田中の転生後2
視点切り替えが読みにくいかもしれません
田中の転生後2
アルフガルドに転生してから数日が経った。
田中は、早くも後悔し始めていた。
後悔しても遅いから仕方ない、と開き直ることなどできない。
そういえば、工藤が最初に別の異世界を進めてきたことを思い出した。素直に忠告に従っておけばよかった。
田中は宿屋の主人の世話になっていた。
田中の嘘の境遇に同情したのだ。
「いやあ、むかし俺も盗賊に身ぐるみを剥がされたことがあってね。さすがにパンツまでは盗らなかった。ずいぶん徹底してるのもいたもんだ」
主人はひとしきり笑うと、受付カウンターで頬杖をついた。
「お客さんが来ないね。タナカさん、今日はもういいよ。どこか遊びに行ってきなよ」
遊びに行こうと思っても、金がないので散歩くらいしかできない。
田中は、宿屋で仕事をしている。しかし、給金はもらっていなかった。労働の代わりに寝食が保証されているだけだ。
元いた世界ならば、コンビニバイトでも同じ時間働けば、ボロアパートで一人暮らししながらでも多少は貯金に回すことができる。
初めのうち、田中はそれについて文句を言おうと思ったこともある。
だが、宿屋の主人はそれについて、まったく負い目を感じている様子がなかった。
普通、田中がこれまで勤めてきたブラック企業の社長は、どこか少しは労働環境に対して負い目を感じており、それが卑屈な態度や弱気として表に現れる。しかし、宿屋の主人にはそれがない。
そして、数日働くうちに田中は気づいた。
毎日の労働で、一日二回食事と寝床が与えられるのは、この世界では破格の待遇なのだ。
村を見回すと、田中が行っている仕事より、遥かに過酷な労働で食事にも困っている村人が少なくなかった。
「いろんなところを歩き回るのはいいけどね、村の外には出ないほうがいい。むかしはこの村も平和だったんだけどね。ほら、件の剣士が魔物にやられたでしょう」
「えっ?」
「けっこう腕が立つ剣士が魔物に襲われたんだよ」
心臓を指で弾かれたように胸が傷んだ。
もちろん田中は、自分のせいで魔物に襲われた中年剣士を知っている。
田中は、村の衛兵に助けを求める際、自分のせいで剣士が不覚を取ったことを白状できずにいた。襲われている人がいるから助けてください、と告げただけだった。
「そ、その人は、どうなったんでしょうか……?」
「まあ、命は助かったみたいだけどね。大怪我を負ったようだ」
「よかったああ、助かったんですね。ちなみにその方の名前と住んでるところとかはわかりますか?」
「ダライエルって人だよ。俺は住んでる場所までは知らないけど、村で聞けばわかると思うよ。けっこう強くて有名な人だったしね。どうもこの村の付近にも強力な魔物が現れるようになってしまったらしい。そんなわけで村の外にはでない方がいい」
田中は、部屋の角に立てかけてある剣を掴んだ。
「じゃあ、ちょっと出かけてきます」
「ちょ、ちょっと、聞いてたの? 剣なんて持って、まるで魔物と戦うみたいじゃないか。村の外に出ちゃだめだって」
「あ、いえ、村の外には出ませんよ」
田中の持つ剣は、どさくさに紛れて持ってきてしまったダライエルの剣だ。
すぐに持って行って、侘びとともに返そうと思った。
「それならよかった。男は剣に狂うものだから」
「狂う、ですか?」
「うん、俺も若い時は日が暮れるまで剣を振ってた。宿屋なんか継がずに戦士になるって息巻いてたよ。あの頃はどんな魔物にも勇猛果敢に立ち向かえる気がしたんだけど」
「そう……なんですか」
「今思えば、馬鹿だったと思うよ。俺みたいに鈍臭いやつが剣で身をたてられるわけがないのにねぇ」
田中は、宿屋を出るなり、ダライエルの自宅に関してさっそく聞き込みを開始した。
情報提供者はすぐに現れた。ダライエルは優秀な戦士として名高いらしい。
「ダライエルさんね。それならあの風車を超えた先だよ。あんた、知り合いかい?」
「ええと、実は返さなきゃいけないものがありまして」
田中は、背負った剣を見せた。
それを見るなり、情報提供者の年配の女性は黙り込んでしまった。
「あの……どうかしました?」
「あんた、余計なことしないほうがいいよ」
「余計なこと?」
「怪我人に鞭打ち様なことするんじゃないって言ってんだよ」
急に語気を強くした年配女性に田中は尻込みしてしまった。だが、ようやくのことで疑問を口にする。
「剣を返したいだけなんですが……、それが何か」
「なんだ、あんた知らないのかい。ダライエルさんは大怪我でもう剣を握ることができない身体になっちまったんだよ」
「そ、そんな」
「だから、剣は返さずにどこか捨てちまいな。可哀想なダライエルさん、娘もいるのにどうやってこのさき生きていくのかね。おい、あんた話を聞いてるかい、どこに行くんだ。滅多なもん見せて、ダライエルさんを追い込むんじゃないよ」
もう田中の耳にそれ以上の言葉は入ってこなかった。
亡霊のような足取りで村を後にする。
「僕にはもう生きる価値すらない……」
田中は自分のことを価値のある人間だと思ったことは無い。けれど、死のうと思ったことは無かった。ただ、存在するだけなら自分にも許されると思っていた。
しかし、自分に対しての認識は変わった。
いま、自分は存在するだけで害をもたらしている。
絶望が数字の零なら、今はマイナスだった。
自分は無価値ですらない。有害な人間だ。
田中は、村を出て辺りを徘徊した。そして、魔物に遭遇した。
薄い緑色の半透明な身体の中に眼球が一つ浮かんでいる。身体はたゆたう水のように絶えず形を変え、なめくじが這いずるように近づいてくる。
田中は、背負っていた剣を体の前で地面に引きずるように構えた。
粘体生物の身体の一部が鎌首をもたげる蛇のように伸びて、田中にぶつかってきた。
構えていた剣で応戦する。
剣は軟体生物の身体にめり込んだが、力のない太刀筋はそれを寸断することはできずに止まった。
軟体生物は田中の身体に巻き付いた。
ギリギリと締め上げられた上、その液体じみた身体が口から侵入してきた。
呼吸ができなくなった田中は、酸欠で点滅しだした視界をぼんやりと眺めながら、内心卑屈に笑った。
(スライムにも勝てないのか。まあ、僕らしい最後だった)
呼吸ができなくなっても、人体は何かを肺に取り込もうとするものらしい。たとえ吸い込むものが空気ではなくともだ。
田中の肺は、酸素を求めて反射的にスライムの身体を吸入した。異物を吸い込んだ途端、あまりの苦しさに咳き込む。
(ああっ、苦しい。観念したはずなのに)
田中は、一度死を受け入れて首をくくったはずだった。
しかし、苦しさが生への渇望を呼び起こす。
(死にたくない! 誰か、助けて、お願い)
ゴボゴボ、と声にならない声で、惨めに泣き叫ぶ。
涙は頬を伝うことなく、スライムの身体に飲み込まれて消える。
途切れかけた意識の中、何かガラスが割るような音を聞いた気がした。
半透明なスライムの身体を通した向こう側で、何かが煌めいた。
全身が熱さで沸騰するようだった。
いや、実際に沸騰していたのだ。スライムの身体がボコボコと泡を立てて溶け出した。スライムの身体に一個浮かんでいる眼球を兼ねる核に細身の剣が突き刺さっていた。
絶命したスライムが己の身体を保てなくなり、バケツでひっくり返した水のように辺りを濡らした。それとともに田中の拘束が解かれた。
肺を満たしていたスライムの身体を吐き出すため、田中は四つん這いになって激しく咳き込んだ。
「大丈夫?」
清流の小石がぶつかり合うような澄んだ声だった。
ようやく咳に気をやらずに済む程度まで落ち着いた田中は顔を上げた。
そこには青空のように煌く瞳の少女がいた。
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軟体生物に巻き付かれた田中をディスプレイ越しに見て、私は慌てて転移部屋に駆け込んだ。
何か無いかと部屋を見回す。
それから部屋に置きっぱなしになっていた、来客用の麦茶がまだ少し入っているグラスを引っつかんだ。
即席の術式で田中がたったいま死にかけている辺りを座標として指定する。
パソコンで再度、田中の様子を確認する。
たったいま、私が転移させたグラスがパリン、と音を立てて割れた。
その音を聞いた少女が助けに現れて、驚く程の手際で軟体生物を仕留めた。
「間に合ったか」
私は、ぐったりと自分の席で安堵のため息をついた。