田中の転生後3
女の子登場させてみました
田中の転生後3
この世界には魔王がいるらしい。エルフ、ドラゴンも。
いま田中は幼い頃、夢中になった世界にいる。
しかし、そこは理想の世界とはとても言えなかった。
魔物に立ち向かうこと、襲われている人間を助けること、そんなゲームのような展開は何一つ無い。スライムにすら勝てない有様だ。
だが、いま田中はこの世界を訪れ、初めて感動に胸を震わせた。
突き抜ける青い空のようなくもりのない瞳、ほんの少しだけ日焼けした肌、風に撫でられる豊かな金色の髪、女神に出会ったのかとすら思った。
「大丈夫?」
少女は、スライムの体液で濡れた剣を手首で返した。何でもないそれらの動作の一つ一つにすら目を奪われる。
この少女は、自分などとは違う。まるで物語の登場人物だ。
「大丈夫みたいだから、あたしもう行くね」
名乗らず恩に着せようとする素振りも見せない。
「ま、待ってください!」
明らかに年下である少女を、田中は敬語で慌てて引き止める。
「なに? もしかしてどこか怪我してるの? 助けに入るのが遅れたあたしにも責任あるかも。村まで介抱するわ」
「ち、違うんだ! ……君が助けてくれたから僕は無傷だ」
「じゃあ、何かしら?」
「その……えーと、是非お礼をさせてもらいたい」
礼をしたいのはもちろんだが、それは引き止めた理由の本質ではない気がした。
「礼ならいいわ気にしなくていいから。んじゃ」
「あっ、ちょっと待って!」
「なによ?」
少女は、いまや怪訝そうな顔になってしまった。
田中は、少女を引き止めた。引き止めずにはいられなかった。ここで彼女を行かせては、それこそ何かが終わってしまう気がした。闇にさした一条の光をかき消してしまうような、そんな思いに囚われたのだ。
しかし、少女に礼は不要と言われてしまえば理由が見つからない。もっと言ってしまえば引き止めるための口実がない。
「僕に、剣を教えてください!」
田中は、げんきんなことではあるが、咄嗟に思いついたにしては良いことを言ったと思った。しかも、あながち口からでまかせばかりではない。嘘ではない本心を吐露できたと思った。
少女は、少し意表を突かれたような顔になったが、その表情をすぐに引き締めた。
「あたしは、人に教えるほどのものを収めてないから」
「いいや、そんなことない、すごかった。その僕を救ってくれた剣、是非――」
田中は、言ってから我が身を省みて罪悪感が湧いた。
(ダライエルという剣士を助けることができなかったのに、僕は……)
自己嫌悪の酸味を帯びた胃液が反吐として腹の底から上がってくる。
「僕にはできなかった。人を助けることが……でも、君は違う。僕は、君から学びたい。お願いだ」
「あなた、名前は? あたしの名前は、ルシア=アドルフィ」
「僕は田中……謙信」
大河ドラマを見ていた親が思いつきで決めた名前を少し恥じながら名乗る。田中は、この名前が原因で幼少期はずいぶんいじめられていた。
「タナカというのね。なんだか、タナカからは、ただ弱い自分を正したいという理由以外のものを感じる。あたしと同じ」
「君と? それは違う」
感謝されたいというひと握りの承認欲求、それなのに、魔物に一睨みされただけで無様に震える足、そして何より自身が裏切ったことにより血に染まっていく被害者。
君は僕とは違う。
「笑ってくれ、僕は勇者に憧れてこの世界に来たんだ。でも現実はハッキリしてる。僕みたいな人間を哀れんだりしない。身の程知らずな僕に、しっかりと現実を叩きつけてくれる。考えてみれば当たり前のことだよ。それまで怠けてばかりの人間が剣の世界に放り込まれて、勇者になんかなれるわけがないのに。勇気に溢れ、目の前の障害から逃げ出さずに立ち向かう、現実の僕とはまったく逆の存在になんか……なれるわけがない」
知らないうちに涙が頬を伝っていた。
「父さんが……」
ルシアがやおら口を開いた。
「父さんが言っていた。勇者っていうのは勇気がある人間じゃない。勇者っていうのは周りの人に勇気を与える者なんだって」
ルシアは、透き通るような青い瞳を細めて笑った。
「確かにいまのタナカは、そんな解釈でも勇者じゃないかもしれないけれど、将来的にならなれるかもよ」
「あ、ああ……」
田中は確信する。
これこそ運命の出会いだ。もう勇者になれなくてもいい。どんなにちっぽけな存在であろうとも人の役に立てる人間になろう。彼女の言葉が現実に打ちひしがれていた自分を救ってくれる凄まじいエネルギーを秘めている。そうだ、彼女こそが本当の――
「あたしはまだ人に誇れるほど強くないけれど、それでも良いなら」
「ありがとう、ありがとうありがとう……」
田中は、ルシアの手を握って泣きじゃくった。こんなことが少し前にもあった気がする。
「うっ、そんな泣くほどのことじゃ……。それよりほら、剣を拾って。スライムに襲われたときに取り落としているわ」
ルシアは、田中の傍らに落ちている剣を拾った。
「え」
手にした剣を持ち上げて、ルシアは硬直したかのようにそれを見つめた。
「この鍔にある打ち込み傷……ねえタナカ、これはあなたの剣?」
「それは、違う」
田中は、これまで起こった経緯を説明する。自分が臆病風に吹かれて見捨てた男のあらまし。
それを初めのうち、穏やかな表情で聞いていたルシアだが、徐々に表情がこわばっていく。田中は話し終えるまで、そのことに終ぞ気づかなかった。
聞き終わったルシアは、引きつった笑みを浮かべていた。
そして、言った。
「父さんを見捨ててくれて、ありがとう」
田中は、時が止まったかのように呆然とした。言葉の意味を理解できない。
「え……?」
ただルシアが、その透き通るような青い瞳のそれぞれに獣を飼っている。状況はそれだけで理解できる気がした。
「あ、あああ……」
「あたしの名前はルシア=アドルフィ。あなたが見捨てたダライエル=アドルフィの娘よ」
「う、あ、ああ」
声にならない声が喉から漏れる。
がくがくと震えてくる四肢を総動員して、田中が行ったことといえば、またもやその場から逃れようとすることだけだった。
あのときより無様に、それに勝る恐怖を抱いて。
「待って」
背後からルシアの声が聞こえる。
「うわああああああああああ! ああ、あ、ああああああああああああああああああ!!」
人は変われない。変わろうと思っても変われないこともある。