテナを伸ばす。ダイヤルを回して、ローカル局の周波数に合わせた。


『聞いてもらいました曲は、平嗄(たいらなつ)でRAGDOLLでした』

「あちゃー、もう半分以上聞き逃してるみたいだ」

「平嗄?それって確か、あのショッピングモールにいた?」 


二人のちょうど真ん中に置いたラジオ。一緒に耳を傾けていた彦次郎が訊ねる。


「正解。深夜にラジオパーソナリティーをやってるって親父に聞いてな。今週から聞くことにした」

「またどうして」

「だってお前、手を握り合った間柄だぞ?二人で当たりくじを喜び合った間柄だぞ?聞かなきゃ駄目だろ~」

「あっちはもう束矢の事を覚えてないと思うぞ」そう言って、彦次郎は鼻で笑った。


するとラジオの音声とは別に、一定のリズムを刻む高い音の繰り返しがどこからともなく聞こえてくる。それは気温によって金属が変形し、レールが曲がってしまわないように余裕を見て敷かれた線路のつなぎ目を、巨大な体を支える沢山の車輪が越えていく音だった。卓球の上手い人同士がする、ラリーの音によく似ている。


「聞こえるか?」

「ああ、聞こえる。しかし、近くに線路なんてあったかな?」

「夜になると遠くの電車の音が聞こえるんだよ。俺はこの音が結構好きなんだ。リラックス効果がある気がする」

「こんな時間でも電車は走っているんだな。一体どんな客が乗っているんだろう」

「客なんか乗ってねえよ。夜はな、貨物列車が走ってるんだ。昼間は普通列車が一々駅で止まるだろ?だから長い距離を一気に移動したい貨物列車は、夜中の方が多いんだ」


彦次郎はそれを聞いて、思い詰めたような顔した。そして、声のボリュームを一段と下げて言う。


「聞いた話だが、人が死ぬのも昼間より、夜の方が多いらしいぞ」

「はあ?何だよそれ。迷信?怪談話?そんなの聞いた事ないぞ」

「ぬ、信じてないな?」

「ん、・・・まあな。一体誰に聞いたんだよ」

「聞いて驚くなよ、・・・・親父さんだ」


俺はがくりと肩を落とし、興奮した調子で顔を近づけてくる彦次郎を諌めた。


「親父が真剣な顔で話す時は、話半分に聞いとけばいいぞ。たいがい嘘で、何の裏付けもないからな」

「そうなのか?」ポカンとした表情の彦次郎。「じゃあ、人が生まれるのも夜の方が多いって、あれも嘘かな?」


唖然とする彦次郎を尻目に、ラジオからポップなBGMに乗せた平嗄のチャーミングな声が流れる。


『前々から告知してた新曲なんですけど、曲が先に出来たので、今は詩を書いている真っ最中です。ファンの皆、もう少しだけ待っててにゃー』



切りの良いところで、自転車を起こしに行った。スタンドを倒し、サドルに腰掛ける。空にはまだ全体的に分厚い雲がかかっていた。遠くで、救急車のサイレンの音が鳴っている。


「束矢は親父さんに似てるよな」彦次郎が呟いた。

「は?どこがだよ。俺は親父みたいに節操なしじゃないぞ。アイドルなら誰でもいいなんて」ガードレールに座ったままの彦次郎の背中に言う。「俺は(なっ)ちゃん一筋だから」

「そういうことじゃないんだがな・・・・・・。でも、やっぱりよく似てる」


そう言った彦次郎の表情はここからじゃ覗けない。彦次郎は、なかなか振り返ろうとしなかった。




その後、俺は自転車で、彦次郎は徒歩で目的地に辿り着いた。そして朝方まで粘ってみたものの、収穫らしい収穫はなし。仕方なく帰宅した。幸い親父はまだ目覚めておらず、俺たちは抜け出したのと逆の手口で部屋に戻り、着替えもしないで布団にもぐった。

夕方になって、携帯電話の着信音に起こされた。メールの差出人は四姫(しき)先輩。昨日出かける前に送った俺からのメールが気にかかり、何度もメールを寄こしていたらしい。メールボックスには眠ったまま気がつかなかった未読のメールが溜まっていた。そのメールの受信時間を見て、俺は思わず噴き出してしまう。一分の狂いもなく、三十分置きにメールを送っているのが実に四姫先輩らしい。

俺は眠気眼(ねむけまなこ)で、先輩に報告のメールを打った。すると先輩からすぐに返信が。その内容によると、どうやら連日続いた怪事件だったが、何故か今朝はそれらしい形跡が見つかったという情報が出回っていないらしい。それで余計に心配になったんだとか。『無茶しないでね』との一文が、メールの最後に添えられていた。

連続五日続いたそれが、昨日ぴたりと止んだ。たまたまなのか、あるいは何か意味があるのか。謎は深まるばかりだが、俺の予測した現場がまだ間違いと決まった訳ではないという所にだけ、少しほっとして胸を撫でおろす。

ちなみに同じ時間に布団に入ったはずのヒコは、3時間ほど睡眠をとり今日もいつも通り店の手伝いをしたらしい。絶対に化け物だ、こいつ。


今日も今日とて自分の靴とヒコの靴を手に部屋に戻ってきた俺を、渋い顔をした彦次郎が待っていた。どうやら乗り気ではないご様子。体力的に辛いのかと思い、訊ねてみた。三時間の睡眠時間で、割とハードな店の手伝いをこなしたのだ。それも仕方がないかと思ったのだが、どうやら的外れらしい。「それは構わないんだが」と前置きしてから、続けた。


「束矢がわざわざ俺の事を色んな場所に連れ出そうとしてくれている事には感謝している。正直に言うと、それが親父さんの望みだという事も知っている。だが俺は二人の気持ちに素直に答える事が出来ない。それは束矢のせいでも、親父さんのせいでもない。単純に俺自身のせいなんだ」


彦次郎は珍しく伏し目がちに言う。いつもであれば堂々と相手の目を見ながら喋るのに、今はまるで浮気を咎められた優男のようだった。自然と猫背になり、撫で肩を通り越して益子焼の花瓶に瓜二つ。視線を彷徨わせるうち、俺が平積みにしていたエロ本の山に辿り着き、目のやり場に困ったのか今度はサーカスの空中ブランコみたく優雅に踊る趣味の悪いキーホルダーの方を見つめた。


「それは、お前の記憶に関係があるのか?」

「・・・・・・ああ、そうだ。知っての通り俺には束矢に助けられた以前の記憶がない。日常生活の事は薄っすら分かっても、自分自身の事が何一つだ。名前すら覚えていない」

「でも医者はいつか思い出すかもしれないって」

「ああ、別にいいんだ。記憶が戻ろうと戻るまいと、今の俺には親父さんと束矢がいる。『戻ればラッキーだ』くらいで、気にしちゃいない。・・・いないつもりなんだ。でも、日々生活していると、ふと我に返る時があってな。すると胸の奥からこみ上げてくるんだよ。『お前は一体何をしている?他にしなければいけない事があっただろう?』って」

「しなければいけない事、それが店の手伝いだって言うのかよ」

「いや、たぶん違うと思う。でも、他の何をしているよりも一番気が紛れるんだ。それに、しなければいけない事をしているような気にもなれる」


そう言うと、彦次郎は黙ってしまった。そのまま数十分とも思える沈黙。実際には二、三分ほどだろう。俺は何を言うべきか悩み、結局答えは出なかった。きっと俺が今何を言ったところで、ヒコの心には届かないと勝手に決めつけてしまった。


「・・・ああ、そうかい。分かったよ」俺は一人靴を履いて、窓から出ていこうとする。

その背中に彦次郎が言った。

「悪いな、俺は束矢みたいにはなれないみたいだ」

「・・・かもしれないな」


後ろ手に窓を閉める。背中越しにカーテンと鍵の閉まる音が聞こえた気がした。



昨日は二人で立っていた場所に、今日は一人で立っている。同じ時間に家を出発して、昨日よりも幾分か早く目的地に着く事が出来た。そりゃそうだ、今日は坂の頂上で道草を食っていないから。

周りの建物に比べて横長な外観、歩行者を飲み込むような広いエントランス、そして現在上映中の映画のポスターがいくつか並んでいる。ここは食堂で聞いた先輩の話に出てきた映画館。最近の不思議な出来事の発端となった落書きの被害にあった場所だ。俺はとある理由で、次に何かあるとすれば、またここだと睨んでいる。

未だにくっきりと落書きの残る壁を見上げた。


「なんで消さねえんだろ」俺は独り言をつぶやく。「それにしても大したもんだ」


昨日も見て驚いたばかりだ。先輩の話には、形や場所といった説明はあったものの、そのはっきりとした大きさまでは言及していなかった。だから初め見た時は、映画館のシンボルマークかと思ったくらいだ。

直径で言うと、俺の身長を超えている。大抵建物のでかさの方に過敏に反応する彦次郎でさえ、この五芒星の大きさには度肝を抜かれて固まっていた。これを動物の血で。そう考えると、背筋に寒気が走る。一体どれだけの動物に、言葉にするのも(はばか)られるような行為が行われたのだろうか。


「とりあえずここに停めておこう」誰に言うでもなく、宣言した。


映画館の前には駐輪場らしいスペースがカラーコーンとロープで区切ってあり、そこにはいつから置いてあるのか分かったものじゃない放置自転車が数台、停められていた。中にはサドルがない物や、見るからに盗難されたと思われる鍵の壊された物があり、俺は愛車のママチャリをそこから少し離れた場所に大切に停めた。


明かりを求めて、映画館の傍から移動する。昨日に引き続いて、今日も月の姿は見えない。近くに自動販売機を見つけたが、同じように光を求めて群がる身の毛もよだつ蛾の大群に圧倒されて、すぐに身を引いた。仕方なく別の場所へ。映画館の見渡せる範囲に一本だけ消されていない街灯を発見し、その下に陣取った。

俺は金曜の学校帰りに本屋で買った街全域の地図を広げて、先輩から聞いた落書きのあった場所にペンで印をつけていく。一つ、二つ、三つ、・・・。そして、それを事件が起きた順番に線で結んでいくと綺麗な星の形ができあがった。


「こっちが北だから・・・」

 

地図を持ち上げて、よーく観察してみた。形は綺麗なのだが、こう見ると微妙に傾いてしまっている。むむむ、おしい。首を捻る。


「ん?」ふと思いつきで、地図をひっくり返してみた。落書きにあった順番からしても南に位置する映画館が最初だ。それを上に持ってくると・・・・。地図上には、形、向き共に見事な五芒星が浮かび上がった。

 

「逆五芒星・・・」


すると視界の端で、何かが動いた。慌てて視線を地図から映画館の方へ向ける。暗くてあまりよく見えないが、何かがガサゴソと動いている様子。集中してそのうごめく物体を観察していると、それが急に映画館の影を飛び出して、路地裏の方へ走っていく。急いで立ち上がる俺。地図を置きっぱなしにしたまま、とにかくその後姿を追った。


「おい、待て!」


走りながら叫ぶが、当然待ってなどくれない。どころか、少しずつだがスピードが増していく。

見る限り手が二本、足が二本、それに頭が一つ。どうやら人間である。追いかける相手が幽霊や化け物でない事に、一人安堵した。追いかけているつもりが、実は誘い込まれていました。ここが、かの有名なあの世です。なんて事になったら、冗談ではすまない。

だがそれもつかの間。ジーパンに黒のパーカー、頭にフードを被った怪しげな奴は、化け物染みた身のこなしと速さで路地裏を駆け抜ける。夜目が利くのか、障害物をするりするりと避けて、しまいには道を塞ぐように置いてあった鉄製のゴミ箱を、跳び箱でも飛ぶみたいに難なく乗り越えてしまった。

おかげさまで、俺はついていくだけで必死だ。息はどんどん上がれど、足はどんどん上がらなくなる。脳に酸素が足りていないのか、段々体がふわふわしてきた。歯を食いしばり、なんとか気持ちだけで前に進もうとするのだが、差はみるみる広がっていった。

もう駄目か。そう思った時、奇跡が起こる。猫のように素早い動きのフード野郎は、俺と同じで土地勘がなかったのか、行き止まりに突き当たっていた。そこに遅れてやって来た俺が蓋をする形で立つ。


「はぁ、はぁ、はぁ、ちょっと、止まって、タンマ、タイム」


前かがみで膝に手をつき息を整える。ずいぶん走った。ヒコならこんな距離へっちゃらだろうが、俺の場合はそうはいかない。視界の中をちかちかする光の玉がいくつも飛び回り、意識は風前の灯火だ。その間、フード野郎は俺の言葉通り、その場から一歩たりとも動こうとしなかった。

どうにか自分の呼吸を取り戻した俺は、一度大きく息を吐き出した。


「ふぅー。よし、ゆっくりこっちを向け」

「・・・・・」


黙って指示に従う。振り返ってこちらを向いたのだが、ちょうどフードの陰と重なって顔を確認できない。


「そのフードを取れ」俺は邪魔なそれを指さして言う。「紛らわしい動きはするなよ、ゆっくりだ」


フード野郎はそこでも素直に俺の指示に従い、自らのフードに手をかけた。

ゴクリと唾を飲み込む。痛みが伴った。喉がカラカラだった。

だが、奴は急に手の動きを変えて、ポケットから何かを取り出した。それがナイフだと気がつくのに、少し時間がかかった。何せ路地裏という事もあり、辺りは真っ暗。漫画みたいなタイミングで空に月が現れなければ、そのまま気づかないままだったかもしれない。

フード野郎は胸の傍でナイフを構えた。先ほど披露したご自慢のスピードでこちらに向かって突撃する。正直な話、油断もあったが、その時の俺は疲弊しきっていた事もあり、奴の姿を目で追うのが精いっぱいだった。

相手との距離が数メートルとなったところで、ようやく体が動いた。動いたと言うよりは、腰が引けて、後ろに尻もちをついたと言った方が正確かもしれない。その後の俺にできる事と言えば、せめて腕で頭を守る事くらい。お前は、ここで死ぬ。どこか別の場所にいる、冷めた俺がそう言っている気がした。

しかし、そうはならなかった。フード男は倒れた俺の横を何もせずに、通り過ぎていった。耳元で轟音が響く。人が通り過ぎた時に聞こえる音とは到底思えなかった。近くに捨てられていたビールの空き缶が、何度かバウンドした後、奴の後を追う様に転がっていった。フード野郎がいた場所には、甘い、いい匂いと月光だけが残っていた。



「まいったね」


映画館までどうにか戻ってこれた俺は、人影が飛び出してきた場所から奥へと進んだ。そこはどうやら映画館の関係者専用通路のようで、建物をぐるりと一周するかたちでやってきた裏口には、俺の言葉を失わせるに足るだけの物が残っていた。

一番最初に発見されたという落書きとまるっきり同じ落書き。それが裏口の壁一面に描かれていた。噂の通り、ネズミの死体も添えられている。その隣、スプレーのような物で二つの文が走り書きされていて、両者共に一見すると解読不可能な古代文字のようであったが、前者はその意味を知る俺には簡単に読むことができた。後者は、後にその意味を知る事となる。


『ついにやってやった』 『魔王が街にやってくる』




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未成年委員会による日本の壊し方(連載)も同時に書いてます

暇だったらそっちも読んでみてください

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